【亜希 19歳 皐月その2】
「そっち今、何時?」
スマホの画面に向かって問えば、画面の中の市川がちらりと視線を横に反らしてから答えた。
『7時を過ぎたとこ』
「えっ、7時なの? じゃあ、そんなに変わらなくない? こっち9時だよ」
『あー、夜の7時な。19時』
「そっかぁ、そうだよね。時差が2時間なわけないよね」
市川は今、シカゴにいる。
留学を迷いつつも日本で大学に通い続けていたのだが、昨年の夏を過ぎたあたりで、やっぱりと言い出した。
短期留学ではなく4年間しっかり学びたいとかで、通っていた大学をあっさりと退学。
そして、留学準備を始めたのだが、その頃、頻繁に「1年無駄にしたー!」と言っていた。
シカゴ大学の合格通知が届いたのは、3月の中頃だ。入学時期は9月なので、てっきりしばらくはのんびりしているのかと思いきや、早いところ現地に慣れたいとかで、先月、渡米してしまった。
日本にいる時だって亜希は美浦なので、めったに会うことはなかったくせに、市川が海外に行ってしまったとたんに寂しい気持ちになるのが不思議だ。
『なに? 今日ひまなのか?』
「だって、月曜日だよ」
『こっちは日曜日だし。俺、明日はバイトで朝早いんだ。手短に頼むよ』
「市川、つめたーい」
頬を膨らませてスマホの画面を睨み付けると、市川は、はいはいという感じで手元に視線を落とす。
亜希の話を聞きながら他のことをしているのだ。そして、それを隠そうともしていない。
『殿は? 月曜日なら家にいるんだろ?』
「それが、なんかのトラブル? 先週も今週も月曜日なのに仕事が入ってさ。先週は一緒に東京にいたんだけど、今週は先に帰って来ちゃった。だから、今、家にいないよ」
代わりに、と亜希はちらりと後ろを振り返り、その姿が市川に見えるようにスマホを手にしたまま体の向きを変える。
「じゃじゃーん! 爸爸がいます!」
『あっ、ほんとだ! 城戸さんがいる!』
亜希と市川が自分のことを話していると気付いて、リビングのソファで寛ぎながらテレビを見ていた城戸が眠そうな顔で振り向いた。
そして、亜希のスマホに向かって軽く片手を上げる。
「昨日は城戸さんが隆哉さんの代わりに家まで送ってくれましたー」
『へぇー』
ぶっちゃけ家が辺鄙なところにある。
最寄りの駅は、荒川沖駅か、ひたち野うしく駅なのだが、どちらの駅からも家までバス一本ではたどり着けない。
ちなみに徒歩だと3時間半を超える。これを最寄りの駅と言って良いものか悩むレベルである。
なので、基本的に東京競馬場からの帰りなら隆哉と一緒に彼の車で帰宅するようにしているし、他の競馬場から帰る時は、ひたち野うしく駅まで車で迎えに来て貰っている。
だけど、どうしても隆哉が迎えに来れない時もあって、そういう時は代わりに城戸や水谷が車で送ってくたり、電車に乗ってひたち野うしく駅まで帰り、そこからタクシーを捕まえるか呼ぶかして帰る。
昨日は、城戸が車で送ってくれたので、ラッキーだった。
「しかも、隆哉さんがいないから、ひと晩泊まってくれましたー」
『へぇー』
「夜、一緒にゲームした。格ゲー。私の方が強いから、めちゃくちゃ楽しい」
『リアルだったら、絶対勝てないからな。――けど、城戸さんと、ひと晩二人きりって、殿が嫉妬しないか?』
「夜10時過ぎたあたりに1回、12時前に1回、1時過ぎとその30分後に電話が掛かってきた」
『なんて?』
「早く寝ろ」
『……』
「隆哉さんこそ早く寝なよって思った」
ははは、と市川の乾いた笑い声がスマホから聞こえてくる。
亜希はリビングを出て、2階の自室へと向かった。ここからは本題だ。城戸に聞かれたらマズイというわけではないが、市川との会話を聞かれているのはちょっぴり恥ずかしいので場所を変える。
「でさ」
『うん』
「あの人、最近、忙しすぎない?」
『殿?』
「うん。――トラブルって、何?」
市川はシカゴに行った後も、なんだかんだと隆哉の仕事の手伝いをしていて、明日のバイトだって、隆哉の会社のシカゴ支社でのバイトだ。
なので、今でも亜希よりずっと隆哉の仕事について詳しい。
あー、と市川が何か思い当たるところがあるらしく低く長く声を発した。
『うちの会社の仕事を邪魔してくる会社があるんだ』
「何それ?」
『邪魔って言うか、なんて言うのかなぁ。――今さ、駅に直結したマンションを建てようとしているんだ。ただ建ててお終いっていうわけじゃなくて、駅周辺も整備して、新しく街並みをつくろうとしてんの。それができるように他のいくつかの会社にも協力して貰ってて、土地も抑えたし、周辺住民の理解も得られたし、さあ来年から工事を始めようっていうところまで来てるんだ』
