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【亜希 課程生 卒業】

 

美浦みほに家を建てるから」


 んんっ? と亜希は蒼潤の表情を歪ませて峨鍈の顔を見やった。

 文机に肘をついて、先ほど孔芍が置いていった書簡に目を通している峨鍈は本当の峨鍈ではなく、中身が日岡の峨鍈だ。――つまり、亜希は今、夢の中にいた。


「もう土地は抑えている。トレーニングセンターから比較的近い場所で捜したから、家から通えるはずだ」

「ええーっと」


 戸惑いが強すぎて、なんと言ったものだろうかと悩む。

 早いもので、亜希は明日、競馬学校を卒業して、美浦所属の騎手となる。

 厩舎実習でもお世話になった場所なので、そこでの暮らしに不安はないが、美浦トレーニングセンターの敷地内にある独身寮に入る予定なので、実習の時と同じくらいに日岡との時間は取れなくなるだろうと覚悟していた。

 そんな時に持ち出されたのが、家の話である。


「その家って、隆哉さんと一緒に住むの?」

「もちろん」

「隆哉さん、仕事は?」

「リモートで。どうしても顔を出さなきゃならない会合以外は水谷に任せる」

「わぉ」


 水谷の苦労が滲み出た顔が亜希の脳裏に浮かんだ。

 それで、と日岡が書簡の束を文机の端に追いやって亜希を手招く。亜希が近付くと、すぐにその腕を取って、引っ張り上げるようにして亜希の体を自分の膝の上に乗せた。


「どんな家に住みたい?」

「どんなって……。よく分からない。冬に寒すぎなければいいし、夏に暑すぎなければいい。広すぎたら掃除が大変そうだなって思うし、庭は手入れができる気がしないから無くてもいい」

「そういうのは人を雇う」

「えっ」

「掃除も庭の手入れもプロに頼んだ方が効率的だろ」

「ああ、そういう感じなのね。じゃあ、食事は?」

「人を雇ってもいいし、外食してもいいし、自分たちで作りたくなったら作ればいいんじゃないかな」

「なら、作りたくなるようなキッチンにして。陽射しがよく入るような明るい雰囲気の」


 ん、と日岡が頷いたのを見て、それから、と亜希は言う。


「隆哉さんが仕事をする部屋が必要でしょ。そしたら、私の部屋も欲しい」

「構わないが、寝室は一緒だ」

「ええっ、一緒に寝るの?」

「亜希ちゃん、今、家を建てる話をしているんだよ?」

「うん?」

「2人で、ずっと一緒に暮らすんだ。分かってる?」

「分かってるけど、……何が?」


 亜希は日岡の表情を見て、自分は分かっているつもりでいるが、分かっていないのかもと思い直した。

 日岡が峨鍈の顔で、やれやれと頭を左右に振って、ため息をつく。

 峨鍈がよく蒼潤に対してやっていた仕草とまるで同じだ。亜希はちょっぴり胸をドキっとさせて、日岡の顔を見上げる。


「亜希ちゃん、18歳になったよね」

「うん」

「18歳で結婚できるけど、20歳まで待った方がいい?」

「え……。結婚……? うわっ、結婚!?」


 思いがけない単語に目を大きく見開いて、その単語の意味を思い出そうとして頭の中をぐるぐると巡らせた。

 それから突然にバチっと明かりのスイッチが入ったように頭の中のもやが晴れて、亜希は大きく声を上げる。


「分かった! うん、しよう。結婚! 家が建ったら、その家で一緒に暮らすんでしょ? そしたら、これから先の人生ずっと一緒にいるんでしょ。それって、もはや結婚じゃん! 籍を入れるか入れないかだけの問題で、実質、結婚しているような暮らしになるのなら、しちゃった方がいいよ」

「亜希ちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいんだけどね。あきらや律子に『あと2年くらいなぜ待てないんだ』って言われそうだな」

