【亜希 18歳 長月】
「ベルルースに乗って貰いたい」
あいつはもう後がないんだ、と言いながら調教師の池野は腕を組み、顎をしゃくった。
亜希は、後がない、と口の中で呟き返して、池野の視線の先にいる栗毛馬を見やる。
先週で8月が終わり、3歳馬の未勝利戦は今週末のレースを残すのみであった。
そのレースで勝てなければ、ベルルースという名の馬はもうここにいることができなくなってしまう。
競走馬の世界は、闇が深い。
競走馬の年齢の数え方は、人間の数え方とは異なっていて、まず、生まれた日から、その年の大晦日までを0歳と数える。そして、年が明ければ、1歳だ。
以後、元旦で1つ歳を重ねる数え方である。
中央競馬の場合、毎年6月から新馬戦が始まるため、2歳の6月からレースに出られるようになる。
新馬戦で勝てば、1勝クラスに上がり、そこでも勝てば、2勝クラスに上がることができ、さらにその上のクラスを目指すことになるが、新馬戦で勝てなかった馬は2歳未勝利馬として、同じように未勝利の馬たちの中で、まずは1勝を目指していくことになる。
年が明けて3歳馬となり、3歳未勝利戦に出走し続けた馬は、その年の夏の終わりに選択肢を迫られる。
3未勝利戦は9月の一週で終わってしまうからだ。
その最後のレースにさえ出走できずに秋を迎えてしまう未勝利馬もいることを思えば、ベルルースは出走できるだけまだマシだった。
「前回のレースでは、惜しくも2着だった。次こそ勝たせてやりたい」
未勝利戦で大敗すると、出走したいレースに出走できない場合がある。
勝てる見込みがあるからこそベルルースは出走を許されたのだ。
池野の言葉に亜希は強く頷いた。
「どう乗ればいいですか? ベルルースが勝てるように乗ってみせます」
未勝利戦を勝てないまま秋を迎えた馬に与えられる選択肢は、次の4つだ。
不利な1勝クラスに出走する。障害未勝利戦に出走する。地方競馬へ転出する。そして、引退である。
どうするのかを決める権限は馬主にあって、多くは地方競馬に転出することを選択するが、他に活躍している馬を所有している馬主などは、活躍を期待できない馬は早々に見切ってしまう場合もあった。
ベルルースの馬主がまさにそういう考え方をする馬主だ。
それについて、亜希はもちろん、池野が馬主に意見することはできない。馬を所有し続けるためには、かなりの費用が掛かるからだ。
しかし、引退した競走馬の行く先を思えば、亜希の胸は鬱々としてくる。
1年間に引退する競走馬は、約7000頭だ。
そのうち、繁殖馬として25年から30年の寿命をまっとうできる馬は、優秀な成績を残したごく一握りである。
では、他の多くの競走馬たちはどうなるのか。
経由に差はあれど、最終的には処分される。
デビューを果たした競走馬を引退直後に処分しては、多方面から避難を受けるのは必須だ。
なので、まず乗馬クラブなどに引き取られる。
ところが、そこで必要とされている馬の数はけして多くはない。
しかも、体格が良く、気性の荒い競走馬は乗馬には向かない。
そのため、名ばかりの乗馬クラブに引き取られ、肥育場を経て、やがて食用として処分されることになるのだ。
ちなみに、食用と言っても、競走馬は筋肉質であり、肉としてはかなり硬いため、馬刺しや焼き肉など人の食用には向かない。
飼料などに加工される場合が多いようだ。
てっきり引退した馬たちは、広々とした牧場で、のんびり過ごしているものだと信じていた亜希にとって『処分』の二文字はじつに衝撃的だった。
この話を初めて聞いた時には血の気が引いて、全身が震えたほどだった。
しかも、デビューさえできないまま処分された馬の存在を知った時には、その夜、眠ることができなかった。
もちろん、競走馬を処分から救おうとする運動もある。処分される前の馬を引き取り、別の仕事を与えるというものだ。