「うん」
『それなのにだ。駅の反対側に、どどーんとショッピングモールを建てようとする会社がいきなり現れたわけ』
「んー?」
意味が分からないと亜希は小首を傾げる。
『殿は駅の南側はそのままに、北側だけを再開発しようとしていたわけだよ。駅の南は昔ながらの小さい商店街なんだけどさ、地元野菜を売っていたり、地元野菜を使った飲食店なんかがあるし、毎年、商店街でお祭りとかイベントを行っていたりするんだ』
「レトロな雰囲気で、そこそこ活気があるわけだね。それを潰して、ショッピングモールを建てようとしてるの?」
『そう。そんなことされたら、せっかく南側の商店街込みで、人の流れとか、若者が集まるような娯楽とか、子育てしやすい暮らしとか、いろいろ考えてきたことが台無しだろ?』
「うーん。でも、ショッピングモールもできたら、もっと人が集まるんじゃない? 他所から買い物に来たりするでしょ?」
『そりゃあ南側には集まるだろうさ。けど、駅の南側のショッピングモールで事が足りるのに、駅を越えて北側にやって来る人がどんだけいると思う?』
「うーん、いないかな」
『だろ? それに、殿の目的はそうじゃないんだよ。その駅周辺の住みやすさを上げて、人口を増やそうとしているわけ』
亜希は自室に入ると、部屋の中央にどんっと置かれたマッサージチェアに腰かける。
スマホを両手で掲げながら、ゆったりと背もたれに寄り掛かった。
「じゃあさ、北側はその街で暮らしている人向けの街にして、南側はよそから来た人向けの街にしたら?」
『それも手だとは思うけど、商店街は? レトロな雰囲気がなくなっちゃうけど?』
「えっ、必要? レトロって、なんとなく懐かしくて良いものっていう感じに言われているけど、実際どうなの? だって、結局、肉も野菜も魚もスーパーで買うじゃん。洋服だって商店街では買わないよ?」
『なんて言うのかなぁ。レトロとひと言で言ってしまっているけど、つまり、その街の独自性なんだと思う。個性って言うか、特徴って言うか。その街独自の雰囲気が大事なんだよ。どこもかしこも駅直結のビルを建てたり、ショッピングモールをつくったりしたら、どこに行ってもみんな同じになってしまうだろ?』
「それじゃあ、つまらないってこと?」
『面白くないと思う』
面白い、面白くないの話であれば、面白くないという話なのだろう。そう思って亜希は押し黙る。
この街にしかないというものがなければ、わざわざその街に足を運ぼうとは思わないのは確かだ。
だけど、その街の住人にとっては、面白さよりも住みやすさだと思うのだけど――。
『それでさ、その会社なんだけど』
「うん」
南側にショッピングモールを建てようとしている会社のことだ。
亜希が市川の言葉に相槌を打つと、市川は話を続けた。
『今までもちょいちょい邪魔してきていたんだよ』
「なんで? 恨みでもかってんの?」
『そう!』
「えっ」
冗談で『恨み』と口にしただけなのに、まさかの大当たりで亜希は驚いてしまう。
「どういうこと?」
『じつはさ、そこの会社の社長って、女性なんだけど……』
「うん」
市川の声のトーンが明らかに変わる。
言い難そうに口ごもりながら、まるで内緒話をするかのように潜めた声で言った。
『何年か前に殿に言い寄って、殿に振られたらしいんだ』
「は?」
ガバリと上体を起こして、亜希はスマホを握る手に力を込める。
「それ、ほんと? いつくらいの話?」
『俺らが高校生の頃の話。高2だったかなぁ。――あっ、久坂は競馬学校か』
市川は変わらず亜希を『久坂』と呼ぶ。
「私、その話、聞いてない」
『久坂に話すほどのことじゃないって思ったんじゃないのかな。あと、話して、不安にさせたくなかったとか』
「そんなことで、私、不安になったりしないよ。むしろ、面白がって聞くし」
『いや、なんでだよ。面白がるなよ。心配じゃないのかよ。浮気されたらどうしようとかさ』
「浮気? 絶対にないよ。だって、隆哉さん、呪われてるんだよ?」
あー、と市川が思い出したように低く唸る。
「でも、一応、その人がどんな人か気になるかな。美人?」
『うーん、まあ。美人の類かな。化粧が濃い感じがするけど』
「へぇ」
『俺さ、この話を聞いて久坂が不安になったら言おうと思っていたんだ』
「何を?」
『その女社長がさ、今でも度々、殿にちょっかいを出してくるけど、心配いらないからな、って』
