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【亜希 19歳 如月】

 

 指示された部屋の扉を開くと、さして広くない部屋の中で亜希を待っていた女性がソファから立ち上がって亜希を迎えた。


「お忙しい中、ありがとうございます。菊池です。今日はよろしくお願いします」

「お願いします」


 ぺこりと軽く頭を下げて亜希は彼女と対面するように向かいのソファに腰掛けた。

 30歳くらいだろうか。にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべていて、とても話しやすそうな女性だ。

 彼女は再びソファに腰を下ろし、亜希に見えるようにスマホをローテーブルの上に置いて、録音ボタンを押した。


「では、さっそく始めさせて頂きますね」


 そう言って、いったい何が始まったかと言うと、競馬雑誌のインタビューだ。

 今までも何回かインタビューを受けたことはあるが、こんな風に改まった雰囲気で一対一のインタビューは初めてなので、ドキドキしてしまう。


「日岡亜希騎手は、昨年の3月3日、中山競馬1レース、3歳未勝利で初騎乗し、初勝利を収めました」


 菊池は亜希の昨年の主だった騎乗成績を確認するように話し始めた。


「7月7日、福島競馬11レース、GⅢ・七夕賞で重賞初騎乗、初制覇。7月28日、新潟競馬7レース、GⅢ・アイビスサマーダッシュでは、ライバルの兼平かねひら晴菜はるな騎手を破り、制覇。――この時はかなり話題になりましたね」

「兼平さんのおかげです」

「9月8日、JRA見習騎手のGⅠ競走騎乗可能となる通算31勝目を挙げ、11月24日には通算51勝に到達したため、見習騎手の規定により負担重量が4kg減から3kg減に変更。デビュー年は53勝という成績を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手賞を受賞しました」


 他人の口から改めて聞くと、亜希のデビュー年の成績は、じつに華々しい。

 だけど、それを鼻に掛けてはいけない。

 亜希が順調に勝利を重ねることができているのは、亜希自身の力もあるが、それ以上に周囲に恵まれて、そうなるようにレールを敷いて貰っているからだ。

 要するに、勝てる馬に騎乗させて貰っている。


 もちろん、レースに出場する馬たちは皆、勝つ見込みがあるから出場するわけで、レース前からどの馬が必ず勝つとは誰も言い切ることはできない。

 そうは言っても、大きな期待を背負っている馬というのがいる。亜希はデビュー以来、そういう馬に乗る機会を人より多く貰っていた。

 ただし、勝てると大勢に期待されている馬に乗ったから必ず勝てるとは限らない。そこから先は亜希自身の実力が物を言う。

 

 関係者は、一刻も早く亜希を兼平と肩を並べられる騎手に育てたいと考えていて、昨年は亜希に可能な限りの経験を積ませてくれた。

 そして、彼らの思惑通りになった最初のレースがアイビスサマーダッシュだった。


 騎手の二世としてデビュー前から競馬ファンに注目されていた兼平は、努力家な美人で、好感度も高い。

 現役である父親と同じレースで騎乗し、親子対決などと騒がれたこともあった。

 その話題性とビジュアルの良さを見込まれて、騎手デビューから半年後には芸能事務所と契約し、テレビCMやスポーツ番組に出演したりもしている。


 そんな兼平がライバルとして名指ししているのが亜希だ。

 亜希のデビュー戦では、その場にいない兼平の名がアナウンスされ、その後のレースでも亜希は兼平のライバルであるという印象付けをされた。

 そうして迎えたアイビスサマーダッシュで、競馬界は大いに盛り上がる。亜希が兼平を抑えてアイビスサマーダッシュを制覇したからだ。


 課程生だった頃に同期の梶谷が言っていたことを思い出す。

 ――ストーリーはライバルがいてこそ面白い。

 そのライバルは、強ければ強いほど良くて、憎たらしければ憎たらしいほど良いのだそうだ。

 