だが、野良犬や野良猫を引き取るのとは、訳が違う。馬を引き取るには、年間40万から100万ほどの費用がかかる。
すべての引退馬を救うことなど、到底できないというのが現実だ。
そんな中、亜希が馬たちに対してできることは、ひとつは騎乗した馬を勝たせることだ。
そして、もうひとつは競馬界を盛り上げること。
多くの人たちに関心を持って貰えれば、それだけ救える命が増えるかもしれない。
ベルルースの調教を終えると、亜希は自転車に乗って自宅へと帰った。
きっと亜希の誕生日頃だろうと思っていた家が、驚いたことに既に完成していて、一昨日の月曜日から亜希は新築の家で暮らし始めていた。
(隆哉さんが無理言って、急がせたんじゃないかなぁ)
60坪の土地に車2台分の駐車スペースと二階建て家が建っている。
隆哉の黒い車はビルトインガレージに駐車されているので、この駐車スペースに停められている2台の車は、来客の車だ。
亜希は自転車を建物の脇に停めると、玄関の中に入った。
比較的広くて明るい色調の玄関だ。
ただいま、と言って靴を脱いで上がり框に立つと、リビングの方から、おかえりなさいと女性が姿を現す。
彼女は身に付けたエプロンのシワを手で払いながら、にこにことして亜希を迎えた。
「曽根さん、来てくれたの!? 今週は家がぐちゃぐちゃだから、お休みでいいって言ったのに」
「だからこそですよ。引っ越したばかりで大変でしょうから、夕食だけ作りに来ました」
「とか言いながら、台所の物はほとんど曽根さんが片付けてくれたんでしょ?」
「片付いていなければ作れませんからね。さあ、手を洗って。うがいをしてください」
隆哉が雇ってくれた通いの家政婦である曽根に追い立てられるようにして、亜希は玄関のすぐ近くにある洗面所に向かった。
曽根には、社宅で暮らし始めた時から世話になっていて、亜希も隆哉も不在な週末と水曜日に掃除と料理の作り置きをして貰っている。
家の鍵も預けてしまえるほど、彼女を信頼しているのだが、その訳は彼女の前世が呂姥だからだ。
もちろん、そうと気付いているのは、亜希と隆哉だけで、曽根には前世の記憶がない。
彼女は現世において、夫や息子と共に幸せに暮らしているのだから、前世の記憶なんて無くて良いのだ。
「家が広くなっちゃって、曽根さん、掃除が大変になっちゃったね」
「構いませんよ。最初からそういうお話でしたから。むしろキッチンが広くなって、明るいので嬉しいくらいです」
「ねえ。料理を教えてって言ったら、教えてくれる?」
「もちろんですよ」
とても使いやすいキッチンですよと言われて、俄然、使ってみたくなった亜希だ。
「さて、そろそろ失礼致しますね。次は日曜日に伺います」
「うん、ありがとう」
曽根を玄関で見送ると、しばらくして曽根の車の走行音が聞こえて、遠ざかっていった。
「亜希ちゃん?」
頭上から声が聞こえて、亜希はハッとする。
玄関横の階段から2階を見上げれば、階段の上にいる隆哉と目が合った。
「帰ってきたのなら、真っ先に俺に顔を見せに来て欲しい」
「うん、次からそうする。部屋は片付いた?」
階段を上がりながら、いなすように頷いて、さりげなく話をそらした。
2階には部屋が4つあって、そのうちの1つは隆哉の書斎だ。
隆哉は都心の方に借りていた部屋を引き払って、そこの荷物も新居に運び入れたため、荷物が亜希の10倍くらい多かった。
しかも、それらを自分では片付けられないと、一昨日から秘書の水谷を呼びつけて片付けさせている。
――俺が片付けると、あるはずの物がなくなる。
そんなバカなと思ったが、そう言えば、峨鍈も執務室の片付けは孔芍に丸投げしていたのを思い出して、亜希は何も言うまいと思った。
階段を上りきった亜希が隆哉の前に立つと、彼は目を細めて両腕を広げる。
亜希は躊躇うことなく、その腕の中に飛び込んだ。
