【亜希 20歳 神無月】
――亜希ちゃんに見て貰いたい馬がいるんだ。
調教師の池野に呼ばれて厩舎に行くと、つい最近入舎したのだという子馬が手綱を曳かれて外に出て来た。
陽の光を受けて輝いた毛並みは、目を疑うほどに赤い。
「嘘っ!! 赤毛!?」
「ファーラップみたいだろう?」
思わず声を上げた亜希に池野がニヤリと笑みを浮かべて言った。
ファーラップは『The Red Terror《赤毛の恐怖》』と呼ばれた海外の馬だ。1926年に産まれて1932年に亡くなるまで51戦37勝したヒーロー馬である。
残念ながら――と言うか、当然のことながら、亜希はその馬の活躍を自分の目で見たことはない。おそらく池野もないはずだ。
だけど、映画にもなっているし、歌も作られているし、銅像まで建てられている。
そして、その亡骸は剥製にされてオーストラリア競馬博物館に展示されているので、現在でもその姿を見ることができた。
だが、しかし。
亜希が目の前にいる子馬を見て最初に思い浮かべた馬はフォーラップではない。――赤兎馬だ。
「きっと赤兎馬もこんな感じの毛並みだったんだろうなぁ」
「赤兎馬?」
「三国志に出てくるすごい馬ですよ。赤い馬って言ったら、私は赤兎馬の方が思い浮かびます」
「そう言えば、こいつの馬主も似たようなことを言ってたなぁ」
こいつと言いながら池野が子馬を親指で指し示したので、子馬がぶるるるると鼻を鳴らした。
亜希は子馬の燃えるような毛並みに覆われた長い首に手を伸ばす。とんとんと軽く叩いてやると、子馬はパタンパタンと尾を左右に振った。
「それで、この子の名前は?」
「レッドラビットだ」
「ぶっ‼」
亜希は思わず噴き出してしまう。
だって、赤いウサギだなんて、そのまんま漢字にしたら『赤兎』だし、つまりは『赤兎馬』じゃないか!
「どうだい、この子」
女の子なんだけど、と池野が意味ありげに言う。
こんな風にわざわざ呼び出して馬を見せてくれるということは、池野はこの子馬にかなりの期待を寄せていて、それを亜希に任せようとしてくれているのだ。
しかも、牝馬だ。
「つまり、オークスを狙えるということですか?」
「俺はいけると思っている。亜希ちゃんはどう思う?」
「ぶっちゃけ良い馬だと思います。素直そうだし」
「素直そう? そうかい? 実はな、そうじゃないんだ」
「え、どういう意味ですか?」
「正直に言えば、亜希ちゃんに声を掛ける前に、根岸や及川にも声を掛けて騎乗して貰ったんだ」
根岸も及川も亜希の先輩騎手である。
「いやぁ、参ったよ。まったく走らないんだわ」
「ええー」
「プライドが高いのかね。背中から降りろって暴れ出してさ。根岸も及川もお手上げだったんだ」
「そんな風には見えないのに。今すごく大人しいし」
亜希は言いながらレッドラビットの首を撫でる。
「だからよ、亜希ちゃん。試しに乗ってみてくれないか? 馬主が馬場で待っているから、そこまで歩かせてみてくれ」
「いいですけど」
先輩たちが振り落とされそうになったと聞くと少しばかり怖い気がしたが、恐れというものはすぐに馬に伝わってしまう。
そして、伝われば馬は絶対に亜希を信用してくれなくなるので、亜希はなんてことない顔をしてレッドラビットに話し掛けた。
「いい子だね、レッド。私は亜希っていうんだ。一緒にオークスを走って、女王にならない?」
レッドラビットは大きな瞳を瞬く。
それが返事なのだと思って亜希は続けて話し掛けた。
