77話 言うまでもなく彼らは優しく互いを殴り合う。
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——国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
川端康成の「伊豆の踊子」の有名な冒頭部分である。
まるで読み手が自ら汽車に乗り、その景色を見ているような感覚を植え付ける、まさに最高の冒頭部分だと思っている。
こういう景色を自らの目で体験したいという、純粋な好奇心と憧れを抱いていたが、やはり五月にもなると雪国と名高い北陸もその気配を感じさせず、至って心地よさそうな春の日差しが見える。
さすがにこの季節は雪なんてないよなぁ。わかってたさ。でも期待するのは自由だろ? 目に見えて積もることが滅多にない奈良市で生まれ育ったんだから、やっぱり期待はしちゃうよね。
てかさ、いろいろ言っちゃってるけど、そもそも特急電車だし季節違うし北陸だしで違うことだらけだから、何を期待するんだっつー話だよな。
初めての北陸が修学旅行というのは癪ではあるが、逆にこういう場合以外で北陸に来る機会はない。やはり今はこの景色をしっかりと楽しむのが賢明か。
「ねー。せっかくの修学旅行なのに、なんで気難しそうな顔してるのー?」
「あ? いや、これはだな。思考を巡らせることによってリラクゼーション効果を得てんだよ」
「リ、リラ? 難しいことはわかんないけど、もっと楽しくリラックスしよ?」
「いやだからそれを今してるっての」
あのさぁ……。この修学旅行の行きの電車は寝るか、こうやってリラクゼーション効果を得るために思考を存分に巡らせようと思っていたんだが、今朝いきなり高畑が「なんか隣の席になったからよろしく!!」とか意味不明なことを言い出して、ほんとに隣に座っちゃったのよ。まぁ、元々は菟田野の予定だったから高畑の方が全然いいけどさ……。
高畑は何か不満げな表情を浮かべ、俺の左のふとももをつんつんとつつく。
ちょっとなんですか。それはどういう心境なんですか。やめてムズムズする。
「なんだよ」
「……なんでもない」
「何拗ねてんだよ」
「……別に」
見かねて問うてみるも、明らかに何かある答え方で否定される。しかもつつく強さが強くなってるような……。
「言わなきゃ伝わんねぇだろ」
「……京、あたしが隣だったら楽しくなさそう」
「は?」
「だって、せっかく『偶然』隣になれたのに、もっと楽しくしてほしいじゃん!」
えぇー……。そんな理由かよ……。高畑の幼児退行なんて久々に見たわ。
まぁでも確かに高畑と話した回数、時間はそこまで多かったわけじゃないし、こいつなりに気を使ってくれてるのだろう。ならば今はその善意に甘えさせてもらうとするか。
「んだよ、そんなことか。別に俺はお前が隣で助かったけどな」
「そうなの!?」
「だってクラスで話せるの高畑ぐらいしかいない」
「そっか……そうだよね! ふふん、じゃあ喋ってあげる!」
いやそこを嬉しそうに肯定するのやめてもらっていい? 好き好んで一人を選んでるわけだけど、なんかそれされたら、すっごい同情されてる感じがしてしょうがないのよ。
「急に元気になるな」
「元気100倍! アン○ンマン! みたいな?」
ごめん、元気じゃなくて頭のネジがどっかに飛んでいっただけだった。てゆうかそのセリフだと、高畑の首が交換された後みたいになるからやめようか。ちょっと想像したくない。
「お前ってさ、犬みたいだな」
「どういう意味よ!」
「いや構わなかったら不機嫌だけど、構ってやったら元気になるじゃん。まぁ、愛嬌があるってことだ」
「そ、そうかな? へへへ、なんか照れるなぁ」
「ドッグフード買ってやろうか?」
「それはもうバカにしてるよね!?」
いやいや、俺は決してバカにしたつもりはない。ただお腹がすいていたら気の毒だと思ったから、何か飯でも奢ってやろうとしただけだ。
「人の善意をそんな風に扱うのか……」
「えっ、ちょっ、え?」
「いや、いいんだ。高畑は悪くない。ただ余計な気を回した俺が悪いんだ」
「わ、わかったから! ドッグフード買って! ね? あたしちょー食べたい!」
「お前正気か? ドッグフードなんて食べるもんじゃねぇだろ」
「もーっ!!!!」
その声とともに俺の意識は闇に連れ去られた——とまではいかないが、一瞬まじで落ちそうになった。
こいつ、ヘッドロックなんてできるのか。これはすごい特技を見つけてしまったものだ。
というか、顔におっぱいが当たってるって! これはまずいだろ!
命の危険と同時に感じた優しい柔らかさは、俺の荒んだ心を少しだけ癒してくれた。でも息ができないから離してお願い死ぬ。
「さっきからあんたら何してんの?」
「謎っす」
前の座席から声がしてようやく解放された俺は、妙な名残惜しさを胸にしまって、呼吸を整えながら声の主に目を向ける。もちろん菟田野と榛原だ。
「えっ!? いやっ、これは……そう! 京が頼んできたの!」
「おい! 俺はなんも頼んでねぇだろ! お前が勝手にセクハラしてきたんだろうが!」
「せ、セクハラ!? 言いがかりにも程があるよ!」
「こっちのセリフだ!」
当事者でもわかるこの幼稚な言い争いにまるで興味がないように、菟田野は呆れた様子で俺たちを見た。
「さっきから会話全部聞こえてるんだけど。とにかくイチャイチャするなら静かにしてくんない?」
「まじそれっす」
「イチャイチャ!? えっ、やっ、そんなんじゃ!」
高畑はその指摘に慌てふためいた様子で必死に否定する。おいおい、そんなに必死になられるとちょっと悲しいよ。いやまあ当然っちゃ当然なんですけどね。
やがて菟田野と榛原が前を向き、自然と会話はそこで終わった。やってきた無言の時間。こんなにも嬉しくないのは初めてかもしれない。
「あー……なんというか、今日は天気がいいな」
おい俺、下手くそかて。たしかにこうやって誰かと話すことは、俺のこのぼっち人生においてほとんどなかった。でもさ、自分でもわかるよ。流石に今のは有り得ないって。
いやね、ぼっちを言い訳にしたくないけどさ、ぼっちには無理よ。この空間は打破できんて。助けて。
「天気いいね……」
困っていたが、高畑は絞り出すかのように答えてくれた。ありがとう高畑。これスルーされてたら恥ずかしくて顔真っ赤どころじゃなかったよ。
あれ、高畑の方が顔赤くない? どうしたんだろ。
「お前熱あんの?」
「もーっ!!!! そういうとこだって!!!!」
心配になって俯き加減の顔を覗き込むと、謎の非難とともに腹に強い衝撃を感じた。その瞬間、俺は呼吸のしかたを忘れた。
えっ、何? 俺やらかしちゃった? ごめんほんとにわかんないんだけど。
顔を覆って悶える女、腹を抑えて悶える男。傍から見たらきっとやばいやつなんだろうなぁ。
「こいつらアホだ」
「アホっすね」
菟田野と榛原の言葉は棘があって、否定したかったが、今はその余裕もなければ否定するまでもなかった。
今ようやく気づいたのだ。俺たちがアホすぎることに。恥ずかしい。
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