【亜希 18歳 卯月】
「久しぶり!」
待ち合わせのファミレスで、すぐに2人の姿を見付けると、亜希は手を振りながら2人が座っているテーブルに歩み寄った。
パッと顔を上げて早苗が笑顔を浮かべる。
「久しぶり! 今日、大丈夫だったの?」
「日曜日のレース終わった後はフリーだよ。月曜日は休みだし」
亜希が答えると、そうなんだぁ、と早苗が頷く。
「2人は? 大学は?」
「まだオリエンテーションっていう感じ」
そう答えた志保は早苗と向かい合うように座っているので、亜希は志保に詰めて貰って、その隣に座った。
「――って言うか、大学入学おめでとう!」
「「ありがとう!」」
「亜希も騎手デビューおめでとう!」
「ありがとう!」
「ネットニュースになってたね、亜希のデビュー戦! デビュー戦で初勝利って、すごいよね!」
2月に競馬学校を卒業し、美浦所属の見習い騎手となった亜希は、3月に入ってすぐに騎手デビューを果たした。
中山競馬場にて3歳未勝利のレースである。
3番人気の馬に騎乗させて貰い、期待に応えるかたちで真っ先にゴールを駆け抜けた。
「でも、どうして新人の亜希がベテランに勝てるの?」
メニューを大きく開きながら、志保が納得いかないとばかりに聞いてくる。――ごもっともである。
いくら勝てると見込まれた馬に乗せて貰っているからとは言え、それで必ず勝てるわけではないのだ。
3人とも素早く料理を決めて、テーブルに置かれたタブレットのタッチパネルを操作して注文を完了してしまう。
「簡単に言うと、ハンデを貰ってるんだ」
「ハンデ?」
「んーっと、普通に考えたら、馬主としては、自分の馬にはベテラン騎手に乗って貰いたいわけじゃん?」
「勝てなきゃ、お金が貰えないもんね」
「下手したら倒産だ」
「そうなると、新人は馬に乗る機会が貰えないわけだ。なので、見習い騎手は最高5年間、ハンデを貰えるの」
なるほど、と志保が頷き、その後ですぐに首を傾げた。
「ハンデって?」
「こちらも簡単に言うけど、重さ。出走馬がレース中に背負う重さは決められていて、その中には、騎手の体重や馬具の重さが含まれているの。その定められた重さよりも軽かったら、定められた重さになるように重りを付けなきゃいけないんだ」
「へぇ」
「んで、見習い騎手は、その定められた重さよりも、数キロほど軽くして走ることができるんだよ」
「数キロ?」
「勝利数によって1キロから3キロ。でも、女性騎手はさらにハンデを貰ってて、見習いは3キロか4キロ。見習い期間を終えてもずっと2キロ」
「えっ、ずっと2キロ軽くていいの!?」
「でも、たったの2キロでしょ?」
ちちちっ、と亜希は人差し指を左右に振った。
「1キロの違いで、1馬身の差がつくと言われているんだよ。1馬身は、約0.2秒」
「いや、それを言われて余計すごさが分からなくなった。たった0.2秒じゃん」
「あのね。陸上の世界だって、0.1秒の差って、でかいんだよ」
陸上の世界だってと言われても、志保にも早苗にもピンと来ない。
「それで、亜希は何キロのハンデを貰ってるの?」
「4キロ」
「つまり、0.8秒だね」
「それって、本当にちゃんとハンデになってるの?」
「なってるから勝ててるんじゃない? ――って言うか、体重が軽ければ軽いほど有利なのかと思ってた。騎手の体重が軽くて決められた重さに満たない時は、重りを付けられちゃうんだね」
「そうなんだ。びっくりでしょ。私もなんも知らなかった頃は、軽ければ軽いほど良いのかと思ってた。ちなみに、体重が重くて決められた重さをオーバーした場合は、騎手にペナルティがあります」
「うわ、大変だ」
ペナルティは重い順に、騎乗停止、最大50万円の罰金、戒告処分という点数加算だ。
騎手は点数によって制裁を受ける。その点数は1年ごとにリセットされるが、1年間で加算された点数が合計30点以上になってしまうと、再教育を受けることになる。
そんな話を亜希がひと通り話し終えると、僅かに沈黙が訪れる。
それを待ち構えていたように早苗が口を開いた。
「――でね」