「レッドは今1歳だから、これから速く走る練習をいっぱいして、2歳になって春がきたらデビューをするんだよ。デビューしたら、いいレースに出られるように一緒に頑張ろう。レースで勝ちを重ねたら、オークスに出られるよ。オークスで勝ったら、レッドは女王だ」
レッドラビットが尾を左右に振ったのを見て、亜希は池野に目配せし、さっとその背に跨った。
ぶるるるるっと鼻を鳴らして、レッドラビットが首を左右に振る。たたらを踏むように1歩、2歩と前に脚を運んで体を大きく揺らした。
「よしよし。レッド、少し歩いてみようか」
亜希は長い首をぽんぽんと軽く叩いてレッドラビットに歩みを促した。
すると、レッドラビットが驚くほど素直に歩き始めたので、池野が、よしっとガッツポーズする。
亜希はそのままレッドラビットを馬場の方へと歩かせた。
「いやぁ、亜希ちゃんならやってくれると思っていたよ。ベルルースも亜希ちゃんが乗れば勝てるしなぁ」
「ベルルースは偶々だと思います」
レッドラビットの横を小走りで追いかけて来る池野に答えると、池野は首を左右に振った。
「明らかに機嫌が違うんだよ。今週末もベルルースのことを頼むよ、亜希ちゃん。――ほら、あちらの方が馬主だ」
指し示された方に視線を向けると、馬場の入口に背の高い男が立っていた。
プロレスや柔道の選手のようなガッシリとした体格をしており、亜希がレッドラビットに乗って近付けば、まるで怒っているかのような険しい表情で亜希を見上げてきた。
「大畑さん、お待たせしました。こちらが先日お話した日岡亜希騎手です」
「日岡亜希です」
池野に紹介して貰って亜希は騎乗したまま、ぺこりと男に頭を下げた。
「亜希ちゃん、こちらはレッドラビットの馬主で、大畑さんだ」
「女か。それに随分と若いな」
不躾に言われて亜希は、むっとする。
ダメだと思いつつも睨み付けるように男を見やると、不意に既視感を覚えた。
(あれ? この人って――)
どこかで会ったような。
しかも、この角度だ。昔この人のことを見下したことがあるような……。
「ああっ‼」
思わず大声を上げて、亜希は慌てて自分の口を片手で塞ぐ。
レッドラビットが不快そうに鼻を鳴らして足踏みをしたので、亜希は彼女の首を軽く叩いて、ごめんごめん、と謝った。
そうしながら、昔の記憶を掘り起こす。
(そうだよ。この人、唔貘じゃん!)
唔貘は呈夙と親子の契りを結んでおきながら裏切り、呈夙を殺した人物だ。
天下無双の豪傑であり、無敵の騎馬隊を率いていた。
その最期は、随州の珂原城である。峨鍈は柢恵の策を用いて珂原城を水攻めにした。
食料を水浸しにされて飢えた珂原城の者たちは唔貘を裏切り、捕らえて峨鍈に突き出した。
そして、峨鍈は唔貘の首を落として、珂原城の城壁に吊るしたのだった。
(ええっ、どうしよう。なんでこんなところに唔貘が!?)
実は蒼潤も唔貘との戦で一枚かんでいる。
珂原城の水攻めで、ひと押ししたのが蒼潤が降らせた雨だからだ。なので、唔貘に恨まれていたとしても仕方がないのだが……。
「現状、レッドラビットに乗ることができるのは、日岡騎手だけです」
「ちっ。仕方がねぇってやつだな。――おい、女! 俺の馬に乗って負けたら承知しねぇからな!」
「はぁ!? 私、まだ乗るって決めてないです!」
カチンと来て、反射的に言い返してしまった。
すると、大畑が目を剥いて怒りを露わにする。
「随分と生意気な女だな! チェンジだ! チェンジ!」
「待ってください。うちには他にレッドラビットに騎乗できる騎手はいませんと言いましたよ。厩舎を変えることになっても構わないんですか?」
「ああ?」
なんて態度が大柄な人なんだろう!
馬主だからって、なんでも許されると思ったら大間違いだ!