「でも、隆哉さん。6年も待ってくれたから、私、感謝しかない!」


 峨鍈の時は、ちょいちょい蒼潤に手を出していたし、他にも女がいた。

 それを考えたら、日岡には亜希だけで、キスは額や頬のみというお付き合いでよく6年も耐えてくれたなぁと感心する。


「だから、もういいよ。卒業したら全部あげる。これからは、隆哉さんは何も我慢しなくていいよ」


 ――って言うか、キスくらいもう唇にしたっていいんじゃないかな。

 そう思って、亜希は日岡の首に両腕を回すと、ゆっくりと瞼を閉ざしながら彼の唇に自分の唇を押し当てた。


 その時。ブーブーブーブー、という機械音が断続的に鳴り響き、亜希の意識は浮上する。

 ぱちりと瞼を開いて薄闇の中を見合せば、ここが寮の自室だということに気付いた。

 うわぁーっと、ひとりで恥ずかしくなって両手で顔を覆いながら小さく喚く。


(なんてタイミングで目が覚めるんだろう!)


 日岡にキスした瞬間に夢から弾き出されて、亜希は寮の自室のベッドで寝転んでいた。

 夢の中に置いてきた日岡の反応が気になるところだが、のんびりしていたらすぐに5時になってしまう。

 起きなくては、と亜希はベッドから足を下ろした。


 目覚めたら、やることは今までと同じだ。

 まず計量に向かわなければならない。教官の前で体重計に乗る。計量が終わったら、担当馬の世話をしに厩舎に急がなくては。


 いよいよ今日、競馬学校を卒業する。

 卒業式の前に先月受験した騎手免許試験の合格発表があって、それから最後の模擬レースが行われる。

 問題なく、全員とも合格を告げられると、亜希たちは自分の馬を連れて馬場に向かった。


「最後に勝つのは、俺」


 登坂が親指を立てて言う。


「前回勝ったの、俺」

「その前は、私。――って言うか、その前も私だ」


 椎葉が対抗するように言ったので、更に対抗するように亜希も言って、ニヤリと笑った。

 勝ちたい気持ちは、みんな同じだ。

 だけど、本当に大切なことは順位ではなく、自分が騎乗する馬のベストを出すことだ。


 順にゲートの中に入って、最後に森内がゲートに入ってすぐにスタートの合図が出た。

 一斉にゲートが開き、馬たちが飛び出す。

 ダート1700mのレースである。

 この数日ずっと天気が良く、乾いた砂に蹄を沈め、蹴り上げるようにして馬たちは走る。


 亜希は綺麗なスタートを切り、最初から全力で走らせた。

 無茶な走らせ方をしていると、誰もつられて来なかったため、二番手を大きく引き離して逃げる。

 こんなにも速く走らせていたら、ゴールまで馬のスタミナが続かないことは、亜希も分かっていた。

 だけど、亜希は手綱を握りしめながら、師匠とも言えるほど亜希に多くを教えてくれた調教師の笹嶋の言葉を思い出す。


 ――こいつは、とんでもなく綺麗好きでな。砂や泥を被るのを嫌がるんだ。


 面白いことに馬の性格は様々で、本当にいろんな馬がいる。

 綺麗好きな亜希の芦毛馬は、プライドも高く、一度馬群に沈んでしまったら、たちまちやる気を失くしてしまう。


(だったら、もう逃げるしかない)


 笹嶋も同じ意見だということは、レース前に確認していた。

 コーナーを最短で回る。続いて、2コーナーも3コーナーもトップで回り、このまま逃げ切れるのではないかと思った。

 だが、亜希の馬が次第に失速しているのは明らかだった。

 4コーナーに差し掛かる。

 不意に後ろから気配を感じて、それがどんどんと迫ってきた。

 亜希は手綱を握り締めたまま、その手で馬の首をとんっと叩いた。心の中で馬に声をかける。


(大丈夫。まだ負けたわけじゃない。ゴールまで走り抜けよう!)