「ただいま!」
「おかえり」
ぎゅっとされながら扉が開けっ放しになっている隆哉の書斎に視線を向けると、すっかり片付いている様子が見えた。
段ボールを潰して紐で束ねている水谷と視線が合って、亜希は隆哉の腕の中から抜け出し、書斎の入口に立つ。
「水谷さん、お疲れ様」
「亜希さん、おかえりなさい」
「荷物が多くて大変だったでしょ。今日も泊まっていったら?」
「いいえ、今日こそ帰らせて頂きます。おふたりの邪魔になりたくないので」
よく分かっているじゃないかと、隆哉が数歩で追いかけてきて再び亜希を自分の両腕の中に閉じ込め、水谷に向かって言った。
「まさか二泊もするとはな」
「あの量を一日や二日で片付けろなんて無理です。わたしも泊まりたくて泊まったわけではないことは言っておきますね」
「戻ったら、あちらにもやることは、たくさんあるぞ」
「分かっています。――社長、くれぐれも今週末の会食、逃げないでください。約束しましたからね!」
「わかった。わかった」
キッと隆哉を睨み付けると、疲れ切った体をよたよたさせながら書斎から水谷は出て来る。
そして、彼は擦れ違う時に、ふっと亜希に微笑む。
「それでは、これで失礼させて頂きます」
「うん、本当にいろいろとありがとうね」
いつも思うが、しわ寄せが一番寄っているのは、水谷に違いない。
市川から聞いた話によると、隆哉が突然方針を変えたり、予定をドタキャンすることなんて、ざらにあることらしい。
その度に、右往左往させられているのが秘書である水谷だ。
今後も数か月に一度、隆哉の書斎を片付けに来るという水谷を玄関まで見送って、来客用の駐車スペースから車が出て行く様子を亜希は見守った。
そして、ついに新居に隆哉とふたりっきりだ!
今さら感も、もちろんあるけれど、新しい家で夫婦として新しい生活が始まると思うと、何やらドキドキとする。
ガチャリと玄関の鍵を閉めて、亜希は大きく息を吸ってから口を開いた。
「と、とりあえず、お風呂に入ろうかな!」
ドキドキし過ぎて、どもってしまった。
そして、誰も何も言わないけれど、おそらく亜希は今、馬臭い。
朝から馬の世話をしてきたのだから間違いない。
浴室は1階にあって、亜希はそこに向かうと、浴槽にお湯を溜めて着替えを整えた。
さあ入ろうっていう時になって、亜希は隆哉にくるりと振り返る。
「もしかして一緒に入ろうとしている?」
「駄目?」
「ダメだよ!」
「そのために広い浴室にしたのに?」
「だと思った! 図面じゃあ、よく分からなかったけど、出来上がったのを見て『お風呂、広っ!?』って思ったよ。――ヤバい。こんな感じのやり取りを昔もしたような気がする! とにかく、イヤ!」
断固拒否、と顔の前で両腕を交差させると、隆哉は呆れたような、少し面倒臭そうな表情を浮かべて、ため息をつく。
ちょっぴり峨鍈の雰囲気を滲ませながら、まるで亜希の方が我が儘を言っているかのような空気を醸し出していて、亜希は納得がいかない!
「何がイヤなんだ?」
「何がって……」
「ずっと一緒に入っていたじゃないか」
「それ、昔の話だからね!」
現世で再会してからは、一度も一緒に入ったことはない。浴室も浴槽も狭かったからだ。
いや、違う。たとえ浴室も浴槽も広かったとしても、一緒には入っていなかった。まだ結婚していなかったからだ。
すでに入籍を済ませていて、隆哉は我慢する必要がなく、浴室が広かったら、そりゃあ一緒に入るだろうという彼の思考回路が分かってしまい、亜希はたじろいだ。
「昔は、日が暮れたら、松明や蝋燭の灯りがあっても薄暗かったじゃん。電気ないし……」
だから、相手の裸体もよく見えていなかったし、自分の裸体も相手にはよく見えていないものだと信じることができていた。
だけど、現代ときたら、電気の明かりがすべてを曝け出してしまう。ぶっちゃけ、恥ずかしいのだ!