ここからが本題なのだ、と表情を引き締めて早苗が亜希に向き直る。
「私、びっくりしたの。ネットニュースで亜希の苗字が変わってるって知って!」
「あー」
「あー、じゃないよ! ほうれんそう! どういうことなの!?」
ばんばん机を両手で叩いて、早苗は憤慨したように言う。
机を叩く音もさることながら、声がうるさくなっているので、周囲を気にして亜希と志保は早苗の両手を抑え込んだ。
亜希は声のボリュームを抑えつつ言う。
「デビューした後に苗字が変わったら、せっかく久坂で覚えて貰ったのに~、ってなりそうじゃん? だから、その前に変えちゃったんだ」
「はい、つまり?」
志保がジトリと亜希を見やる。
「つまり、入籍しました」
「もうっ、ちゃんと報告してよ。事後報告でいいから!」
「2人の顔を見て報告しようかと思って」
「そんな気遣いいらない。そんな気遣いしているせいで、もう4月だからね! 入籍したのいつよ? 卒業してすぐなんでしょ? もう1ヶ月以上も経ってるよ! 志保も私も、亜希の結婚をネットニュースで知ったの! ショック!!」
「ごめん。いや、だってね、私にとっても急だったからね。バタバタだったよ」
「そうかもしれないけどさ。――で、今どんな感じなの?」
「どうって?」
「一緒に暮らしているんでしょ?」
亜希の顔を見る早苗の瞳がキラキラだ。
新婚さんの生活というものがどういうものなのか聞きたくて堪らないという顔をしている。
だが、しかし、早苗の期待に応えられるような話なんて、亜希は持ち合わせていなかった。
「暮らしてるよ。社宅で」
「社宅?」
「本当は、私、トレセンの独身寮に入るつもりだったんだけど、結婚しちゃったからさ」
そこは入れなくなってしまって、と亜希が言ったところで、料理が運ばれてくる。
志保の前に目玉焼きの乗ったハンバーグ、早苗の前にビーフシチューがかかったオムライス、亜希の前に熱々の鉄板に乗ったグリルチキンが置かれ、3人とも一斉にナイフとフォークを手にとった。
「トレセン――美浦のトレーニングセンターのことなんだけど、若い騎手はだいたいトレセンの中にある若駒寮に入るんだ」
「結婚しちゃうと入れないの?」
「男子寮と女子寮に分かれてるからね。なので、既婚者は外に家を持つか、トレセン内の社宅を借りて暮らすんだよ」
「亜希と日岡さんは、ずっと社宅なの?」
「隆哉さんがトレセンの近くに家を建ててくれてるよ。たぶん、秋には住めるようになるんじゃないかな」
「誕生日プレゼント的な?」
「うわっ、高いプレゼント!!」
引き気味に言いながら、志保はハンバーグを口の中に放り込む。
「日岡さんが亜希に貢いでいる額がヤバ過ぎる」
「なんかもう既に晩年の峨鍈状態じゃない? あの頃も蒼潤にかなり貢いでたよ」
「殿って、蒼潤を飾り立てるの、好きだったもんね」
「貢ぐとか、言葉悪いから。それに言っておくけど、あの時も今も私から強請ったわけじゃないからね」
亜希はナイフで鶏肉をひと口サイズに切ると、それをフォークで自分の口に運んだ。
「社宅に住んでいるっていうことは分かったんだけど、私が聞きたいのは、それじゃないの」
「ああ、うん」
だよね、と亜希は早苗に振り向き頷く。
だが、しかし、早苗が聞きたがっているようなラブラブ新婚話を聞かせるつもりはなくて、早苗にとっては『それじゃない』感が満載の話を亜希は続けた。
「私って、月曜日は休みなんだけど、火曜日はトレセンに行ったり行かなかったりなのね。水曜日から金曜日の朝は5時くらいには厩舎にいるの。調教師と打ち合わせしながら馬に乗って、なんだかんだやって、午後5時くらいには帰って来られるかな」
「5時から5時まで……」
「えっ、12時間?」
「――で、金曜日は、翌日にレースを控えているから、21時までに調整ルームに入らなければいけないんだ」
「調整ルーム?」
「レースに出る場合、前日から外部との接触を厳しく禁じられててね。調整ルームに入っちゃうと、スマホも禁止なんだよ。まったく連絡がつかないから、二人ともそのつもりでよろしく」
