64話 もとより彼女は複雑に咲いていた。
登大路とカフェに入り、クロワッサンとコーヒーを互いに平らげると、そこからはしばしの無言だった。
カフェはショッピングモール内にあるのに、その喧騒さを寄せ付けず静かな落ち着きのある空間だった。そのため店内では他の客がパフェを食べる時や、コーヒーとかの飲み物を飲む時の食器の音が時折聞こえる程度だ。
思わずここにいる人は、俺を含め自分自身で音が出せないんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
俺と登大路は互いにスマホやら読書やら自分の世界に入り込んでいるわけじゃない。ただ何となくこの静けさを心地よいと思っているだろうし、この静けさを破る勇気がないだけな気がする。
ついさっきコーヒーを飲み干したところだが、妙な緊張も相まって喉が少し渇く。それを感じたと同時に口を開いたのは登大路だった。
「ここ、一度来たことがあるの」
ふと目が合ったかと思えば、登大路はふいっと目を逸らして店の前を通り過ぎてゆく人たちを見据えた。逸らした時の瞳は優しかったように感じたが、人々を見据える瞳は少し悲しいように思える。
何か返せるわけでもなく、むしろ続きを待つべきと判断して俺も通りゆく人に目を向けた。
「父と母が離婚する前、つまり私がまだ幼い時に」
その言葉を聞いて少々驚いた。別に登大路の家庭環境に興味があるわけじゃない。ただ初めて登大路の屋敷に乗り込んだ時、母親らしい人がいなかったから、もしかしたらとは思っていた。
「私と綾華が幼い時から、私たちの後継者争いは勝手に始まっていたの。大人って残酷で独裁的ね」
そう言って登大路は、素早く瞬きを二、三度して耳を隠す長く綺麗な髪をそっと耳にかけた。
「親族、会社関係者の大半が私を支持してたらしいわ。けど私って人見知りで不器用で無表情だったから、次第に周りは綾華を支持し始めたわ」
要は当主にふさわしくないと判断されたわけか。なんとも身勝手なことだ。本人の意思に関係なく、勝手に次期社長だなんだと担いでおいて、自分たちの思う人格じゃなければもう用済みですと。
正直この件はもう終わったことだ。それは俺も彼女もわかっている。けどそれは彼女が当時の環境を許したり、容認するわけじゃない。取り巻いていた環境を否定できず、ただ踊らされて過ごすしかなかったであろうその過去を清算することは、きっと苦しんで生きてきた登大路に対する冒涜に近い。
「でも、母さんだけは味方でいてくれた。周りの人たちが私を見限って綾華に味方していったのに、母さんは最後まで私と綾華が望まぬ争いで苦しまないようにって奔走してくれたの」
そう話す登大路の顔はとても悲しかった。うまく言い表せないが、何となくわかってしまった。
——彼女はきっと後悔している。
俺は別に彼女の事情なんて知らないし、知ろうとも思わない。ましてや彼女に対して理解を示したいわけじゃない。けど長年の人間観察の成果と言うべきなのだろうか、彼女の後悔という感情だけは見抜くことができた。
「最後っつーから、何となくその後は想像つくな。まあ、詮索する気ねえから言わんでいいけど」
「あなたって変なところで勘が鋭いのね。古市先生も仰っていたけれど」
目を細めて微笑む彼女に思わず顔を背ける。危ない危ない。可愛いとか思っちゃうところだった。いやまあ普段から美人は美人なんだけどね。
「……後悔してんのか?」
自分でも確信してた答えなのに、咄嗟に疑問形になってしまった。人間観察の成果だとか言ったが、それをアウトプットする機会がなかったら、不自然にアウトプットしてしまうらしい。
しかしまあ、俺という人間も周りの奴らと同様に嘘つきで卑怯だ。
彼女の事情に興味はない、詮索する気はないと言っておきながら、結局は自分の読みを探るような形で間接的に後悔の原因を訊ねたのだ。自分の汚い部分に反吐が出そうになる。
