69話 もとより蜘蛛の糸は存在しない。
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——京くんに質問。どうにもならないことはどうしますか?
橿原線の終点、橿原神宮前駅で降車し、その駅舎を出てすぐの広場に、ちょうど腰を落ち着かせられるスペースがある。
そこに座って周辺を見回せば、そこは奈良県の第二都市の橿原市の市街地の一部分。時間的な面を考慮しても、ここより二つ手前の大和八木駅周辺の方が中心部なので、初詣に行く人を入れてもあまり多くはない。
時刻は既に4時半を過ぎた。季節は冬のため、もう空は暗くなり始めている。その暗さも相まって精神的余裕は正直あまりない。
佐紀さんがあの後車内で唯一発した、誰が聞いても意味深な質問は、もはや答えを得るためのものではなく、次の展開を不安げに想像させるためにしか意味を成していないようだった。
結局俺は、その質問をされた時に何も答えることはせず、ただじっと車内で静かに待っていた。いや、どう答えるべきかわからなかったから何も答えられなかったという方が正しい。
そうした気まずい雰囲気の中、佐紀さんはじっと一点を見つめ続けていた。何か言うでもなく、ただ一点を。
その時の電車が立てる音や周りの乗客の話し声に紛れて微かに聞こえる二人の呼吸音、一点を見つめ続けていた佐紀さんの諦めきったような瞳を忘れることはないだろう。
「はぁー、なんで世界は理不尽なんだろうなー」
状況整理に疲れ、リラックスのために深呼吸しかけたその時、佐紀さんは空を仰ぎながら何かを紛らわすように明るく言った。
「俺でよければ聞きますけど……」
そう言うと、佐紀さんは茶化すかのような表情をしてみせた。
「そのために来てもらったんだよ?」
そう言われて恥ずかしくなって思わず下を向く。
佐紀さんの言う通りで、俺も佐紀さんから何か話があるということを察していた。これではなんだかカッコつけたような気分になってしまう。
消えたい。顔が赤くなってるんじゃと不安になる。
「まあ、そうだね。じゃあ聞いてもらおっかな。私の重くて面倒でどうしようもない話を」
佐紀さんは深呼吸をゆっくりと何度かする。俺はそれが終わって話し始めるまで黙って待つ。
駅を降りた時に佐紀さんが買ってくれた缶コーヒーはもう空だった。
「私ってさ、自慢じゃないけど裕福なんだよね。母親が化粧品メーカーの社長だから。名前は出さないけど、海外にいくつか支社がある大きい会社」
驚いた。どうやら佐紀さんはご令嬢だったようだ。名前は出されなくとも、そのくらいの影響力を持つ化粧品メーカーは俺ですら知っている。
「母親はバリバリのキャリアウーマンで私には興味なし。ただ自分や会社に向けられる周囲からの眼差しを気にして、勉強とか作法とか生活態度に口出しするだけ。逆らえば殴られたり蹴られたり」
佐紀さんは静かに何かを嘲笑うかのように「ははっ」と軽く笑った。
佐紀さんがあの時初めて打ち明けた虐待の過去。それは母親が理想の娘を確実かつ効率的に形成するためだった。
それを理解した時、相槌を打ったりだとか何かアクションを起こせるような空気は漂っておらず、ただ息を呑んで聞くことしか出来ない。
「その海外の支社の一つが、売り上げが急激に伸びてるみたい。それで会議とかで母親に楯突いたり、意見することが増えてきたんだって」
要するにその支社が利益を急激に増やした結果、支社長が余計な権力を握りつつあるようだ。
支社の台頭、本社との対立。内輪での幼稚な競争といったところか。
「母親はそれが気に入らなくて、もう怒り心頭。まあここ数年会ってないから、どうなってるか知らないけど」
そのレベルの会社の社長ともなると、顔を合わせない期間が続くのも無理はない気がする。
それもあってか、佐紀さんは他人事のように冷たく言い放って、空であろう缶コーヒーを両手で握った。
「母親は気の短い人だからさ、その人を支社長から引きずり下ろして追放するみたい。その人は家庭を持ってるらしいのに」
話を聞いていて、そうすることは何となく想像がついた。失礼ながら彼女の母親はかなりの短気で独裁的だ。きっと自分が求める理想の環境、理想の会社に邪魔なものは切り捨てるに違いない。そういう印象だ。
「そっからが問題でね。追放するってなったら当然その地位に空きができるわけ。で、社内でトップ層に位置する人の何人かはその地位を虎視眈々と狙ってる」
最初から何となく嫌な予感はしていた。佐紀さんにそぐわない雰囲気を纏って、普段の佐紀さんを無理やりつくっていたから。
耳を抑えたくなったが、それはしてはいけないから堪えて言葉を待った。
「母親は支社長の座を狙ってる人を知って嘲笑したらしいよ。『あの子が生まれて初めて必要になった』って」
佐紀さんの震える声、悲痛で胸糞な事実をこれ以上聞ける気がせず、早く終わらないかと願った。それは悪い意味ではなく、心が腐った俺でも痛みを覚えるほどの痛々しさに耐えれる予感がしなかったのだ。
「秋には海外に行かなきゃな。だから大学も辞めちゃった」
海外に行く。大学を辞めた。
それを聞いた瞬間、一気に頭が真っ白になった。もう佐紀さんは本当に全てを諦めてしまったのだ。
親の都合に振り回され、いいように利用され、その末に自分の道を狂わされた彼女を理解する、それは想像すら難しい俺にはおこがましい。
ただ佐紀さんは清々しい表情を浮かべていた。その瞳に涙を溜めながら。
なんて声をかけるべきかわからない。わかるはずがない。多分、最適解はありえない。だって、もうどうしようもないのだから。
けれど、そんな佐紀さんになにか言ってあげたくて——。
「泣いてください。無理にでも強くあろうとする人は嫌いです。弱いとこ見せなきゃ苦しいだけです」
咄嗟に出た言葉に佐紀さんは僅かに首を振った。なおも気丈に振る舞おうとする彼女に胸が痛み、気づけば彼女の頭を胸で受け止め、優しく抱きしめていた。直後、微かに嗚咽が耳に届いた。
この人は苦手だ。心の内が読めないし、執着され、深い傷を俺に残したのだから。
しかし、佐紀さんも一人の人である。そんなこと関係なく、弱さを晒すことくらい許されるべきだ。晒せる相手に選んでくれたのなら、今はそれに徹するだけだ。
こうして抱きしめるという行為は、あまり褒められたものではないだろう。恋人関係にない、ましてや好意のない相手にするのは倫理的にいけない。
だが、佐紀さんの呼吸が落ち着き始めてるように感じて、もう少しこのままでいようと思った。
何気なく佐紀さんの顔をちらりと覗き込むと、涙を流しつつも口角が僅かに上がっているように見えた気がした。精神的に不安定になって感情がぐちゃぐちゃになったのだろうか。
世界は本当に理不尽だ。彼女に——佐紀さんに、蜘蛛の糸でもあったらよかったのに。
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