「ぶっちゃけ、競馬学校の時もほとんど連絡がつかなかったよ。ついても、返信めっちゃ遅っ‼ って思ってた」
「うん、たぶん今までと変わらないよね。むしろ、月曜日ならすぐに返信があって、マシになった感があるよ」
容赦ない二人の言葉に、あははは、と亜希は空笑いをした。
「それで土日はレースで、レースが終わるまで会えないって感じ」
「その間、日岡さんはどうしているの?」
「ひとりで美浦にいても仕方がないからって、金曜日から東京に来てるよ。それで、日曜日のレースの場所が東京なら一緒に帰るし、他の場所ならそれぞれ帰る感じ」
「ああ、じゃあ今日も一緒に帰るんだね」
「うん、後で迎えに来るって」
グリルチキンの付け合わせのポテトにソースを絡めて、ぱくんと頬張ると、亜希は早苗に視線を向けた。
「そう言えば、市川はどうしてるの?」
「市川くんは、大学に通いながら日岡さんの会社でバイトを続けるつもりみたい」
「たしか、バイトは高校生の頃からやってたよね」
「うん、そう。――でもね、最近、留学したいなぁって言ってる」
「ええっ、留学!?」
「日岡さんから聞いてないの? 相談にのって貰っているみたいだよ」
「そうなんだ。それで?」
「日岡さんは行ってこいって言ってくれてて、なんなら費用も出すって言ってるみたいなんだけど、水谷さんが反対してて」
「えっ、費用も出すって?」
びっくり、と両手を顔の左右で広げて瞳を見開くと、志保がグラスに手をのばし、ごくんと水をひと飲みしてから言う。
「殿はさ、蒼潤には貢いでいたけど、柢恵には投資してたからね。投資って言うか、養育? 人材育成? ――とにかく、現世でもそんな感じなんじゃない? 市川って、日岡さんの会社に就職が決まっているようなもんじゃん。市川を留学させることは、日岡さんの会社の利益にもなるんじゃないかな」
「そうなんだ。そう言えば、峨鍈は甄燕の能力もかってて、甄燕に学べって、書物を渡したりもしてたじゃん。志保は隆哉さんの会社に就職を考えたりしないの?」
亜希に言われて、あー、と志保は低く唸る。
「それは最終手段かなぁ、って考えてる。私、今はまだ、やりたいことを考え中なんだよ。――早苗は? 将来どうするの?」
「私は、律子さんみたいな司書教諭になりたいなぁ。だから、司書資格と教員免許を取ろうと思ってるの」
「へぇ、いいじゃん。頑張りなよ。――それでさ。市川、留学どうすんの? 水谷さんは、なんで反対なの?」
「それはだって、市川くんのことが心配だからじゃない。ちょっと、くしゃみしただけで、すごく心配するのよ」
「えー、だって、市川って、柢恵とは違って、体弱くないじゃん」
「そうなのよ! それなのに水谷さんにはどうしても市川くんが柢恵に思えちゃうらしくて、すっごく過保護なの! 過保護すぎて、雨が降っている日は来なくていいって言うのよ。雨に濡れると風邪ひくから」
「いつだったか、昔、柢恵が雨に濡れて、寝込んでたことがあったよね」
あった、あった、と志保が頷き、ハンバーグの最後のひと欠片を口の中に入れる。
亜希もグリルチキンを食べ終えて、グラスに手を伸ばすと、水をごくごくと飲み、ちらりと早苗の皿に視線を向ければ、オムライスがまだ半分くらい残っているのが見えた。
その時、亜希のスマホが鞄の中でブーブーと振動する。取り出して画面を確認すれば、日岡からのメッセージが届いていた。
「隆哉さんがもうすぐ到着するみたい。市川も車に乗せてるって。――って、市川、日曜日もバイトなの?」
「日曜日だからこそバイトできるんだよ、学生は」
「高校生の頃から土日で働かせて貰っているみたいだよ。日岡さんの会社って、完全週休2日制じゃない? でも、どの曜日を休むかは自分で決めて良くて、申告すれば、休む日を4日まとめちゃうこともできるのね。そんなわけで、土日に働いている人も結構いるみたいだよ」
「へぇ、知らなかった」
そう言えば、日岡とは、日岡の会社の話をあまりしないなぁ、と亜希は思う。
