【亜希 課程生 2年目】
進級試験を無事に終えて、仲間たちとひと安心していた頃である。
この年の春に騎手デビューを果たした兼平晴菜のインタビュー記事が掲載された競馬雑誌を見付けた梶谷が、亜希を含めた同期メンバーが集まる視聴覚室に雑誌を握り締めてやってきた。
視聴覚室では、その日の実技の様子を録画されたものをみんなでチェックしながら振り返っていて、梶谷がやって来た時には、奇しくも、亜希が馬を走らせている動画が流れている時だった。
「教官に、コーナーを回る時に姿勢が崩れるって言われた」
「それって、外に膨れるかんじ?」
「俺、膨れる」
「遠心力じゃねぇ?」
「だろうけどさ。そこを踏ん張るんだよ」
「つまり、足の筋肉が足りないんじゃないかな」
「鍛えろってことじゃん」
みんな、好き勝手に言ってくれる。
「久坂はいいよな。崩れるってだけじゃん。俺は変な癖がついているって言われた」
「ああ、俺も俺も。治そうと思っても、なかなか治らないよな」
「癖だもんな」
「森内はいいよなぁ。姿勢が良いって、よく褒められてるじゃんか」
皆の視線が亜希の隣に座っている森内に集まったので、彼は居心地が悪そうに身じろいた。
「入学するまで乗ったことがなかったくせに、あっという間に上手になりやがって」
「だからこそ、変な癖がつかなくて良かったんじゃねぇ? ゼロから全部、教官に教わったわけじゃん」
あー、とあちらこちらで納得の声が上がる。
――とは言え、森内のように乗馬経験がまったくないまま競馬学校を受験するのは、かなりのギャンブルだ。
JRAのホームページなどで『乗馬経験がなくとも合格できます』と謳っているが、そのためにはよほどの運動能力が必要で、森内は猿並みの動きができるため合格したに過ぎない。
「んじゃあ、久坂は鍛えろっていうことで、もういいよな。――次、誰?」
「えっ、ひどっ! 私、短っ‼」
梶谷が視聴覚室に入って来たのは、その時だ。
「なあなあ! これ見てみろよ。兼平さんの記事が載ってるんだけど、久坂の話をしている」
「えっ、兼平さん!? 見せて見せて」
「兼平さんって、先週も勝ってたよな。俺にも見せて」
梶谷が床に広げた雑誌をみんなで覗き見ると、今年の2月に卒業した2つ上の先輩である兼平の顔写真が大きく掲載されているのがまず目に入った。
競馬学校は例年10人前後の新入生を迎えるが、そのうち女子は1人か、多くても2人。
ゼロの年もあって、亜希が入学した年は亜希ひとりで、その前年は0人。そして、兼平の年は兼平ひとりだった。
兼平は3年ぶりの女子の新入生だと言われていて、そして、亜希は1年ぶり。亜希の次の年には再び女子の新入生はゼロとなった。
そんなわけで、亜希は兼平と姉妹のように仲良くさせて貰っていて、彼女が卒業した後も何度かメッセージのやり取りをしている関係である。
雑誌にインタビュー記事が載ることは事前に聞いていて、その内容の関係で、亜希と兼平の仲について少しばかり記事になると兼平から聞いていた。
「兼平さんって、あの兼平騎手の娘じゃん? この世界って、二世なんて珍しくないけどさ。杉下もそうじゃん?」
「杉下のお父さんって、杉下調教師だよな。元騎手なんだろ?」
「あれ? 桐生もそうじゃなかったっけ?」
視線が杉下に集まり、それから、同期たちから少し離れた場所に座っている桐生に向けられた。
「俺の父親は調教師だけど、桐生の父親は厩務員だよな?」
同意を求めるように杉下が言ったが、桐生は返事はおろか、みんなに視線を向ける様子もなく押し黙る。
彼は入学した頃から、ずっとこんな感じの孤高の存在なのだが、亜希を含めた同期たちは、彼を一匹狼にするつもりなんて、さらさらなかった。
返事がなくとも気にせず話し掛けるし、みんなが揃っている時は彼も同じ空間に引っ張り込んだ。
そんなわけで、と梶谷が話をもとに戻して言う。
「二世ってことで、兼平さんはデビュー前から注目されていたわけだ。なんと言っても、兼平さん、美人だし。競馬関係者はさ、この際、兼平さんで競馬界を盛り上げようとしているんだよ」
先に記事を読んでいる梶谷が知ったかぶった様子で続けた。
「だけど、兼平さんだけでは弱いのではと、久坂に白羽の矢が立ったってわけ」
「ん? どういうことだ?」
森内が首を傾げ、記事から顔を上げて梶谷を見やる。
「つまり、ライバル登場だ。面白いストーリーにはライバルや悪役が必要なんだ」
「えっ、悪役!? 久坂が悪役!?」
「どれどれ……。『競馬学校時代に仲が良かったのは誰ですか? 同期とはみんなで仲良しだったんですが、特別に仲が良かったのは、2つ下の久坂さんですね。彼女はとても優秀で、いつか抜かされてしまうのではないかと、びくびくしています。今はまだ私が姉のような立場で、彼女のことを妹だと思っていますが、いずれ彼女は私の大切なライバルになってくれると信じています。』だってさ」
藤崎が記事を読み上げて亜希に視線を向けてきたので、亜希は苦笑を浮かべた。
「兼平さんのライバルだなんて光栄だね。――でもさ、それ、インタビューで言わされただけだって兼平さんが言ってたよ。だから、気にしないで、って。梶谷の言う通り、盛り上げようとしているだけなんだよ」
