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【亜希 課程生 1年目】

 

 素早く夕食と入浴を終えて、亜希はスマホを片手に寮の共有スペースのソファに腰かけた。

 1日のうち、この時間にしかスマホが使えないので、前日に家族や友人たちから送られたメッセージがあれば、それを読んで返信する。

 そして、1日1回は連絡をするようにと約束させられている相手にもメッセージを送った。


「うわっ、返信早っ‼」


 秒で返ってくるメッセージに思わず声を上げると、なんだなんだと亜希の隣に座った少年がスマホ画面を覗き込もうとしてくる。


「また彼氏かよ。よく続くよな。藤崎くんは高校で付き合ってた彼女と破局したってよ。まったく会えないから」

「私は結構会ってる。夢で」

「夢かよ」

「森内、彼女は?」

「いたことねぇーよ。夢の中でもいたことねぇーよ」

「何それ、面白い。森内、いいヤツなのにね」

「そう思うのなら、誰か紹介しろよ」

「ごめん。私、友達少なくて、女友達だと二択しかない。そのうち、ひとりは売却済みで、もうひとりはたぶん男に興味がない」

「無理ゲーじゃん」


 亜希の隣に座った少年は、丸坊主にした頭を掻きながら即行で言葉を返してきた。

 少年――森内は亜希と同じ歳で、入学時点では乗馬経験がほとんどなかった。

 その代わり、体幹がずば抜けていて、お前は猿なのかっ、と誰もがツッコミたくなるような動きができる。

 競馬学校で行われるフィジカルトレーニングで、彼はその才能を遺憾なく発揮し、特に縄登りの速さときたら、おそらく猿以上だ。


 そして、たぶん、亜希と森内は前世で会ったことがある。初めて彼と出会った時に、そう直感した。

 だが、彼が前世で誰だったのか、まったく思い出せない。

 思い出せな過ぎて、もはや思い出すことを亜希は諦めた。


「久坂、今週も外出するのか?」

「今その約束をしているところ。ああっ。もう返信来た! 短文で送りつけてやる」

「もうさ。一文字ずつ送れば?」

「それはそれでめんどくさいじゃん。――7時半に迎えに来るって言ってる。早い! 8時にしてくれないかなぁ。5時には起きてるけど、馬の世話をしてから朝食じゃん? 7時に食べ始めたとして……、あっ、間に合うか」

