【亜希 19歳 皐月】
ただいま、と玄関の扉を開けて、亜希は家の中に入った。
すぐに返事がないということは、まだ仕事中なのかもしれない。そう思って足音を忍ばせ、階段を上がる。
隆也の部屋の前で耳を澄ませると、部屋の中から声が聞こえてきた。
(仕事中かぁ……)
だからって遠慮して帰宅したことを告げずにいると、後で隆也に不満をぶつけられてしまうので、亜希はそぉっと隆也の部屋の扉を開いた。
「あっ」
短く声を発したのは、隆也のパソコン画面の右下に映し出されていた女性だ。それから、他の者も亜希に気付いて驚いた表情を浮かべる。
「亜希ちゃん!」
ぱたんっとノートパソコンを閉じて隆也が亜希に振り返り、椅子から立ち上がった。
「おかえり。もうそんな時間か」
「ただいま。仕事中だよね。私、先にお風呂に入っちゃうね」
なぜなら馬臭いからだ。
そう言って踵を返そうとすれば、慌てたように隆也が亜希の腕を掴んだ。
「待って。あと5分で終わるから」
すると、『5分では終わりません』とノートパソコンから声が聞こえる。
『今の社長の奥さん? 初めて見た!』
『幼妻、可愛すぎる!』
『一瞬過ぎて見えませんでした。社長、もう一回見せてください』
『はい! わたしも見たいです!』
立て続けに数人の声が聞こえてきた。どうやらウェブ会議中だったらしい。
「亜希ちゃん、10分」
『10分なんて無理ですよ』
「15分!」
『30分ですね。あとふたつほど議題が残っていますから』
水谷の声だと気付いて、亜希はちらりとノートパソコンに視線を送った。
しかし、30分は長い。
馬臭い、そして、汗臭い状態で待てるとしたら、せいぜい浴槽に湯が溜まるまでの時間だ。
「隆也さん、先にお風呂に入っちゃうね」
亜希はにっこりして先ほどの言葉を繰り返した。
結局、隆也は亜希が入浴を終えてしばらく経っても部屋から出て来ず、そろそろ夕食の時間になるので、もう一度、亜希は隆也の部屋を覗きに行く。
「隆也さん。お腹ぺこぺこなんだけど、まだ終わらないの?」
軽くノックしてから扉を開くと、パソコンのキーボードを叩いている隆也の後ろ姿が見えて、亜希は眉をひそめる。
「亜希ちゃん、ごめん! 今終わる。すぐ終わる。――はい、終わった!」
データを保存して隆哉が亜希に振り返った。
終わったというか、終わらせたというか、無理やり終わりにしたという感じだろうか。
「もしかして、仕事、忙しいの?」
「多少……」
「多少?」
「ちょっとしたトラブルがあって」
いや、たぶん『ちょっと』では済まないトラブルがあったのだろう。
それから、隆也は何やら思い出したらしく、表情を凶悪なものに変わっていく。
ちっ、と舌打ちをして苛立ったようにパソコンデスクに肘をついた。
「月曜日には予定を入れるなって言っているのに、水谷のヤツが会食を入れやがった」
「月曜日の夜? じゃあ、月曜日は東京にいなきゃいけないの?」
月曜日は亜希が一日ゆっくりできる日なので、隆哉も仕事を休んでふたりで過ごすようにしていた。
ところが、世間一般には月曜日は平日であり、ごく稀に隆哉に仕事が入ることがあるのだ。
今回のそれもごく稀なパターンで、おそらく先ほどのウェブ会議や今の今まで処理していた仕事と関係のある会食なのかもしれない。
「仕事なら仕方ないじゃん」
「嫌だ。行かない」
「ええっ!?」
「俺の貴重な月曜日を奪う奴は許さん」
「貴重なって、月曜日なんて、これから何回もあるじゃん」
「ない。19歳の亜希ちゃんと過ごせる月曜日は約50回しかなくて、そのうちの20回は既に終わってしまっているんだ」