 4コーナーも誰よりも先に内側を回って、いよいよ直線だ。

 亜希の芦毛馬に鹿毛馬が並ぶ。鼻の差で、まだ芦毛馬の方が速い。

 だけど、もうスタミナが残っていない!


 鹿毛馬のさらに奥から別の馬の鼻が見えた。

 あと少し。

 あと、もう少しでゴールだというところで、栗毛馬がぐっと首を先に延ばして、鹿毛馬よりも芦毛馬よりも先にゴールを駆け抜けた。


「よっしゃー!!」


 嬉しそうに拳を上げたのは、森内だった。


「差されたー!」


 逃げ切れると思ったのに、と亜希が馬を流しながら言えば、登坂も頷いて言う。


「久坂が逃げ切るかと思った」

「レース、遅くなかった?」

「久坂が飛び出したから、つられちゃいけないと思って、みんな抑えたんだよ」

「結果、追い付けなくなって失敗した!」


 だんだんと馬の足をゆっくりにさせるが、みんな、レース後の興奮が覚めきれずにいた。


「森内はよく追い付いたよな」

「森内、どこにいたの? いきなり現れたからびっくりした」

「どこって言うか、自分のタイムを守って走ってた」

「何それ、すごっ!」

「笠原さんに言われた通りにしただけだよ」


 笠原さんというのは、森内の調教師のことだ。


「言われた通りにしたくとも、それがなかなか難しいんだよ」

「ほら。森内、素直だから」

「ほんと、マジで森内なんなの? 入学するまで乗ったことなかったくせに!」


 椎葉も杉下も梶谷も追い付いてきて登坂と一緒に悔しがった。

 呼ばれて、それぞれ自分の調教師のもとに向かう。

 亜希は笹嶋の前で下馬すると、コーナーの回りの綺麗さを褒められた。

 昨年、体勢が崩れるとの指摘を受けてから、そこだけは常に意識しているおかげだ。


 馬の世話を終えて、一度寮に戻る。

 制服をハンガーから外すと、あまり着る機会がなかったな、と思いながら着替える。

 ――さあ、卒業式だ。


 入学した時は、10人だった。

 2年目に入る直前で一人が去り、3年目の厩舎実習の間にもう一人が去った。

 残った8人で卒業証書を貰う。

 それから記者会見があって、それぞれ3年間の感謝の気持ちと今後の目標を言った。

 そして、8人で記念樹を植えて、おしまいだ。


「べつに、お前たちがいなくても、俺は3年間やってこられたと思う」


 唐突に口を開いた桐生に驚いて、みんなで一斉に彼に視線を向けた。

 桐生が自分から話し出すなんて、初めてのことで、なんだなんだと、そわそわしてしまう。


「だけど、お前たちが同期で良かった」

「「「桐生っ!」」」

「最後の最後で桐生がデレた!」

「3年間がんばってきて、ほんと良かった!」

「うわっ、杉下が泣いた」

「そりゃあ泣くだろ。杉下、がんばったもんな。どんだけ無視されても、まったくめげなかったし」

「杉下、おめでとう!」


 亜希が言うと、森内もケラケラ笑いながら言う。


「おめでとう!」

「ありがとう。ありがとう。……って、なんの『おめでとう』だ!」


 はははっ、と藤崎が笑って、片手を前に出す。

 その意図をいち早く察して、梶谷が藤崎の手の上に自分の手を重ねた。

 亜希と森内がそれに倣って手を重ね、登坂と椎葉も重ねる。

 杉下が椎葉の手の上に自分の手を重ね、桐生を呼んだ。

 しぶしぶといった顔で、最後に桐生が手を重ねたのを見て、亜希は言う。


「いつか必ず同じレースを走ろう」

「GIで」

「いいね!GIで!」

「GIを一緒に走ろう!」


 おー、と声を揃えて、そして、8人はそれぞれの目標に向かうために別れた。




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