遠出とおですんのか?」

「ううん、西臼井駅の近くにマンションを借りてくれてて、そこでダラダラ過ごす予定」

「なんだそれ。久坂の彼氏って、歳上?」

「うん、かなり上。働いてる。ガッツリ稼いでる」

「やべぇな。まあ、どうでもいいけどさ、15時には帰ってこいよ」

「分かってる、って」


 亜希はスマホに文字を打ち込みながら森内に返事をする。


「私たちって、夏休みないじゃん?」

「馬の世話があるからな」

「それを言ったら、毎週日曜日は時間をくれ、って」

「彼氏、重くねぇ? 毎日メッセージくれとかさ」

「昔からだから、もう慣れた。――それに私にはちょうどいい」

「へぇ」


 昔ってなんだ? と森内が言いかけた、その時、廊下から亜希と森内を呼ぶ声が聞こえて、2人はそちらに視線を向ける。すると、すぐに藤崎が姿を現した。

 彼は高校を卒業してから競馬学校に入学してきたため、2人より3つ歳上だ。

 面倒見の良い彼は、ついつい時間を忘れがちな2人によく声をかけてくれるのだ。


「20時10分前だぞ」

「やべぇ、のんびりし過ぎた!」


 20時から馬の世話をしなければならないため、3人は厩舎に急ぐ。そして、担当する馬たちの世話をして、彼らの体調に異変がないことを確認した。

 1日にやるべきことを終えて寮の自室に戻れたのは、就寝時間である22時の15分前だ。

 亜希は寝巻き代わりのTシャツとハーフパンツに着替えると、ベッドに横たわった。


 入寮当初は、こんな早い時間から眠れるはずがないと思っていたものだが、亜希たち課程生たちの起床時間は5時前だ。

 目覚めた順に食堂に行き、そこで教官に見守られながら体重計に乗り、記録をつけられると、厩舎まで急いで行かなければならない。

 担当する馬たちの朝の世話があるからだ。掃除をして、体調チェックして、朝御飯をあげて……とやっていたら、あっという間に1時間が経過する。

 その後、再び寮の食堂に戻って、自分たちの朝御飯の時間になるのだ。ちなみに、この時点で時刻は午前7時である。


 翌朝のハードワークを考えれば、夜は早く寝るに越したことはない。

 その習慣は次第に身に付いてきて、今ではベッドに入ったとたんに眠れるようになった。


 眠ったのだという自覚などないままに、亜希は暗闇に沈んで、そして、パチリとスイッチが切り替わったかのように瞼を開いた。

 わぁーっ、と掛け声を上げながら駆け抜けていく風に背中を押されて、ぐらりと足元が揺らいだ。

 危ない、と腕を伸ばされ、体を支えられる。亜希はその腕にしがみつくようにして、体勢を持ち直した。


「大丈夫ですか?」


 頷いて振り向けば、亜希の体を支えてくれたのは甄燕だった。

 その顔に志保の顔が重なって見えて、亜希は懐かしさに堪らなくなる。

 志保とは、春休みに遊んだのを最後にもう3ヶ月以上会えていない。


「志保?」

「……はい?」

「あー、安琦あんきか」


 甄燕の中身が志保ではなく、甄燕その人だと分かると、亜希はがっかりと肩を落とした。


「何ですか? わたしではなく、殿の手を借りたかったんですか? わたしで申し訳ありませんでした」


 何やら勘違いした甄燕が気分を害したように怒り出したので、亜希はぶんぶんと頭を左右に振った。


「違う違う。そうじゃなくて! ええっと……、うーんっと。あれ? ここどこ?」


 そうじゃなくて、じゃあ何なんだと言うと、何も思い付かなかったので、無理やり話題を変えてみる。

 それから、亜希は辺りを視線を巡らせて、仰天した。


「ええっ!? ここはホントどこ!? もしかして、船!?」


 あまりにも船が巨大で、開放的な舞台の上かと思っていた。

 甲板の上を駆けて船縁まで寄ると、自分を乗せた巨大な船が河を走るように進んでいるのが見えた。


「これ、どういうことーっ!?」


 自分が前世の夢を見ているのだということは、分かった。

 だけど、どの時点の夢であるのかが分からない。


 蒼潤の夢は、日岡と付き合い出してから見る頻度が減り、1ヶ月に1度とか、数ヶ月に1度とか、どんどんと見なくなっていったが、亜希が中学を卒業して競馬学校の寮に入ってからは再び1週間に1度か2度の頻度で見るようになっていた。


 たぶん、日岡が亜希に会えない不満を抱えているせいなのだと思う。

 その証拠に、亜希が蒼潤になる夢を見た時には、必ず日岡も峨鍈として同じ夢の中にいる。


(まず、隆哉さんを探してみるか)


 ところで、この世界の天下には大きな二つの河が流れている。――清河せいが深江しんこうである。

 山を下ってきたすべての川は、清河、或いは、深江で合流し、海へと流れ出る。

 峨鍈と瓊倶の戦いは、瓊倶が清河を越えて来たことで始まり、峨鍈は清河の南側の猩瑯しょうろうという場所で瓊倶を打ち破った。


 一方、深江と言えば、蒼潤の称号である『深江郡王』の由来だ。

 天下の北部を手中に収めた峨鍈が深江を越えて南下しようとすると、これを阻止するために蒼邦そうほう穆匡ぼくきょうが同盟を結び、大きな戦いが起こる。

 結果、峨鍈は深江を越えることができず、蒼潤も生きている間に深江を目にしたのは、その戦いの時の一度きりだった。


(もしかして、ここ深江?)


 船縁から眺められる景色は、海のように大きな河の水ばかりで、岸がまったく見えない。

 これほど大きな河は清河か深江以外は考えられなかった。


(――だとしたら、これから負け戦じゃん!)


 先の展開が分かっているので、負けないように本来とは違う行動を取ってみれば良いのでは? と思うのだが、そうしようと思っていても、そうできない力が働くので、結局、前世で負けた戦は夢の中でも負けるのだということをこの数年で学んでいる。

 自軍の兵たちを大勢失ってしまう戦だと知っているので、できれば戦が始まる前に目覚めたい。


(さっさと隆哉さんを見付けて、夢の中から脱出しよっと)


 これもこの数年で学んだことだ。

 亜希を夢の中に引き込んでいるのが日岡の想いなので、彼を満足させることで早めに夢から覚めることができるのだ。

 亜希は自分の半歩後ろに控えるように立つ甄燕に振り向いて尋ねる。


伯旋はくせんはどこ?」

「殿なら船室で、軍師たちの話に耳を傾けていらっしゃいます」

「ああ、この頃の伯旋の暇つぶしだな」


 ひとつの議題に対して、ああだこうだと軍師たちに討論させて、自分はそれを黙って聞いているのが峨鍈は楽しいのだと言う。それは、蒼潤には到底理解できない峨鍈の暇つぶしである。

 亜希は甄燕に案内させて峨鍈の室に向かうと、中から感情を高ぶらせながら何かについて熱く語る声が聞こえてきた。

 さらに、その声に被せるように別の者も語り出す。そして、別の者も。それは、まさに言葉による戦いであった。


 室の入口に立って中を覗き込むと、十数人ほどの軍師たちが向かい合うように座っていて、彼らから少し離れた場所で壁に背を預けながら瞼を閉ざしている峨鍈の姿が見えた。

 亜希は甄燕を下がらせて室の中に入る。軍師たちは討論に夢中になっていて、亜希が彼らの後ろを通ってもまったく気付く様子がなかった。

 だが、峨鍈だけは亜希が彼に近付けば、その小さな足音を聞き分けて瞼を開く。


「来たか」


 呟くように言って亜希に向かって微笑む。

 峨鍈はすくっと立ち上がると、亜希の手を取って帘幕たれまくの奥の臥室しんしつに移動した。

 亜希は峨鍈に手を引かれながら、彼が本当に峨鍈なのか、それとも日岡なのか判断がつかず、彼の表情や仕草を探るように見つめる。


 船室に設けられた臥室は、さほど広くはない。

 大きな牀榻ベッドを置いたら、もうそれだけで他には何も置けないくらいだ。

 

(部屋に対して、ベッドがでかすぎなのでは?)