「ん-?」
亜希は再びマッサージチェアの背もたれに深く寄り掛かって小首を傾げた。
『殿がその女社長に靡くことは絶対にありえないんだ』
「えっ、なんで? 呪われてるから?」
『呪われてなくても。だって、その人、前世が瓊倶だから』
「ぶっ‼」
思わず吹き出してしまう。
亜希は手の甲で口元を拭って、スマホ画面の中の市川を見やった。
「えっ、本当に? 何それ、ヤバイ!」
『びっくりだろ。俺さ、最初にあの人を見た時、二度見したから。そんで、目が点になった』
「うわぁ、現世で女になっちゃったんだ?」
前世と現世で性別が異なるのは、亜希自身もそうなので、それは別に構わないのだが……。
亜希が蒼潤だった頃に、瓊倶に対して抱いていた印象は『必死過ぎて気持ちが悪い人』である。狂気じみた必死さで蒼潤のことを手に入れようとしてきた瓊倶の姿を思い出して、ゾッとした。
「その人、前世のこと覚えてるの?」
『まったく。覚えていたら、殿に言い寄ったりしないだろ』
「そうだよね。こてんぱにされて、首を撥ねられたもんね」
『それなのに、なんでか現世では殿に執着していて、嫌がらせをしてくるんだ』
「それはもうさ、現世でもこてんぱにするしかないんじゃない? 首は撥ねなくていいけど」
『首、撥ねたら捕まるから』
うん、と亜希は頷いてマッサージチェアから立ち上がる。
「いろいろ分かった。ありがとう、市川」
『おう。じゃあ、俺は夕飯を食うから』
「えっ、まだ食べてなかったの?」
『久坂のせいで腹ぺこ』
いや、違う。市川が亜希と電話しながら手元で何か別のことをしているのは知っているのだ。
おそらく隆哉に頼まれた仕事をしていたのか、何かしらの文章を読んでいたか、数式パズルを解いていたかだ。
彼の脳がどうなっているのか知らないが、市川はふたつのことを同時に考えることができるらしい。
なので、亜希からの電話を理由にしているが、本当はもうひとつのことのキリが良くなかったから夕食を取らずにいただけなのだ。
亜希は自室から出て、階段を下りながらスマホ越しに市川に言った。
「また連絡するね!」
『分かった』
「市川も何かあったら連絡してよね」
『はいはい。またな』
プツっとビデオ通話が切れる音がして、亜希はアプリを閉じる。スマホを片手に握り直してリビングの扉を開いた。
リビングのソファでは、城戸が横たわって眠っている。テレビがついたままになっていたので、リモコンのボタンを押してテレビを消した。
すると、静かになった家に車の走行音が聞こえ、まさかと思って亜希は玄関に急ぐ。
「ええっ、早っ‼」
玄関の扉を開いて、亜希は思わず声を漏らした。
ビルトインガレージに黒光りする車がゆっくりと入って行く。
玄関の扉を開けたまま待っていると、ガレージから出てきた隆哉が亜希の姿を見て、目を細めて微笑んだ。
「ただいま、亜希ちゃん」
「おかえりなさい! 早かったね。帰って来るのは夜かと思ってた」
「まさか。そんなに長く亜希ちゃんと離れていられるわけがない」
離れていたら死んでしまうとでもいうように言われて亜希は笑った。
だが、続けて言われた言葉に笑顔が凍り付く。
「水谷に無理やり入れられた夜の会食をキャンセルして帰ってきた」
「え……」
「亜希ちゃん、抱き締めさせて」
「えっ、ええっ!? 待って、待って。キャンセルして帰ってきて大丈夫なの?」
玄関先で抱き締められながら、亜希は不安になる。
水谷に連絡して確認した方が良いだろうか。先程、市川から話を聞いていただけに、いろいろと心配になってしまう。
隆哉が亜希に会いたいがために仕事を疎かにし、会社が潰れてしまったら、それは亜希が彼の会社を潰したようなものだ。彼の会社で働く人たちに申し訳が立たない。
その時、リビングの扉が開いた。
「隆哉、帰って来たのか? 今、水谷から電話が掛かって来たんだが……」
城戸が玄関の方まで歩いて来て、亜希を抱き締めている隆哉を見て怪訝顔になる。
「お前、花園社長との会食を勝手にキャンセルしたんだって?」
「花園?」
「あっ、馬鹿!」
「あー」
何やら様子がおかしい二人を亜希は交互に見上げた。
隆哉は亜希に何かを隠したがっていて、それをうっかり城戸が口にしてしまったという感じである。
隆哉が隠したがっているのは、おそらく……と見当をつけて亜希は隆哉に尋ねた。
「花園って人、誰?」
「……」
――うん、当たりだ。
隆哉が押し黙ったので、亜希は市川との話を思い出しながら、もしかして、と口を開いた。