ぶっちゃければ、日岡の会社が何をしている会社なのか亜希は知らない。あまり関心がなかったのと、聞いてもよく分からなそうだったので、これまでに聞いたことがなかったのだ。
(いやいやいや。さすがに結婚したんだし、関心がないなんて言ってられないでしょ。今夜にも聞いてみよう、っと)
あとね、と早苗がオムライスをスプーンで掬いながら言う。亜希と志保が既に食べ終えているのを見て、ちょっぴり焦り始めている様子を見せた。
「日岡さんの会社の良いところは、リモートワークがOKなところ」
「社長が率先してリモートだからね。――早苗、ゆっくり食べてていいよ」
「そうそう。私らはデザートを食べてるから」
「ええー、ずるい。私も食べたーい」
「アイス系って、あったっけ? 私、アイスは太らない説を押しているんだ」
「何それ? 本当なの?」
信じがたいという顔を向けられて亜希は肩を竦める。
「分かんないけど、競馬学校にいる時に、みんなで『アイスは太らない』って言いながら食後のデザートに食べたよ」
「太らないっていう根拠は?」
「冷たいから???」
「えっ、冷たいからなんで?」
「冷たくて体が冷えるから脂肪が燃えるとか何とか。えー、もー、よく分からないよ」
「じゃあ、私もアイス系で」
半信半疑のまま、そう言って志保はメニューを広げた。
ゼリーの上にアイスと果物を乗せた小さなパフェを見つけると、タブレットで3つ注文する。
それがテーブルに運ばれてくる前に早苗はオムライスを食べ終え、3人そろってデザートを楽しみ始めた頃、市川の声が聞こえた。
「いたいた。久坂、久しぶり!」
「市川、久しぶり! 風邪ひいてない?」
「まったく」
「隆哉さんは?」
「すぐ来るよ」
と市川が言った通りに来店音が響いて、スーツ姿の日岡が店に入って来るのが見えた。
普段着がだらしないというわけではないが、やっぱりスーツを着ている時の日岡は別の人みたいで、なんか格好良い。
亜希にとって、あまり見慣れていない姿だということもあるかもしれないけれど。
逆に、市川は、スーツ姿以外は見慣れていないようで、Tシャツ姿の日岡を見ると、びっくりするらしい。
(蒼潤の時には、褝一枚、肩から引っ掛けただけとか見ていたから、私は隆哉さんがパンイチでも驚かないけどね。――って、本当かっ!? さすがにパンイチは私でも驚くか!)
うっかり日岡のパンイチ姿を想像してしまい、顔面に熱が集まりかける。それをどうにか、大きく息を吸って吐くことで防ぐと、亜希たちのテーブルに歩み寄って来た日岡を見上げた。
「お仕事、お疲れ様。ちょっと待ってて。デザート食べちゃうから」
「いいよ、ゆっくりで」
にっこりして日岡は言うと、志保や早苗にもひと声かけて、すっとテーブルから伝票を取った。
車で待ってるよ、と亜希たちが何か言う前にそのままレジに向かってしまう。
その姿を見送って市川が早苗の隣に座り、あーあ、と残念そうに言った。
「俺も即行で何か頼んでおけば良かったーっ」
「ご馳走様ですって、日岡さんに伝えておいてくれる?」
「私も」
「うん、分かった。――ほら、市川。ご飯まだなんでしょ? 何か頼みなよ。そして、私は食べ終わったから、そろそろ行くね」
「はやっ‼ 俺、来たばっかりなのに。もう少し話そうよ。殿が会社ではマジで殿っていう話とか」
「何それ。ヤバそう」
帰ろうと鞄を握り締めていた亜希だが、市川の言葉に瞳がキランと輝いてしまう。
「たぶん久坂の前ではあんな顔はしないと思うんだけど、会社では殿だから。『しくじったら殺す』的なオーラがヤバい!」
「ええー、何それ!? たまにで良いから、家でもちょっぴりやって欲しい」
「亜希、マゾ。亜希、マゾだから」
「日岡さんって、亜希には本当に優しいんだね」
「勉強を教えて貰うこともなくなったしねー」
微笑ましいとばかりに瞳を細められて早苗に言われ、亜希は今度こそ鞄を抱えてソファから立ち上がった。
「それじゃあ、また会おうね」
「うん、またね」
「東京でレースの時は教えて。見に行くから」
「分かった。連絡するね」
バイバイと言って、亜希は日岡が待つ駐車場に向かって店を出て行った。