 おそらく二人で寝るためのものなのだろう。そうだとしたら、蒼潤の臥室は船内に用意されていないかもしれない。ここで休むしかないように。

 峨鍈は亜希を臥牀しんだいの上に座らせると、その足元に屈み込んで、自らの手で亜希のくつを脱がせる。

 帘幕の向こうでは、まだ軍師たちの討論の声が響いていた。


「ねえ」


 亜希は臥牀の上に体を倒されながら自分に覆い被さってくる男を見上げながら呼び掛ける。

 だが、どう問えば、目の前の彼が峨鍈なのか、それとも日岡なのか、分かるだろうか。

 亜希が迷っていると、彼が顔を寄せてきたので、亜希は慌てて両手で彼の口を塞いで言った。


「そういう気分じゃない」

「では、そういう気分にさせよう」


 彼は亜希の手を退けて言い、亜希の頬に口づける。

 亜希は肩を竦めて笑った。峨鍈なら、このタイミングで口づける場所は頬じゃない。それにこんな軽くて優しいキスで我慢できる男でもない。

 日岡だと分かって亜希は彼の首に両腕を巻き付けてお返しのキスを彼の頬にした。


「隆哉さん、日曜日に会うのに、それまで待てなかったの?」

「メッセージの返事が途中で来なくなったからね」


 日岡だと分かると、目の前の顔が峨鍈であっても、とたんにその顔が和らいで日岡の顔と重なって見える。

 それは日岡と峨鍈の口調の違いなのかもしれないし、亜希の気持ちの問題なのかもしれない。


「だって、自由時間が終わっちゃったんだもん。日曜日にどこに行きたいかっていう話だよね? どこにも行きたくない。部屋で隆哉さんとのんびり過ごしたい」

「我慢できなくなりそうだから、できれば外に出たいんだけど」

「キスしていいよ。ほっぺたに」

「ほっぺたね」

「おでこもいいよ。おでこにして」

「ん」


 今すぐという話ではないのに、亜希は額に日岡からキスを受けて笑みを零してしまう。お返しにと、亜希は再び彼の頬にキスを贈った。

 それにしても、帘幕たれまくの向こうから聞こえてくる討論の声がいよいよ白熱している。きっと軍師たちは蒼潤が室に入って来たことにも、峨鍈がその場を離れ臥室に移動したことにも気づいていないに違いない。


「ねえ、この夢って、このあと負け戦だよね? 怖いから早く目覚めたい」

「まだ数日は目的地に着かないし、実際に戦が始まるのはまだまだ先だから大丈夫だよ。それに、俺はこの時の夢が好きなんだ」

「えっ、なんで?」

「天連に逃げ場がないから」


 船の上だからね、と日岡が目を細めて笑うのを亜希は、ぽかんとして見上げた。

 そして、亜希は察する。亜希が思っている以上に彼は亜希と会えない日が寂しいのかもしれない、と。

 だって、逃げる余地のない場所に蒼潤がいた時の夢が好きだなんて、普通の精神状態だったら口にするわけがないのだ。

 

(やばい……。言えない。2年になったら秋ごろから厩舎実習が始まるって)


 課程生2年目の10月から1月。そして、3年目の4月から9月まで厩舎実習があって、どこの厩舎に配属されるか分からないが、とりあえず、その期間は東京でも千葉でもない場所で過ごすことになる。

 たぶん、今よりももっと会えなくなると思う。


(言いづらいけど、早めに言っておいた方がいいよね)


 実習先が美浦みほだったら茨城県だからまだ良いけれど、栗東りっとうだったら滋賀県だ。さすがの日岡も週末の度に会いに来るのは無理なのではないだろうか。


「隆哉さん、ええっと、あのね……」


 どおんっ、帘幕たれまくの向こうから大きく音が響く。――と同時に、わぁーっと声が上がり、殴り合っていると思われる騒音が響き始めた。

 ほとんど口喧嘩のようだった討論から、ついに本当の喧嘩に発展してしまったようだ。

 やれやれと日岡が亜希の体の上から退いて、臥牀から足を下ろした。


「仕方がない奴らだ」


 自分の方に向けられた背中に亜希は抱きついて、やっぱり、と口を開く。


「日曜日は部屋で過ごそう? いっぱい話したい」

「ん、分かった」


 日岡の腹の前で組んだ両手を、ぽんっと軽く叩かれたので亜希は彼を抱き締めていた腕をするりと下ろした。

 そして、彼が臥牀から立ち上がり、帘幕を掻き分けて、その向こうに移動していく姿を見送った。









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