――とは言え、唔貘が生まれ変わってこの人になったのだと思うと、納得だったりもする。
とにかく関わらないことが一番だと思って亜希は馬から降りようとした。
「せっかく赤兎馬みたいに格好良くて、勝てそうな馬なのに、馬主がこんなんだったら残念過ぎますね」
「てめぇ、今なんて言った?」
「だから、残念だって言ったんです! 私、降ります!」
「待て。その前だ。お前、赤兎馬を知っているのか?」
「知ってるも何も三国志に出て来るすごく有名な馬じゃないですか。三国志を知ってる大概の人は知っていますよ」
「だよなー」
「は?」
唐突に大畑の態度が軟化したのを感じた。
「赤兎馬、格好良いよな。赤兎馬みたいな馬をずっと捜していたんだ。そんでようやく見つけたのが、こいつだ。体もでかい。負けん気も強い。そして、何よりこの毛並みだ」
「赤いですよね」
「そう、赤いんだ! 赤く見えるよな!」
厳密に言えば、おそらくレッドラビットは栃栗毛だ。
栗毛よりも暗く褐色が強いが、鹿毛のように長毛と四肢の下部が黒くなってはいない。
むしろ鬣は体表の毛色より明るく、陽に透けると燃えるように赤かった。
ちなみに、栃栗毛の馬が産まれる確率は500頭に1頭以下と言われている。かなり希少だ。
「よし、分かった。お前が乗れ」
「は?」
「お前、チビで軽そうだからレッドも機嫌が良いんだろう。女っていうのも良かったのかもしれんな。決まりだ。絶対に勝たせろよ。分かったな!」
よろしく! と言って大畑は慌しく去っていく。
呼び止めようとすれば、仕事だ、忙しいんだよっ、と怒鳴り声が響いた。
あっという間にその背が見えなくなると、亜希は池野に振り返る。
「何あれ!?」
「亜希ちゃん、ごめんな。馬に対する想いは強い人なんだよ。だから、悪い人ではないと思うんだが。ほら、亜希ちゃんも言っていただろ? 馬好きに悪い人はいないって」
「言いましたけどっ。ええ、身に覚えがありますけどっ! でも、何あれ!?」
「とにかく今日から調教を始めたいんだ。だから、亜希ちゃん頼むよ」
池野も困っているんだなと思ったら断れるはずがなく、亜希は渋々頷いた。
△▼
「ただいま」
と玄関を開けたのは亜希ではなく、隆哉である。
先に帰宅していた亜希は飛び跳ねるようにしてソファから立ち上がると、玄関に走った。
「おかえり! どこに行ってたの? 帰ってきたら、隆也さんがいなくてどうしたのかと思った」
「注文したケーキを取りに行ってたんだよ」
「そっか。ありがとう!」
にこにこしてお礼を言えば、はい、と隆哉が亜希の両手にケーキの箱を乗せる。
「もうお風呂に入っちゃった?」
「入っちゃった。だから、ご飯にしよ。お腹ぺこぺこ」
2人でキッチンに移動して、夕食の準備に取り掛かる。
と言っても、ほとんど曽根が作り置きしておいてくれた料理だ。それをテーブルに並べるだけなので、すぐに完了する。
「聞いて。今日ね、ひどいことがあったの。誕生日なのに、ひどい!」
「何?」
テーブルに着いて食事を始めると共に亜希はさっそく今日の出来事を報告する。
「唔貘が現れました」
「は? なんて?」
「だから、唔貘が馬主として現れて、彼の持ち馬の担当になっちゃったの」
「分かった。俺が言って、変えて貰おう」
「待って。やめて。隆哉さんは出て来ないで。ややこしくなりそう」
「だけど、ひどい目にあったんだろ? 黙っていられないなぁ」
「そこをどうにか耐えて。大畑さんって言うんだけどね、その馬主さん。大畑さんは嫌な感じなんだけど、レッドは良い馬だから。私、レッドに乗ってオークスで勝つよ」
「オークス?」
「うん。オークスで勝ったら、隆哉さん、子供つくろうね!」
「ごふっ‼ えっ、子供!?」
食べていた物を軽く噴き出してしまったので、隆哉は口元を拭いながら驚いた顔で亜希に振り向いた。
「えー、何その反応。そういう話だったじゃん。今日、レッドに乗ってみて、オークスが見えて来た気がしたんだよ」
「妊活の話、本気だったんだ? てっきり記者が勝手に書いた記事だと思ってた」
「確かにあの時は軽い感じに言ってみただけだったけど、私ももう20歳じゃん。大人じゃん。本気で目指してみてもいいかなぁって思ってるんだ。だってね、レッドがオークスに出られるの、今年の話でも来年の話でもないんだよ? あと1年半くらい先の話だよ」
「それでも、その時、亜希ちゃんは21歳だよね? 早すぎない?」
「でも、1年半後にすぐ妊娠したとしても産まれるのは更に10カ月後くらいでしょ? 22歳じゃん。私が22歳なら、隆哉さんは36歳だよ?」
「俺のことはどうでもいいよ」
よくはない。
隆哉が子供が欲しくないということなら、それで良いのかもしれないが、男女ともに年齢が上がればそれだけリスクも上がるのだ。
「隆哉さん。子供、欲しくないの?」