「隆哉さんの仕事の邪魔をしてる人って、その花園っていう人?」
「亜希ちゃん、なんで知ってるの? 彬、お前が何か話したのか?」
いやいやいや、と城戸が激しく首を横に振る。
「俺は何も」
「なら、なんで亜希ちゃんが知っているんだ」
「隆哉さん、それはどうでも良くて。花園って人、女の人なんだよね? その人と今晩、会食する予定だったの? 二人きりで? 隆哉さんって、その人に言い寄られているんでしょ?」
はっ、と隆哉が息を呑む気配がした。
「そんなことまで知ってるの? 大丈夫だからね。亜希ちゃんが心配するようなことは何もないから」
「うん、それは分かってる。そのことについては、まったく心配していないから大丈夫」
「まったく……? えっ、そこは少しくらい不安がってくれたり、嫉妬してくれたりしてくれないかな?」
「え? なんで?」
「むしろ、なんで!?」
とりあえず二人とも家の中に入ったらどうだ、と城戸が言ったので、亜希と隆哉はお互いに納得いかないという顔をして玄関の中に入った。
3人でリビングのソファに腰掛けると、だって、と亜希が口を開いた。
「――その花園って人、瓊倶なんでしょ?」
「それも知ってるの?」
「瓊倶がつくろうとしてるショッピングモール、どうなったの? そのせいで隆也さん、忙しいんでしょ?」
亜希が身を乗り出して聞けば、隆也は城戸と顔を見合わせて、やれやれというような表情を浮かべた。
「ショッピングモールの話は無くなったよ」
「ほんと!?」
「周辺住民の理解が得られなかったからね。まあ、計画書を見た時から土台無理な計画だと思っていたけど」
「花園社長のところは、ショッピングモールの建設に伴って、道幅の広い道路を通そうとしていたり、大規模な駐車場を造ろうとしていたんだ。商店街はもちろん、周辺の田畑もかなり買い取らなければ土地の確保は難しかっただろう」
城戸が隆哉の言葉に付け加えるように話してくれたので、亜希は城戸の方に視線を向けて頷いた。
つまり、地元野菜を売ったり、地元野菜を使った飲食店などで地域を盛り上げていこうとしている商店街と真っ向から対立したのだろう。
「元々、実現できるとは思っていない計画だったのかもしれないな」
「何それ。ただ、単に隆哉さんに絡みたかっただけってこと?」
「まったく迷惑な話だ」
心からそう言っているということが分かる表情で隆哉が言う。
「水谷のやつ、あの女との会食の予定なんか入れるなって言ってるのに、入れるし」
「水谷が言うには、お前がきちんと花園社長を振ってやらないからだそうだ。面と向かって、きちんと断ってやれ」
「まったく言葉が通じないのに、これ以上、何をどう言えと言うんだ? 俺はいつだって何度も、きちんと断っている」
「えっ。花園さんって、外国人なの?」
言葉が通じないというから、そうなのかと思って聞ければ、隆哉も城戸も大きく首を左右に振った。
「俺の日本語がなぜかあいつの耳に入る前に、もしくは、入ったとたんに意味が歪むんだ」
「昔もそうだったなぁ。話が通じないところは死んでも治らなかったようだな。――ああ、そうだ。話が通じないのなら、いっそ、その目で現実を見て貰えばいいんじゃないのか?」
良いことを思い付いたとばかりに城戸が言ったので、亜希と隆哉は怪訝顔で城戸に視線を向ける。
「お前たち式を挙げていないじゃないか」
式。――結婚式のことだと分かって、亜希は目を見張る。
思わず隆哉に振り向いてしまった。
「式を挙げるとしても、あの女は呼ばん」
「私もできれば、身内だけが良いな」
隆哉の仕事関係者が大勢参列するような大々的な式なんて、きっと気疲れしてしまうに違いない。
「――って言うか、むしろやらなくてもいいし」
「いや、やろう。亜希ちゃんにはウエディングドレスを着せたい」
「そうだな。俺も亜希ちゃんのウエディングドレス姿が見たい」
「はぁ? なんで彬が見たがるんだよ」
「普通に見たいだろう。小さい頃から知っているんだ。娘みたいなもんだろう」
「亜希ちゃんがウエディングドレスを着たら絶対に可愛いに決まっている! 可愛い亜希ちゃんを、なんで俺以外の奴の目に晒さなければならないんだ。やっぱり式はやめよう!」
「おいこら」
隆哉と城戸が従兄弟同士のじゃれ合いのような口喧嘩を始めてしまったので、結局、花園社長に対してどうするのか決まらないまま時間だけが過ぎていった。
だから、おそらく今後も彼女は隆哉にちょっかいを出し続けてくることだろう。