 強いかどうかはともかく、男の影など微塵も感じさせない清楚系美人な兼平に対して、亜希はデビュー直前で関係者一同が度肝を抜かすようなことを仕出かした。

 ――入籍である。


「日岡騎手は、美浦で今1番期待されている女性騎手なわけですが、――これ、ようやく質問が解禁されたので、さっそくお聞きしますね。――日岡騎手と言えば、デビュー直前で、ご結婚されていますよね。お相手はどのような方なんですか?」


 菊池が興味津々といった表情で尋ねてくる。

 彼女が言った通り、亜希の入籍の話は、デビューから1年間、質問NGであった。

 競馬学校を卒業したばかりの18歳の少女がいきなり結婚したのだ。ネット上では、あらゆる憶測が飛び交い、一時期は亜希が身持ちの軽い男好きみたいな書かれ方もしていた。

 それは奇しくも、兼平を主人公にしたストーリーの悪役として好都合な人物像で、競馬関係者が予想した以上の世間の盛り上がり方をする。

 

 そういうわけで、デビュー当初からしばらく世間と競馬ファンが抱く亜希の印象は最低なものだったが、そんなことなど物ともせずに亜希は次々に勝利を重ねていった。

 すると、次第にネット上の噂話は落ち着き、今では『栗東の兼平、美浦の日岡』と言われるようになっている。


 そして、年が明けてようやく亜希に対してこの話題は解禁されたわけで、その時を待っていたかのようにさっそく菊池に問われ、亜希は隆哉の顔を脳裏に思い浮かべた。


「どのような方……?」 

「はい」

「ええっと、彼は……、なんて言うか………ヤバイです」

「はい?」

「とにかくヤバイです」

「ええっと、それはどういう……? ――あっ、では、出会いからお聞きしても良いでしょうか? 出会われたのはいつ頃ですか?」


 菊池は中卒の語彙力の限界を察して、亜希が答えやすいように質問を具体的なものに変えてくれた。

 だが、亜希は小首を傾げる。


「出会ったのは――」


(あれ? いつだろう?) 


 前世と答えるわけにはいかないから、現世の出会いを言えばいいのだが、亜希が隆哉を認識した時期と、隆哉が亜希を見つけ出した時期は異なっている。

 とりあえず、亜希自身が隆哉を認識した時期を答えようと決めて、中学一年生と菊池に答えた。

 すると、菊池は目をまん丸く見開いて声を上げる。


「中1!?」

「はい、中1の4月です」

「4月……ということは、歳は……」

「12歳でしたね」

「えっ、それって、すごくないですか? 12歳の時に出会った人と結ばれたということですよね?」


 おそらく菊池は幼馴染の純愛的ものを想像しているのだと思う。

 残念ながら、そういうものではないことを打ち明けなければならなかった。


「隆哉さんは――あっ、隆哉っていう名前なんです」


 亜希が自主的に語り出したので菊池はニコニコと笑顔を浮かべて頷く。

 だが、その笑顔は長くは続かなかった。


「隆哉さんは、最初は父の客でした」

「えっ。日岡騎手のお父さまのお客様?」

「父が居酒屋で意気投合した人です」

「はぁっ!? 居酒屋!? えっ、ええっ。ちょ、ちょっと待ってくださいね。――という事は、その時には既に旦那様は成人されていたんですか!?」

「そうですね……。大人でしたね…」


 菊池の中で『幼馴染の純愛』が粉々に打ち砕かれた瞬間だった。

 きっと亜希の話を盛りに盛って、少女漫画ばりの純愛ストーリーを記事に書こうと考えていたに違いない。


「もしかして、随分と年上の方ですか?」

「14歳上です」

「14っ!?」


 菊池は思わず椅子から腰を浮かせて驚く。


「ヤバイですよね?」

「ヤバイですね……」


 菊池は亜希につられたように言って、ハッと我に返り、すぐに謝罪の言葉を口にする。

 

