60話 もとより彼らを繋ぐ糸は黒かった。
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「諸君! 元気にやってるか!」
朝の九時には似合わない、耳が痛くなるような声が店内に響いた。
誰かなんて、わざわざ入口を見なくてもわかる。わかりたくなくてもわかってしまう。
「古市先生!」
「古市先生、何しに来たんですか?」
「やあ高畑、登大路。そんなに身構えてくれるな。ちょっと時間ができたから寄っただけだ」
歓迎するような様子でパッと明るくなる高畑とは対照的に、俺と登大路はこの人にいい思い出があまりないため軽く身構える。
経験上、この人に会ったら九割の確率で痛い目に遭うのはわかっている。しかも、ちょっとやそっとじゃない。かなりだ。
「む。紀寺、いつもより目に光が宿ってないじゃないか」
「いや、先生って美人なのになんで独神なんだろうって思っただけっす」
「貴様、ぶっ飛ばされたいのか」
ほらこれだよ。結局褒めてもぶっ飛ばされそうになるんだよ。これもう為す術ないやんけ。
「しかしまあ、心做しか雰囲気がよくなった気がするな」
「気のせいですよ。俺ら以外居ないのに変化なんかありゃしないですって」
「ちょっと京! そこ否定するとこじゃないよ!」
高畑が少し焦り気味に制してくる。
そうは言っても、客もいないのに雰囲気の変化なんぞわかるはずがないではないか。
「まったく、紀寺は相変わらず変なところで頭が固いというか、空気を読まないな」
「いやだってよく言うじゃないですか。空気は吸うものだって」
「そういうとこなんだがな……」
完全に呆れた様子で息をついた先生は、んんっと咳払いをして、カウンター席に近づき身を乗り出した。
何やらにやりとした感じで嫌な予感しかしない。
「ふと思い出したんだが、私が直々にホームページをリニューアルしてみた。これでさらなる集客が見込めるだろう」
そう言ってポケットからスマホを取り出して、俺たちの前に画面を向ける。画面を向けられたほんの一瞬、ほん本当に僅かな時間だが店内の空気が凍りついた。
——なんだこれは。ピンクを基調とし、ところどころに散りばめられたピンクに一切合わない緑や黒の謎の星模様、三匹の謎の兎、リンクの掲載場所、統一性のない字体……。しかも「いちのせCafe」が「いちのへCafe」と改名されてしまっている。なぜ岩手。
とまあ、あげればキリがないくらいやばい箇所が無限に出てくる。本当に人が作ったのか、ちょっと賢い猿が作ったんじゃないかと疑いたくなるような悲惨なものだった。
「これって……」
「もちろん、私が貴重な時間を削って作った最高傑作だ」
貴重な時間を削ってとか言ってるけど、削った挙句捨てちゃってんじゃん。これで最高傑作って、普段のプリントや書類作成どうやってるのか不思議でしかたがないんですけど。
「古市先生」
「登大路、これで若者にも人気が出ると思うんだが——」
「馬鹿ですか」
「ぐっ!」
「というか、センスの欠けらも感じられません」
「うっ!」
「これで若者ウケするのなら紀寺くんの顔でも人気が出るかと」
「がっ!」
「冗談は独身だけにしてください」
「ぐふっ!」
登大路の手加減なしの罵倒ひとつひとつが、先生の心を鋭く突き刺していく。いやもう、これは先生に原因があるとはいえど、思わず手で口を覆いたくなるくらい恐ろしい。
……てか、さらっと俺のことも罵倒してたよね。めちゃくちゃ失礼なこと言ったよね。久しぶりに心抉られたわ。
「そ、そんなに言わなくてもいいだろう!」
「では、言われないものを作り直してきてください」
「ぐっ……。そうするしかないな」
え? まだ作る気あるの? これ絶対グレードアップして帰ってきちゃうよ。帰ってきた古市先生になるよ。
「それより今日は用事があって来たんだ」
「さっき時間ができたから寄ったって言ってませんでした?」
「うるさいな。細かいことはどうでもいいんだよ。しばくぞ」
え、怖い。指摘しただけでこんなに理不尽な扱いを受ける男が未だかつて居ただろうか、いや居ない。
眉をひそめて先生をじっと見ていると、先生は俺の方を向いたまま口を開いた。
「紀寺、君に用がある」
「俺ですかい」
「ああ。ということで少し借りるぞ」