だがそうしてでも俺は登大路のその後悔に近づきたくなったのだ。
「そうね。してないと言ったら嘘に……いえ、してるわ。私が見限られた時点で、後継者争いに関心がないことを意思表示してれば、もう少しマシだったかもしれないもの」
「……らしくねぇな」
彼女が話す度に見せる仮面のような笑顔に心が痛む。普段の登大路は初期よりマシになったといえど、無表情であることが多い。
もちろん笑顔の時もある。けどその笑顔は高畑と一緒に過ごしている時に見せる、心の底からの笑顔だと思う。
——だからこの貼り付けたような笑顔は嫌いだ。
「その気色悪い笑顔やめろ」
「ごめんなさい。でも私は弱いからこうやって強がるしかないの」
そう言うと笑顔は貼り付けなかったが、困ったような顔をした。
いや、登大路は強い。
弱い人間というのは自分が弱いことに気づけない。そもそも弱い人間がいても、そこに自分が当てはまるとは思いもしないのだ。もしくは、気づいていながら自分より下を無意識のうちに探して、それを見つけると勝手に安堵して開き直り、他者の弱さに目を向けて自らの弱さに目を逸らす。
けれど強い人間は違う。強い人間は自らの弱さを知っているし、決して劣るものを見下しはしない。その弱さを改善できなくても向き合おうとする。
自らの弱さを克服したり、解消したりしようとするのは立派だが、その弱さを受け止めることに人の強さというものは存在すると思う。それに——。
「強がってもいいじゃねえか。だって強いんだから」
「話聞いてたかしら?」
「もちろんだ。耳の穴かっぽじりすぎて左右の耳が通じるくらいにはな」
「じゃあ——」
「強いか弱いかなんて要は人のさじ加減なんだよ。俺が強いと思っても、お前が弱いと思ったら弱い。その逆もまた然りだ。簡単に言えば、どっちでもいいんだよ。強かろうと弱かろうと自分は自分なんだ」
だから——。その先の言葉が出てこない。臭いこと言って、今更照れくさくなったとかそういうことじゃない。ただ、やはり彼女の悲しそうな顔が引っかかる。
登大路は後悔してると言った。普段は俺に対して酷い扱いだが高畑にはとても優しい。それは友達がいなかった故に誰の影響も受けなかったこともあるだろう。
しかし登大路を見ていればわかる。彼女の優しさは天性のものだ。望まなかったとはいえ、自分を見限った大人を恨まなかった。複雑な過去を持ち、孤独感を募らせる元凶となった父と妹を許した。負い目を抱えてるとはいえ今でも母のことを案じている。
——ああ、そうか。
ふと頭の中に言葉が浮かんだ。それは俺が彼女に言ってやりたかったことそのままだ。
彼女は普段俺たちといる時は率直に言ってくるし、強引に物事を進める時がある。けどそれは、やるべきことだから、必要な事だから、そんな理由でやってきており、彼女の望みとは少し遠かったように感じる。
だから登大路、お前は——。
「もう少し、やりたいようにやっていいんだぞ」
そう口にした俺は何故か心が軽くなった。
もしかすると、俺は過去の自分を登大路に重ねたのかもしれない。ここまで壮絶ではないが、やはり周囲の環境に恵まれなかったのは共通している。
「紀寺くんにしては気の利いたことを言ってくれるのね」
登大路は、はっとしたような顔をしたかと思うと、すぐに微笑んでそう言った。その笑みは確かに俺がいつも見ている少女の無邪気な笑みだった。
まあ、こいつ言葉が俺を馬鹿にしているのか褒めているのかは知らないが。考え方によるということで褒め言葉と解釈しておこう。
「これで俺の株上がったろ?」
「ええ。まあ、元々の株が既に暴落してたから変わらないけれど」
「けっ。そうかい」
相も変わらず手厳しいが、むしろそれこそが登大路のアイデンティティかとひとり納得する。
俺が不服そうに悪態をつく姿がお気に召したのか、えらく楽しそうな視線をよこしやがった。やはりこの女、俺には優しくない。
まあ、こいつが優しかったら優しかったで鳥肌立つけどな。