「すみません」

「ぜんぜんいいです。実際、ヤバイんで」

「ええっと、14歳差ということは、つまり、日岡騎手が12歳の頃に……ええっと、26歳の旦那様に出会われたということですね?」

「改めて聞くと、破壊力が半端ないです。自分の話ではなく、友人や姉や妹の話だったら、絶対にやめておけって言います」

「それでも付き合われたわけですよね? 出会ってから、どのくらいでそういう関係になられたんですか? やはり競馬学校の頃でしょうか?」

「いえ、すぐです」

「えっ、すぐ!?」

「はい、出会ってすぐです」


 再び菊池の目がまん丸になる。

 出会いが12歳でも、付き合い始めたのは亜希がそこそこ成長してからだろうと思っていたのだろう。いや、そう思いたかったに違いない。

 だが、何度も繰り返すが、これはヤバイ話なのだ。菊池の希望通りにはならない。


「5月くらいには付き合い始めていました。――って言っても、私が子供だったので、どこに行くにも両親の許可を貰ってからで、入籍するまでデコチュウまででした。ああ、あとほっぺた」

「清い交際をされていたんですね」


 本当かよ、と菊池の瞳が言っていたが、このことに関しては証を示せないため、亜希はその瞳に気が付かない振りをする。

 

「私の成長を6年も待っていてくれたわけで、その精神力? 忍耐力? ――とにかく、それがヤバイです」

「素敵な方だと思いますよ」


 今度は亜希の方が菊池に対して、本当かよ、という眼差しを向けた。

 すると、菊池は唇の端をぐっと持ち上げて、ぎこちない笑みをつくり、質問を続けた。


「日岡選手は旦那様のどういうところに惹かれたんですか?」

「えー」


 難しい質問が来たぞと亜希は身じろいだ。


「隆哉さんは、出会った頃からずっと、とにかく私の望みを叶えてくれる人なんです。私が騎手になれたのも彼のおかげなんです」

「そうなんですか?」


 菊池の表情がぱぁっと明るくなる。ようやく記事に書けるような美談が聞けると期待したに違いない。

 だが、その表情は亜希が語れば語るほど曇っていった。


「私が騎手になりたいって言ったら、私の夢が叶うように力を尽くしてくれました。乗馬クラブの月謝を支援してくれたり、車で送迎してくれたり……。毎週末、千葉に通うようになった時には、スクールの近くに家を借りてくれた時期もあって、競馬学校時代には西臼井駅の近くにマンションを借りて頻繁に会いに来てくれました。会社は東京にあるのに美穂に家を建ててくれて……」

「ちょっと良いですか? 旦那様、お仕事は何をされている方ですか?」


 亜希の話を聞いて、財力が半端ないと感じたようだ。

 亜希自身もまるで自分が隆哉の財力に惹かれたような語り方をしてしまったと反省する。

 菊池の問いには答えず、とにかく、と亜希は口調を強めて言った。


「彼がいなかったら、今の私はなかったと思います。当然、騎手にはなれていなかったと思いますし」

「そうなんですね……」


 亜希が答える気がないと見て、菊池はあっさりと質問を変えた。


「ところで、女性は結婚すると、次は出産を意識せざる得なくなりますよね。日岡騎手は今後の予定について、どのように考えていますか?」

「え……? 今後の予定?」

「つまり、家族計画です。いつ頃、出産したいなぁとか、お考えはありますか?」

「え……ない…」

「ない!?」

「考えたことがなかった!」


 当然ながら蒼潤は子供を産まなかったから、亜希は自分が子供を産むというイメージを持っていなかった。

 だけど、よく考えてみたら、峨鍈には何人も子供がいたわけで、隆哉も子供が欲しいと思っているかもしれない。

 だとしたら、峨鍈には梨蓉たちがいたが、隆哉には亜希しかいないので、隆哉の子供は亜希が産むしかないではないか!