先生は登大路と高畑にそう言うと、踵を返して、ついてこいと言わんばかりに顎をくいっと動かした。
拒否権がないのを知っているため、登大路と高畑に「店番頼む」とだけ言って、渋々先生について行く。先生の深緑の艶のある髪が外の風に靡いていた。
古市先生の車の助手席に揺られること数分。車は平城宮跡の駐車場に到着した。平日のためか、他の車は三台しか止まっておらず、静かに過ごすには適している。
その駐車場から僅か700メートル程のところに、かの有名な大極殿が存在する。
「朱雀門の方じゃないんすね」
「そっちは200円かかる。こっちの展示館側は無料だからな。それに大極殿に近い」
先生はそう言うと大極殿の石段を一段ずつゆっくりと上る。最上段まで上りきったところで伸びをして、俺の方を向き、ニカッと笑って手招きした。
「おいおい。私たちの仲じゃないか。そう固くならずについてこい」
「はあ……」
ここまで来て逆らうのも気が引けるため、のそのそと体を動かして石段を上る。
ごうと音を立てながら体全体に打ちつけてくる風に肌がひりつくのを感じながら、先生の後を追う。
二階へ上り赤い欄干に先生が腕を置いたため、横に並ぶ。少し霞んだ若草山が視界に入ってきた。
「調子はどうだ?」
「まあまあですけど」
「そうか。ならいい」
そう言った先生は遠くを見つめたままで、ピクリとも動かない。若草山は霞んだままだ。
「で、用事ってなんすか」
謎の少し重い空気に耐えかねて、こちらから話を切り出すと、先生は欄干から腕を退けて俺の方を見た。その瞳はしっかりと俺を見据えている。
「佐紀が来たそうだな」
やはり古市先生の耳には入っていたようだ。佐紀さんとの件で一番心配してくれているから当然といえば当然なのだが。
「そうっすね」
「佐紀から直接聞いた。とりあえず和解はしたようだな」
「まあなんとか」
「ようやく……とはまだ言えないな」
先生はすっきりしたような、でもどことなく悲しさを秘めたような表情で、俺の肩に優しく手を置いた。その手はとても温かく、冬の寒さを一瞬だが忘れさせた。
「まあ、佐紀さんが理解してくれただけで十分です」
先生はいつもよりは控えめな声で、はっはっはと笑うと肩をポンポンと軽く叩いた。
「君はやはり変なところで優しいな。ま、その優しさが事を進めたのかもしれないが」
「自分じゃそうは思わないっすけどね」
「馬鹿な奴め。自分でそう思ったら傲慢に過ぎないだろう。他者がそう思うことで初めて美談になるというものだ」
肩に置いていた手で俺の頭を軽くチョップした。実は結構な衝撃が来たのは秘密にしておこう。
「しかしまあ大したものだ。君たちは気づいていないだろうが、君たちは今、一歩どころか何歩も進んでいる」
「そう……ですかね」
「ああ。二人を一之瀬高校の中でもっとも知っていると自負している私がそう言うんだ。異論は認めさせないよ」
ビシッという効果音が聞こえそうなぐらい勢いよく親指を立てた。
その自負は果たしてどうなのかと言いたいが、余計なことはせずに素直に飲み込んでおく。
すると先生は真っ直ぐ立てた親指をすぐに下ろすと、打って変わって暗い顔つきで俺を見た。
「……だが佐紀には気をつけた方がいい。あいつは君のことを諦めちゃいない。むしろ君への執着を深めてるように思う」
「どういうことですか……」
「佐紀から概要を聞いたといったろ? その時に君の名を呼ぶ瞳が……なんというか……光がなかったんだ」
それを聞いた時、背筋が一瞬のうちに凍りついた。明らかに寒さとかそんなものじゃなく、恐怖から来るものだった。
佐紀さんが嘘を言うような人じゃないのは知っている。だからこその反応、むしろ当然といえた。
「まあ何かあったらすぐに来るといい。いつでも力になる。さ、話は以上だ。戻るぞ」
そう言って先生は先に階段を降りていった。
すぐに動く気になれなかった俺は赤い欄干に腕をつき、遠くを眺めることに徹した。いや、正確には景色など入ってこない。
正直、いろいろなことが頭の中を巡りに巡って混乱している。何がどうなってるかさっぱりだ。
ただ……ただ一つあるとするならば——若草山はいつまでも霞んだままということだ。
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