「欲しくないわけではないけど、絶対に安全に出産できるというわけじゃないからね。妊娠と出産で妊婦が亡くなったという話を聞くと、亜希ちゃんにはちょっとやめて欲しいかなって思ってしまうよ」
「えー」
「育児は俺がするとしても、妊娠と出産だけは代わってやれないからなぁ」
妊娠と出産を隆哉に代わって貰った場合の光景がふと脳裏に過って、亜希はうっかりニヤニヤしてしまった。
いやいやいや、と亜希は頭を左右に振る。
「育児、私もするよ」
「うん。女性は『やるぞ』とか『やらなきゃ』とか思わなくとも、だいたいやるんだよ。だから、きっと亜希ちゃんもやるだろうけど」
「男の人は違うの?」
「なんだかんだ理由をつけてやらない人がまだまだ多いかな。だから、男は『やる。全部、俺がやる』と思っているくらい調度いいんだ」
「そうなの?」
よく分からないと亜希は首を傾げた。
「2人で頑張って、それでもどうにもならない時は、ガンガンお金を使っていこう。そんな感じに準備と言うか、心積もりはできているけれど、20代前半で出産って、早くない?」
「早くてもいいよ」
「産んで終わりじゃないんだよ? 産んだら、その子の人生が始まってしまうんだよ? それに関わり続けなければならないんだ」
「じゃあ、何歳になったらいいの? 隆哉さんから見たら、私って、かなり子供に見えるんでしょ。ぶっちゃけ、子供が子供を産むなんてとんでもないとか思っているんでしょ? でも、それ、私が何歳になってもずっとずーっとそういう風に見えるんだよ。だって、14歳の歳の差は何年経っても埋まらないからね」
「そんなことは――」
そこで言葉を切って、隆哉は亜希の顔を探るように見つめる。
「初めて見付けた時の亜希ちゃんは、本当に小さくて可愛かったよ。8歳くらいの時だったかな。あの時あのまま連れ去りたかったくらいだった。12歳になった亜希ちゃんも可愛くて、出会ったばかりの頃の蒼潤を思い出したよ。蒼潤も可愛くて、あの小さい口を塞いでやるのが好きだったなぁ。舌を絡めたり吸ったりしてやると、本気で嫌がってきて、それがまた可愛いんだ」
いきなり何の話を始めたかと思えば、若干エロい昔話だった。
しかも、本気で嫌がっている様子が可愛いとか、蒼潤が不憫すぎる!
「蒼潤が20歳の頃は、どうだったの?」
「可愛かったよ」
「そればっかじゃん」
「すごく可愛かった」
「……」
「その頃から、気付けば、綺麗になっていったなぁ。所作はもともと綺麗だったけれど、言葉遣いも改めるようになって、大人びた顔をするようになって――。それに伴って色気がとんでもないことになってた」
「とんでもないって……」
「腰だな。あの細い腰は抱き寄せたくなる。それに目が合えば、すぐに押し倒したくなって――」
「待って。色気に関する具体的な説明はいらない。聞いていられないからね! って言うか、蒼潤の話ばっかりじゃん。結局、何が言いたいの?」
「亜希ちゃんも『可愛い』から『綺麗』になっていっているということだよ。まだ正直、『可愛い』の方が勝っているけれど、亜希ちゃんのこと子供だとは思っていないよ。思っていたら、手なんて出せないし」
「じゃあ、1年半後に、隆哉さんが私のこと大人になったなぁって思えるようになっていたら、子供つくってくれる?」
うーんと唸るような声を漏らして隆哉が顎を親指の腹で擦る。
「逆に聞くけど、亜希ちゃんはどうしてそんなに子供が欲しいの?」
「だって、隆哉さんと私の遺伝子が混ざった結果が子供なんだよ? すごくない? それって、蒼潤にはできなかったことじゃん。蒼潤は散々『生産性がねぇな』って思ってたんだよ。種がもったいないみたいな。私ももし私が隆哉さんの子供を産めなかったら、なんだかすごくもったいない気がする」
種が。――とは皆まで言わない。
「分かった」
「えっ?」
「まだ1年半も時間があるし、俺もいろいろと考えてみるよ」
「考えるって?」
「俺は亜希ちゃんさえいてくれれば幸せだけど、亜希ちゃんとの子供がいたら、もっと幸せなのかなぁって」
「きっと賑やかで楽しくなりそうじゃない?」
「亜希ちゃんみたいな子供ができたら楽しくなりそうだね」
「隆哉さんそっくりな子供でも楽しいと思うよ。私、絶対に可愛がる! たくさん一緒に遊ぶんだ」
「それは妬けちゃうな」
あはははと亜希が笑うと、隆哉が箸を持ち直す。
「さあ食べてしまおう。今日は食後にケーキもあるからね」
「うん」
「亜希ちゃん、誕生日おめでとう。生まれて来てくれてありがとう」
彼が目を細めて微笑んだので、亜希も隆哉に笑顔を向けて、ありがとうと返した。
ありがとう。見付けてくれて。
ありがとう。ずっと変わらずに愛してくれて。
生まれて来て良かったと思うのは、彼とこの現世で出会えたからだ。
だから、もしも、この先、自分の子を持てるとしたら、その子にも出会えて良かったと思えるような相手と巡り合って欲しいと思った。