「うわ……ど、どうしよう…」


 大きく動揺する亜希に菊池は慌てて両手を前に突き出した。


「日岡騎手はまだお若いですし、焦らなくても良いと思いますよ。それにデビューしたばかりですし。まず騎手としての今後の目標を考えませんか?」

「今後の目標?」

「ええ、そうです。そのレースに勝ったら、子供のことを考えてみるとかで良いと思います」

「だったら、騎手になりたいと思った時にオークスで勝ちたいって思いました」

「オークス! いいですね!」


 菊池が手を叩いて嬉しそうな表情を浮かべる。

 オークスとは、3歳牝馬限定のGIレースだ。

 一頭の馬の一生において一回しかチャンスがないレースというのは、いくつかあって、オークスもそういったレースのひとつである。

 なぜ亜希がオークスで勝ちたいと思ったのかと言えば、オークスが3歳牝馬の女王が決まるレースだからだ。


 亜希は長らく自分が女であることが嫌だと思って生きてきた。

 それは女であることで不当に不利益を被っていると感じていたからだ。

 だけど、憎むべきは女の身に生まれ落ちた自分自身ではなく、女が不当に不利益を被る社会や環境だと気付いて、男だから、女だからと考えることをやめた。

 そんなことは社会の歪みの一端でしかないからだ。


 子供だった亜希は分かりやすく性差に気を取られていただけで、現実はもっと他にも不当な不利益を被る要因はいくらでもある。

 美醜の差、身長の差、貧富の差。理解力の差。体力差。あげたら本当にきりがない。

 利益を得る者がいる一方で、必ず不利益を被る者がいるという社会は永遠に終わらないし、人間は生まれながらにして不平等を背負って生きている。

 そんな社会や環境で、不利益を被る側に自分がいたとしても、亜希は亜希の人生に挑んで生きていく。

 与えられたものや場所で最大限の勝負をするしかないと決意したからだ。


(――なぁんて、カッコイイことを思っていても、3歩ほど歩けば、やっぱり『女だから』って思ってしまう)


 どう足掻いたって、亜希は女だから、結婚したら苗字が変わるんだとか、妊娠したら今まで通りには馬に乗れなくなるんだとか、そういうことがついて回る。

 もしも結婚しても苗字が変わらないというのなら、デビュー前に急いで結婚しちゃおうということにはならなかったかもしれないし、妊娠しても馬に乗れるのなら、もうとっくに妊娠しているかもしれない。

 

(いやいや、妊娠って、さすがにそれはないか)


 とにかく! どうしたって、女だってことが亜希に付き纏ってくるのなら、それを前向きに捉え直そうと思うのだ。


 じつは馬の世界も同じで、牝馬はどうしても牡馬と比べて体格が小さく、パワーや持久力で劣る。そのため以前は同じレースに出場すると、牝馬はなかなか勝つことができなかった。


 牝馬だから勝てない。――そこで終わったら後ろ向きだ。だけど、前向きに考えてみる。


 牝馬の方が柔軟な動きやスピードに勝っていると言われていて、性格の面でも集中力を維持しやすいとされている。

 加えて、牡馬よりも筋肉量が少ない牝馬は体温が上がりづらいため、夏に強かった。

 これらの特徴を踏まえたレースに出場すれば、牝馬でも牡馬に勝つことできる!


 なので、亜希の最終目標は牝馬に騎乗してダービーを勝つことだ。 

 だって、牝馬は牡馬には勝てないと思われているところで、牝馬が勝てたら小気味が良いではないか。

 不利益を被っている側が、利益を受けている者たちに打ち勝ったら愉快であるように。


 だけど、それは亜希にとって先の話で、まずはオークス!

 オークスは牝馬しか出場できないので、牡馬だ、牝馬だ、と考えずに済むレースであることは間違いない。


「オークスの騎手がみんな女性だったら、面白くないですか?」


 現役の女性騎手の人数を考えれば実現不可能なことだけど、でも、もしそれが実現されたら、男だから、女だからと考えずに済む舞台が完成する。

 そして、その舞台で、亜希が騎乗した馬を女王にする。なんて素敵だろう!

 そんな夢みたいことを言えば、菊池も喜んで話に乗って来た。


「面白いです! 絶対に話題になりますね!」

「みんな女性は無理でも、兼平さんとオークスに出たいです」

「いいですね!」

「それが叶ったら、私の夢は一区切りつく感じだと思います。そしたら、妊活でもしようかなぁ……なんて」


 あははは、と笑った亜希に菊池の瞳がキラリと輝く。

 後日、彼女が書いた『オークスで勝ったら妊活します!』という見出しの記事が掲載された競馬雑誌が発売されて、亜希は再び世間をざわつかせることになった。




 







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