【亜希 中学卒業】
胸に小さな造花をつけて亜希は校舎を駆ける。
司書室にいると思ったのに、図書室のドアには鍵が掛けられていて入ることができなかった。
あとは、教員室くらいしか思い浮かぶ場所がない。
教員室のある二階の廊下は、恩師に最後の挨拶をしようとする卒業生で溢れていた。
涙ぐむ彼らを横目に亜希は教員室の入口に立ち、中を見渡した。
(いた!)
この三年間ですっかり見慣れた後ろ姿を見付けて、亜希は大きく声を響かせた。
「律子さん!」
あら、という顔をして律子が席から立ち上がると、すぐに教員室から廊下に出てきてくれた。
「律子さん、どうして図書室にいないんですか? 探しちゃいました」
「だって、卒業式に図書室を利用する子なんていないもの。卒業おめでとう、亜希ちゃん」
「ありがとうございます。あのう、律子さんに聞きたいことがあって……。ずっと聞きたいと思っていたんですけど、正直、聞きづらくて」
そうやって後回しにしているうちに、今日まで来てしまった。
卒業したら、もう二度と会えないわけではないが、今までのように簡単に会えるというわけではない。その前に聞いておかねばならないと、卒業式を終えた亜希は律子を探していたのだ。
律子が辺りに視線を巡らせて、こっち、と人気がない方へと亜希を促す。
教員会議室前の廊下まで歩いて、律子は足を止めた。そして、亜希に振り返り、柔らかく微笑む。
「聞きたいことって何かしら?」
「あの、律子さん」
「うん」
「律子さんと隆哉さんが結婚しなかったら、驕や琳は、生まれ変われなくなってしまいますか?」
峨驕も峨琳も梨蓉が産んだ峨鍈の子だ。
峨鍈には他にも子がたくさんいて、彼らも皆、この世界では生まれなくなってしまうのだろうか。
そう考えると、日岡のことを自分が独占しているのは、いけないことのように思えてくる。
その罪悪感から律子の顔を見つめていられなくなって、亜希は視線を僅かに逸らした。
すると、律子は亜希の不安を読み取って、すぐに答えを返してくれた。大丈夫よ、と。
「もっと早くに話しておけば良かったわね。ごめんなさいね。まさか亜希ちゃんがそんなことを考えているとは思わなくて。大丈夫よ。実はね、驕は私の弟として生まれ変わっているから」
「えっ、弟!?」
「どうもね、前世の関係がそのまま現世にも引き継がれるとは限らないみたい。亜希ちゃんの家族関係は前世のまんまみたいだけど、私は前世ではいなかったはずの弟がいるし、彬さんも違っていると言っていたわ。前世で弟だった夏葦とは他人なんですって。でも、近所に住んでいて、隆哉さんと小中の同級生だと言っていたわ」
「へぇ」
「それから、嫈霞と私は中学校以来の友人だし、明雲とは大学のサークルで出会って、先輩後輩の仲よ。雪怜とはまだ会えていないけれど、きっといつか会えるような気がするわ」
嫈霞も明雲も雪怜も皆、峨鍈の側室たちだ。
彼女たちは前世で梨蓉を中心にとても仲が良く、協力して家族を守っていた。
「そうそう。嫈霞は既に結婚しているのよ。昨年、子供も産まれて――、たぶん、あの子は柚ね」
「どうして分かるんですか?」
「産まれたって聞いて、赤ちゃんを見せて貰ったのだけど、その時に直感したの。柚が産まれた時もすぐに見せて貰っているから分かったのよ。だからね、亜希ちゃん。例え器が違っても前世の縁で結ばれた相手の近くに魂は甦るものだと、私は思うの」
律子は言葉に力を込めて続けた。
「私、必ず琳も軒も産んでみせるわ。それから、昴もね」
昴とは、峨鍈と梨蓉の最初の子供のことだ。
わずか2歳で亡くなってしまい、その悲しみは長らく深い傷として梨蓉の心に刻まれていた。
奇しくも峨昴は蒼潤と同じ歳で、蒼潤が『夏昴』と名乗り梨蓉の目の前に現れた時、梨蓉は亡くした息子が帰ってきたと感じたらしい。
それに何よりも、峨鍈が梨蓉の息子の昴を忘れてしまっていたわけではなかったことに嬉しさを覚えたのだとか。
「安心できたかしら?」
窺うように視線を向けられ、亜希は、うん、と頷く。
「前世とは異なる関係かもしれないけれど、前世の縁で結ばれていたら、現世でも巡り会えるっていうことですよね?」
「そう思うわ」
「――だとしたら、蒼潤は呪わなくても、私は日岡さんに会えたんじゃないのかなぁ」
首を傾げて言えば、律子も、どうかしら? と口元に片手を添えて首を傾げる。
「あんな最期だったし。それに会えたとしても、亜希ちゃんと隆哉さんって、14歳も離れているでしょ? 普通に考えたら恋愛対象にはならないわよね?」
「確かに」
「それに前世で殺されたということで、潜在的に亜希ちゃんが隆哉さんに対して恐れを抱いて、関りを避けようとするかもしれない。そうしたら、ますます恋愛には発展しないわよね」
「なるほど。――あの、律子さん、私……」
これは言おうか言うまいか、ずっと悩んでいたことで、この期に及んでもなお、亜希は口ごもってしまう。
だけど、こんな風に律子と話ができるのは、今日が最後かもしれない。そう意を決して、亜希は口を開く。