「えっ。何それ、怖い」
当然のことながら月曜日が20回も終わっていることが怖いのではなく、そんなことを口走ってくる隆哉が怖い。
「俺が80歳まで生きると仮定すると、あと残り47年しか一緒にいられないんだ。そのうちの1秒だって無駄にしたくない」
「待って。47年も一緒にいられたら十分じゃない?」
「十分なものか! 俺がどんだけ月日と労力をかけて君を得たと思っているんだ」
はいはいはいはい、と亜希は心の中で呟いて、気が遠のく思いがした。
俺がどんだけ……というのは、峨鍈も隆哉も度々口にする言葉だ。それを言われる度に、蒼潤も亜希も申し訳ない気持ちになるが、それと同時に盛大に呆れてしまう。
亜希は、わかった、と言って、椅子に座ったまま自分を見つめてくる隆哉を見つめ返した。
「来世の私も隆哉さんにあげる。それでいい?」
「……いい」
なんか妙な間があったけど、とりあえず納得したように隆哉が頷いた。
もう一息なのかな。ここはいつもお世話になっている水谷の力になってあげたいところだと、亜希は隆哉に向かって小首を傾げる。
「隆哉さんが月曜日まで東京にいなきゃならないのなら、私も日曜日は東京のレースで乗るから、その後そのまま東京にいようかな。月曜日の会食までは時間あるの? それとも昼間も仕事? 昼間は空いているのなら、東京デートしよ?」
「東京デート?」
「うん。日曜日の夜は一緒にどっかに泊まって、月曜日の昼間はふたりで都心の方に出かけたい」
わざとらしくならない程度に『一緒に』と『ふたりで』を強調して言えば、隆哉の表情が和らいでくる。
「あと、すっごいかき氷を食べたい。前にテレビで見たやつ。あれって、どこにあるお店だったか覚えてる?」
「銀座か、六本木じゃなかったかな。調べておくよ」
「うん、ありがとう。すごく楽しみだね!」
にこにこして言えば、隆哉が眩しそうに眼を細めた。
そう言えば、とすっかり機嫌が良くなった隆也が口を開く。
「今週末はオークスじゃなかった?」
「うん、そうなんだけど。――私は乗れない」
オークスも東京競馬場で行われるが、亜希が騎乗するレースは3歳未勝利のレースが3つと4歳以上1勝クラスのレース、4歳以上3勝クラスのフリーウェイステークスだ。
奇しくもフリーウェイステークスがその日の10レース目に行われ、その40分後に行われる11レース目がオークスなのだ。
「そっか。……まぁ、そうなるだろうね」
亜希がオークスで騎乗できないのは、あの雑誌の記事のせいだと亜希も隆哉も思ったが口にはしなかった。
「万が一にも亜希ちゃんが勝っちゃったら、マズイと思われているってことだよ。すごいじゃないか。勝つかもしれないと思われているのだから」
「いいよ、そんな慰めてくれなくても。気にしてないし。だいたい、デビュー2年目でオークスで乗れるとは思っていないからね。――それより!」
ぱっと顔を上げて、亜希はほんの少し興奮したように言った。
「今週末のレースで乗る馬がね、月毛なの!」
「は?」
「月毛! 覚えてる? 昔、探してくれたでしょ?」
「……覚えてる」
「昔、話してくれた通りに毛並みが金色に輝いて見えるの! すごく綺麗! やっぱりね、すごぉーく珍しい毛並みで、とくにサラブレッドで月毛なんて滅多にいないんだよ。それなのにその馬に乗れるなんてめちゃくちゃラッキー!」
大喜びの亜希とは対照的に隆哉の表情がみるみる曇っていく。
そして、ため息をついて左手で額を抑えた。やばい。また機嫌が急下降だ。