「なら、電気を消して入ればいい」
なんだかもう亜希が何を言ってもダメだ。
隆哉が『絶対に一緒に入るぞマン』になっているので、亜希はせめてもの抵抗とばかりに、お湯が白濁する固形入浴剤を浴槽に投げ入れた。
「隆哉さん、私の髪、青くならないからね」
「知ってる」
「改めて見て、がっかりするんじゃないの?」
「しないよ」
電気の明かりを付けていない浴室は、小さな窓から差し込んでくる明かりがすべてだ。それも、みるみるうちに日が暮れて、あっという間に薄暗くなってしまった。
なんとなくお互いの姿が見える程度だ。これなら恥ずかしくないかっていうと、まったくそんなことはなく、恥ずかしいのだが、もうヤケクソの気分になって亜希は服を脱いだ。
「髪を洗ってあげる」
「結構です」
「なら、体を……」
「髪を洗ってください」
視線を向ければ、いかにも楽しそうに隆哉がニヤニヤしている。
亜希は浴室の椅子に腰掛けると、頭は隆哉に任せて、自分の体を洗い始めた。
たぶん、彼は昔のことを思い出しているんだと思う。昔と同じ手付きで隆哉に髪を洗われた。
浴槽は、両足を投げ出しても余裕の広さがある。
亜希がお湯を張ったので、亜希好みのぬるめのお湯だ。
体を洗い終えた順に浴槽に入ると、向かい合って、それぞれ浴槽の壁に背中を預けた。
「亜希ちゃん」
亜希は視線を上げ、何? と僅かに首を傾げる。
彼はすぐには答えず、躊躇しているかのような沈黙をつくってから、そっと口を開いた。
「亜希」
彼のその声が浴室に静かに反響して、亜希は目を瞬かせた。
蒼潤だった頃に峨鍈から『潤』と呼ばれた時みたいな感じがして、胸がドキリとする。
言葉が出ないまま、亜希が隆哉を見つめていると、彼は続けて言った。
「落ち込んでない?」
「落ち込んでないよ」
「心配事でも?」
「ないよ。なんで、そんなこと聞くの?」
「亜希ちゃんの気持ちが100パーセント俺に向いていないように感じる」
「何それ、ヤバいね」
時々、彼は亜希がドン引きするようなことを口にする。
ヤバい人なのだというのは理解しているが、殊更、亜希の心の動きに敏感なので、ヤバいを越えて、怖いとさえ思う。
「今、君の心に引っ掛かっているものは、何?」
「そんなの……」
ない、と言い掛けて、亜希の脳裏にベルルースの姿がパッと浮かぶ。
「隆哉さん、馬だよ!」
「馬?」
「うん、馬。今週末、絶対に負けられないレースがあるんだ」
「なるほど。俺は馬に嫉妬しているのか。仕方がないな。馬には勝てない」
苦笑を浮かべる隆哉に、亜希は浴槽の湯を波立たせて隆哉の方に身を乗り出した。
「なに言ってるの、隆哉さん! 私、馬より隆哉さんの方が好きだよ!」
当然のことのように亜希が言えば、隆哉が不意を突かれたような顔をする。
そして、たぶん喜んだのだと思う。瞳を細めて、ニッと唇の端を左右に引くように微笑んだ。
「亜希ちゃん、もう1回言って。俺のこと好きだって」
「うん。隆哉さんが好き」
「もう1回」
「隆哉さんが好き」
「もう1回」
「隆哉さんが、好き……」
「もう1回」
「好き! キスして‼」
たぶん、際限なく『もう1回』と繰り返されて、言わされるパターンだと予見して、さっさとキスして貰うことにした。
投げやりに言ったので、ムードなんてもんは微塵もないが、唇を突き出すように顔を上げて、ぎゅっと瞼を閉ざせば、ふっと息を吐くように笑った彼の大きな手が亜希の頬に触れる。
「亜希ちゃん」
声の響き、吐息が触れる感覚で、彼の顔が亜希の顔のすぐ近くにあるのだと分かる。
触れそうで、触れない距離に寄せられた唇にもどかしさを覚えて、亜希が薄く瞼を開くと、彼と目が合った。
あっ、と唇が僅かに開いたのを見計らったかのように塞がれて、亜希は再び瞼を閉じる。
優しく触れて離れて、彼は囁くように言った。
「好きだよ、亜希ちゃん。愛してる」