「そうそう。ほら、なんとかの仮面にだって、二世の美人キャラと主人公がライバル関係になって、話が盛り上がるじゃん?」
「なんとかの仮面……」
「ああ、縦ロールのライバルね。そっちが兼平さん?」
「二世だから、そうだよな。あれ? 縦ロールだっけ?」
「縦ロールは、テニスしているなんとか夫人じゃねぇ?」
「俺、女子高校生のあだ名が『夫人』って、どうなのかなぁって、ずっと謎に思ってたんだよなぁ」
「わかるー」
待って、と亜希は同期たちの前に両手を大きく広げて突き出す。
「なんで、みんな、少女漫画に詳しいの!? しかも、ちょい古い少女漫画!」
「ちょいじゃなくて、かなり古い」
「あの時代のスポ根系の漫画って、面白いじゃんか。俺、ばあちゃんの家で見付けて一気読みした」
「俺もそんな感じ」
「久坂、いつか兼平さんに言われるんだな。『アキ、なんて恐ろしい子……!』……ぶぶっ‼」
「やべぇ、ウケル!」
あははは、と笑い声が上がって、亜希は眉を寄せた。
見れば、森内まで腹を抱えて笑っているし。どう反応したらいいのか困る。
「たぶんさ、この記事を書いた人も狙ってたよな。あの漫画の主人公のライバルと、兼平さんって、重なるところあるじゃん」
「親から受け継いだ才能と親が揃えてくれた環境、そして、英才教育を受けて育ったかんじ?」
「そうそう。んで、久坂は主人公に似てるよな。ポッと出の天才って感じが」
「いや、私、天才じゃないし」
「いやいやいや。だって、久坂、乗馬始めたの遅いじゃん。俺らは小学生のうちからやってるからね」
「中学入ってから始めたんだろ? なのに、ジュニアユース受かってるし。俺もあの時、同じ試験受けたからな」
「えっ、そうだったの!? 初めて知った!」
恨みがましい眼差しを向けられて、亜希は登坂に振り向いた。
「知らなかった! ごめーん!」
「そこで謝る意味が分からねぇから、やめろ」
「でも、椎葉も杉下も桐生もユース出身じゃん」
「だから、俺らは小学生からやってたの」
中学生になってから始めたくせに、ジュニアユースに受かるなんてあり得ないということらしい。
それ故に、お前は天才かっ、という話しになるのだ。
ちなみに、ジュニアユースの募集人数は例年各所1名程度である。
東京競馬場で合格したのは亜希だが、椎葉や杉下、桐生は別の競馬場で合格している。
「それにしてもさ、あの漫画って、努力家と天才の戦いじゃん? その二世のライバルさんは、もともと天才だって周囲から言われ続けてきて、自分自身でもそう思っていたんだけど、主人公が現われて本物の天才を知って、自分は努力して天才のように見せていただけなんだと気付くんだよ」
森内が強引に話題を例の漫画に戻して語り出す。
「そこから、めちゃくちゃ努力するわけじゃん。天才な主人公に負けたくないから。努力して努力して、すごく頑張るんだけど、結局、主人公に負けるんだよ。そこがもう、切ない! 俺は主人公よりライバルさんに勝って貰いたい!」
「分かる! 努力はきちんと報われて欲しい! だから、俺は兼平さんに勝って欲しい!」
「兼平さん、二世だけど、二世ってことを鼻にかけないし、努力家だよなぁ」
「お父さんの恥にはなりたくないって言ってた」
「うわぁー。めちゃくちゃ応援するわー」
おいおいおいおい、と亜希は盛り上がる同期を一歩退いた心地で見回す。
話の流れがおかしな方向に向かっていた。
「それに比べて久坂ときたら、まだ彼氏と続いているし」
「マジかよ。なんで続いてんだよ」
「日曜日のたびに会ってるからだろ」
「うわっ。信じらんねぇ。兼平さんが努力している間、久坂は彼氏とイチャついてるのかよ」
「もうすぐ厩舎実習じゃん。会う時間なくて別れるんじゃねぇ?」
「どっち希望出した? 俺、栗東」
「栗東」
「俺も」
久坂は? と視線を受けて、亜希は美浦と答える。
「だと思った!」
「栗東の方が強い馬が多いんだぞ!」
以前から関西馬の方が強いと言われているが、近年では関東馬も十分に活躍しているので、これについては問題ない。
「栗東の騎手の方が活躍している人が多いじゃんか」
それこそ本人の問題だ。
「兼平さんも栗東じゃん。久坂が栗東に来るのを待ってるんじゃねぇ?」
「それだね、唯一の悩みどころは。でも、いいの。私は関東生まれの関東育ちなので、美浦で」
「俺も美浦で希望を出したよ」
「森内!」
心の友ーっ、と亜希が両手を上げてバンザイをすれば、俺もと藤崎が言った。
「藤崎くん! お世話になりますっ!
「あっ、俺も。お世話になりますっ!」
「え、なになに? 俺、森内と久坂の世話をしなきゃならないの?」
「だって、藤崎くん、私たちの生きてる時計だから」
「だよなー。――で、今、何時?」
森内の問いに、みんなの表情が一変する。
一斉に、壁に掛けられた時計に視線を向ける。そして、慌てたようにそれぞれ立ち上がった。
「やべぇっ、夕食の時間だ」
「今日の日誌まだ書いてなかった!」
「俺もだー。食いながら書く!」
「俺、先に風呂行くわ」
「じゃあ、俺も」
あっという間に気持ちを切り替えて視聴覚室を出て行くと、それぞれ自分のすべきことをするために散って行った。