「俺があんだけ探しても見つからなかったのに………。君に『もういい』と言われた後も探し続けていたんだが、まったく見付からず、結局、見せてやることができなかった」
昔のことを思い出して、表情も口調もちょっぴり峨鍈寄りになっている。
そして、かなり悔しそうだ。
「だから、もういいって。見れたし。気にしないで。――隆也さん、私ね、今、お得な気分なんだよ。昔、叶わなかったことが今叶ったわけで。前世の記憶を思い出してなかったら、こういうお得感は味わえなかったわけでしょ?」
「俺が君に見せてやりたかった」
「……あ、うん」
「その馬の名前は? 馬主の名前は?」
「それ、聞いてどうするの?」
「買い取る」
「やめて」
ぶーぶー、と言って、亜希は自分の顔の前で両腕を大きく交差させた。
「馬、いりません。飼えません。世話できません」
はああああ、と隆哉が大きなため息をついた。峨鍈もそうだったけれど、こういうところはかなり面倒臭い。
亜希は、そうだ! と大きな声をわざとらしく出す。
何だ? と顔を上げた隆哉の目つきは、ほぼ峨鍈になっていて、大変都合が良いと亜希は手を叩く。
「隆哉さん、前世ごっこしよう!」
「なんて?」
「だから、前世ごっこ。私、蒼潤ね。隆哉さんは峨鍈だから。じゃあ、一度、廊下に出るから、私が部屋に入ってきたところからスタートね」
そう言って、亜希は困惑する隆哉を残して廊下に出た。いったん扉を閉め、亜希は瞼を閉ざして深呼吸をする。
これは前々から一度やってみたいと思っていたことだ。うまくできるか分からないし、隆哉が乗ってきてくれるかも分からない。
だけど、きっと楽しいはず!
亜希は、パチッと瞼を開いて扉も開いた。
「おいっ、伯旋! どういうことだよ!」
部屋に入るなり、亜希は声を荒げた。
「俺が後で食べようと思って取っておいたプリンがどこにもない! お前、食べただろう!」
「……」
隆哉が亜希の顔を凝視して、言葉を失っている。
いくらか声を低く出して、荒っぽく扉を開けてみたけれど、違っただろうかと亜希は不安になった。
だが、その時、隆哉がニヤリと笑みを浮かべた。それが昔、蒼潤がよく目にしていた峨鍈の笑い方とそっくりで亜希は胸が高鳴ってしまう。
「お前がいつまでも食べないからだ。賞味期限が切れたものを処分してやったんだろ。感謝しろ」
「はっ、感謝? 賞味期限なんて一日や二日過ぎたところで大丈夫なんだよ」
「4日だ」
「4日!? それはちょっと想定外だったけど、でも、けして食べ忘れていたわけじゃなくて、今日こそ食べるつもりだったんだ」
忘れていたんだろう、という亜希のことを見透かした眼差しを彼が向けてくる。
「昨日まで体重がちょっと不安で食べられなかったんた。だけど、今日やっと大丈夫だって確信できたから。――んで、食べようとしたら、ないし! ひどい!」
亜希はつかつかと隆哉に歩み寄って、椅子に腰かけた隆哉の脚と脚の間に自分の膝を入れて、掴みかからんばかりに圧し掛かる。
「俺の口がプリンを求める口になっているのにどうしてくれるんだよ!」
「どうしろと言うんだ?」
「食べたプリンを俺に返せ」
隆哉の肩に右手を置いて、左手は彼の頬に添える。これでもう彼には亜希がどうして欲しいのか伝わったはずだ。
彼の両手が亜希の腰を支え、彼はニヤニヤと笑みを浮かべた。
「お前のプリンはとっくに俺の口の中を通って行ったぞ。返せと言うのなら、探ってみるといい」
言ってすぐに唇を合わせてくる。
探れと言われたので、亜希は恐る恐る舌を出した。すると、それを吸われて、軽く噛まれる。
残念ながら、プリンの味はまったくしなかった。