「私ね、律子さん。すごく嫌な女かもしれないけれど、隆哉さんを誰かと共有したくない」
亜希が言うと、律子の瞳が驚きに大きく見開かれた。
「蒼潤だった時は何とも思わなかったんだけど、私は嫌なんだ。嫈霞のことも、明雲のことも、雪怜のことも大好きだし、この現世で彼女たちの生まれ変わりと出会えたのなら、きっと前世の時のように彼女たちのことを好きになると思う。楓莉には大きな借りがあって、もし彼女の生まれ変わりが私の前に現れたとしたら、その借りを返したいと思うけれど、でも、そんな彼女が望んだとしても、隆哉さんのことだけは譲れない」
「亜希ちゃん……」
「蒼潤にはできたことだけど、私にはできない。私はきっと蒼潤より、ずっとずっと醜い」
律子の手が伸ばされて、亜希の手を掴んだ。
何度も、何度も、律子が頭を左右に振って、亜希の手をぎゅっと握り締める。
「いいのよ、亜希ちゃん。それでいいの。ちっとも亜希ちゃんは醜くないし、嫌な女でもないの。その気持ちの方が普通なの。だから、誰かと隆哉さんを共有する必要はないの。それに、絶対に隆哉さんだって、そんなこと亜希ちゃんにさせないはずよ」
「……私、律子さんが高校生の時に隆哉さんと付き合ってたと聞いた時、嫉妬しました」
「うん、ごめんなさいね」
「違う。律子さんが謝ることじゃないんです。――そんな自分に驚いて、怖かっただけなんです」
自分を恐ろしいと思うと同時に、そんな醜い自分を認めたくなかった。
だけど、おそらくそんな自分も受け入れないことには、亜希はずっと梨蓉や他の側室たちに対して負い目を感じ続けることになる。
「私、それくらいにあの人のことが好きなんだと思います」
「うん。――いい! 天連殿よりもずっと素直な亜希ちゃんが私は好き! 応援してるわ。その証に、私、弟が亜希ちゃんに接触しないように壁になっているの」
「え?」
「この話はするつもりなかったんだけど、何度か、私の弟が亜希ちゃんとニアミスしているのよね。今、弟は大学生なんだけど、教育実習先にこの学校を選ぼうとしていたことがあって、もちろん阻止したわ」
他にも亜希の知らないところでいろいろあったのだと律子は言う。
律子の弟は前世の記憶がまったくないはずなのに、自然と亜希と出会う流れができてしまうので、まったく油断ならないらしい。
「驕の生まれ変わりである弟の身になって思えば、私って、ひどい姉よね。前世では息子だったのだから、ひどい母親だと思うわ。だけど、私は亜希ちゃんと隆哉さんに幸せになって欲しいの。その欲を叶えるために非情にもなれるし、醜くもなれるわ」
「律子さんは、非常でも、醜くもないです」
すかさず亜希が言えば、律子は目を細めて微笑む。
その時、亜希は名前を呼ばれる。振り返ると、早苗と志保が駆け寄ってくる姿が見えた。
「もうっ、こんなところにいた!」
「亜希、日岡さんが迎えに来てるよ」
「えっ!? なんで!? そんな約束してないのに」
「校門のところに車が見えて。あれ、絶対に日岡さんの車だよね、って」
「あの高級車、目立つよね」
確かに目立つと思って、亜希は律子に振り向いた。
律子は、にこにことしている。
「早く行ってあげて」
「律子さん、本当にありがとう。今までも、これからも、ずっと好き!」
「うん、私も好き。――亜希ちゃん、ありがとう。亜希ちゃんのおかげで、あの夢から解放されて、前に進めるわ」
律子はもう前世の夢を見ることがなくなったのだと言う。
城戸も水谷も同様に夢を見なくなったらしい。
亜希たちは、まだ時々、思い出したように見ることがあるが、以前ほど頻度は高くない。早苗はそれを寂しがって、毎晩、夢を見るぞと気合いを入れて寝ているらしいが、成功率は低いと言っていた。
「そう言えば、隆哉さんも同じ夢を見ていたんですよね? 今さらなんですけど、思い返してみると、あの時のあの夢の峨鍈は峨鍈じゃなくて、じつは隆哉さんだったんじゃないかって思う時があるんです」
「あら、まあ」
(――あら、まあ?)
律子が奇妙な反応をしたので、これは何か知っていそうだと亜希は胡乱な目付きになる。
「確実に隆哉さんだって分かっているのは、拒馬槍の実践練習の時かな。あと、互斡国から出発した日の夜。小説と言動が違ってた気がします。それから、併州城から葵陽に向かって出発した日もたぶんそうじゃないかって思うんです」
「答え合わせは、隆哉さんとしてね」
「あの人が素直に白状するかなぁ。律子さん、何か聞いているでしょ?」
「ふふふっ」
意味深に笑ってから律子は、さあ行って、と亜希の肩をぽんっと叩く。
亜希は数歩前に進んでから、くるりと振り向いて、早苗と志保にバイバイと手を振った。
「春休み遊ぼうね!」
「絶対だよ。亜希が寮に入る前に絶対遊ぼうね!」
うん、と頷いて亜希は律子に視線を向ける。
そして、飛び切りの笑顔を浮かべて亜希は後ろ向きに歩みを進みながら言った。
「律子さん、またね!」