74話 どうにも彼は日常をうまく過ごせない。
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聞きなれたチャイムの音が校舎中に響き渡った。それを合図に、教卓では物理担当の大和田が評議委員に挨拶を促した。
気だるげな「起立」の声に渋々立ち上がり、礼をして座るが、物理は得意でも苦手でもなく、加えて興味もない科目であるため、俺は寝ることを選択した。
というか、高二で俺は文系科目を選択したのに、うちの高校は高三で多くの教科に演習と言って、文理関係なく問題をひたすら解く時間がある。
「じゃあ今日は——高畑、この例題を解き終わったら黒板に書きに来てくれ」
初っ端から当てられた高畑は、隣で「うえっ」と困ったように声を出した。
——忘れていた。こいつの授業では教科書の例題を誰かが解かされることを。
幸いにも回避はしたが、これで当てられていたら、きっと俺はみんなの前で恥ずかしい思いをすることになったに違いない。そう思うと、こういう代わりというのは、人は常に欲しているように思える。
でもそうじゃない場面もある。例えば、そこが自分の絶対的なアイデンティティであれば、きっとそこに踏み入れる人を敵対視し、なにか自分が優位に立てるような点を、何食わぬ顔でその気を裏に隠して示すに違いないだろう。
「京……教えて……」
「……悪い。俺にはさっぱりだ」
俺たちは文系選択者どうし。物理基礎のレベルでもさっぱりである。
だから悪い高畑。俺には……いや、俺たちにはどうしようもない。
高畑は困ったように眉を下げた。
「せめて一緒に書きに行こ?」
「なんでそうなる」
「心細いもん」
「いや一人で行くもんだろ」
高畑は「ちぇっ」と言って、自らの机に向き直った。
人に教えてと言ったにしては、スラスラとシャーペンが動いている。密かに理系できない仲間だと思っていたが、やはり彼女なりに努力しているのだろうか。
果たして、高畑が黒板に行き、計算式などを書いて席に戻ってくると、大和田は「解説するか」と言って、高畑の解法の間違っている場所にバツをしていく。ほとんどの箇所がバツで染まっていくのは、流石に同情してしまった。
「京、部活行こ!」
SHRが終わると、相も変わらず高畑から声がかかる。まあ、この声がなければサボってしまいそうだし、何かと助かってはいるのだが。
「うぃ」
軽く返事して忘れ物がないかを確認した後、カバンを片手に教室を出る。
一歩出遅れた高畑が急いで横に並んだかと思うと、何やら不満そうに見てくる。
「……なんだよ」
「ちょっとくらい待ってくれても……」
「お前が声かけてきたタイミングで用意済ませてないのが悪い」
「それもそう——って、そんなことなくない!? せめて確認してよ!」
惜しくも引っかかってはくれなかった。いつもなら余裕で騙されてしまいそうなのに、今日はまともな思考のようだ。
「失礼仕った」
自分の非を認めるのは大事なことだと思って、素直にここは謝罪しておく。
「え、なんか急にタイムスリップした?」
「いやしてない」
この子はどうしてしまったのだろうか。今日の物理演習で頭をやらた可能性もある。俺は別にタイムスリップなんてしてない。ちょっと昔の人になっただけで時を遡るなんてそんな大層なことできるわけない。
「これはこれは京殿、粋なことを申す……なんちゃって」
高畑、それを言うなら「異なこと」だ。俺は別に粋なことは何一つ言ってねぇんだよ。そんなに気が利かない人間なんで。
……てか同じようなノリで返されるってことはバレてるよね?
恐る恐るちらっと横目で見ると、えらくニコニコしてらっしゃった。
はいこれはもうバレてる。無性に恥ずかしくなってきたよ。
「遅いのだけど」
冷たく恐ろしい雰囲気を纏った声が、扉を開けるなり耳に入ってきた。
俺たちは時間に間に合わなかったのだ。高畑と変なやり取りしながら高校を出て、ふとスマホで時間を確認するも、もはや始まる10分前。急ごうと思ったが、日本海の美味しい魚のように、俺たちは一之瀬高校の生徒の波に揉まれ、脂が乗るどころか落ちていった気がする。
「なにか理由があったのかしら?」
えもしれぬ威圧感に俺と高畑は見事に萎縮してしまっていた。
声質は極めて優しい。抑揚だってまるで寄り添うかのようだ。何も知らない人が聞けば、きっと安心感に包まれるだろう。けれど、それらを帳消しにしているのがこの雰囲気、威圧感だ。
それに目が笑っていない。まるで俺らが言い訳するのを見透かしてるかのように、じっと捉えて離さないのだ。
これほど恐ろしい女は、高校生だということを考慮しても、奈良県内には絶対居ない。だって俺の知ってる奈良県民は基本的に優しい人ばかりだから。
「綾乃っち……これには深い理由が……」
「何かしら?」
「京に置いてかれてそれで言い合ってたら——」
「浅いわ」
登大路は高畑が話終わる前に聞く価値なしと言わんばかりに遮る。「ごめんなさい」と小声で謝る高畑を見て、心が少し痛くなった。
すまん高畑。お前に理由を話させたばかりに俺の分まで怒られてしまって。
けれど俺の口から言う方が火に油を注ぐに違いないんだ。親友である高畑ならば弁明の余地がある。
「そう。わかったわ」
はい勝ち。高畑ありがとう。この恩は決して忘れ——。
「つまりあなたのせいね。紀寺くん」
えっ、ちょっ、なんで。なんでなの? いや、もうさ、完全に終わった流れじゃないの?
「高畑さん、先に部活の用意してなさい」
「はーい」
高畑はお気楽な返事とともに更衣室へと姿を消した。
おい高畑。俺が悪かった。助けてくれ。
「もしかして……高畑さんから話せば罪が軽くなるとでも思ったのかしら?」
やはり俺は登大路に勝てない。きっと勝てる日なんて来ないだろう。
かの高橋紹運は武士としての誇りを守るために岩屋城に七百人ほどで篭城し、島津の大軍を相手に半月の激戦の末に散った。
つまり、時には勝てぬ相手とわかっていても戦わなければならないのだ。いざ——。
「すいませんでしたぁぁぁぁ!!!!」
俺は高橋紹運にはなれなかった。
いや無理無理無理。登大路を相手に誇りだのなんだの言ってられねぇよ。てか散りたくねぇし。
どう考えても時代は令和なんだから潔く謝って命を助けてもらうのが定石だっつの。
「許してほしかったら今日はいつもの倍働きなさい」
「はい……」
条件付きではあるが、なんとか許しを得られそうなため、ちょっと違う意味で仕事にやる気が湧いてきた。
終わった頃には身体の至る所からストライキが起きそうだった。
てゆうか身体って年中無休だよね。これストライキ起こされても文句言えなくね? あ、ストライキ起こされたら文句も言えなくなるか。南無。
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