終.好き!好き!好き!好き!
昨日、競馬場で日岡と想いを伝え合った後、城戸や水谷、律子がその場にやって来て合流した。
日岡があの場所から前に進めたのだから、おそらく彼らが峨鍈と蒼潤の最期の日のことを夢に見ることは、もうないと思う。
だから、城戸も水谷も、律子のように亜希にお礼を言ってくれたけど、亜希にしてみれば、お礼を言われるようなことをした覚えはないので、そうやって律子に言われるたびに、こそばゆいような、居心地の悪いような気がしてしまう。
そんな亜希を見て、律子は本当に綺麗な微笑を浮かべ、それから少しだけ悪そうな表情をつくって言った。
「それでね、亜希ちゃん。隆哉さんとお付き合いすることになったわけだと思うんだけど、亜希ちゃんはまだ中学生なの。隆哉さんにもしっかりと釘を刺しておいたけれど、くれぐれも清いお付き合いから始めてね」
「そうだよ、亜希! 一歩間違えれば、日岡さん、犯罪者だよ!」
「殿って、今いくつ?」
「26とか27とかって言ってなかったっけ?」
「前世より若い」
「なら、前世よりは待ってくれるんじゃない? ――って言うか、どこまでならOK?」
「それに何歳からOKなのかなぁ? 16? 18? もしかして20歳までキスもダメだったりするの?」
亜希の左右で早苗と志保、市川がごちゃごちゃと何やら言っている。
どこまでの意味が分からないので亜希は聞き流そうとしたのだが、律子が大真面目な顔で、そうね、と話を掘り下げようとしてくる。
亜希は慌てたように両手をテーブルについて椅子から立ち上がった。
「この話はこれでおしまい! 私、先に教室もどるからっ!」
言い捨てて逃げるように亜希は司書室から飛び出した。
△▼
その日の授業をすべて終えて、亜希は帰り仕度を整える。
校門を出るあたりまで早苗と一緒に帰ろうと顔を上げれば、いつもなら大慌てで部活に向かう志保が教室でのんびりと鞄の中に教科書を詰め込んでいる姿が見えた。
「あれ? 今日、部活は?」
「何言ってんの。今日から中間試験の一週間前だよ」
呆れ顔を向けられて亜希は肩を竦める。
「亜希って、試験勉強する気がまったくないよね」
「そんなことないよ。やるよ。一応」
「じゃあ、うちで勉強する? 志保も一緒に」
支度を終えた早苗が、お待たせ、と言って亜希の隣に並んだ。
三人で教室を出て下駄箱に向かう途中で市川の姿を見つけて片手を振る。
「そう言ってさ、結局、遊んじゃうよね」
「なんの話?」
「早苗の家で一緒に勉強しようっていう話。市川も来る?」
「それいいね! 市川くんに分からない問題をいっぱい聞きたい!」
「ああ、うん。市川がいるのなら、一緒に勉強する意味はあるかも」
先生役が必要だと志保は言いながら上履きから外履きに履き替えた。四人で揃って昇降口を出て、校門に向かうと、何やらそちらが騒がしい。
誰かがうるさく騒いでいるというわけではなく、何となくざわめいている雰囲気だった。
なんだろうかと怪訝に思いながら亜希たちも校門の外を出ると、そこに一台の黒光りする車が停まっていた。
「は?」
思わず目を疑って亜希は声を漏らす。
隣で、うわっ、と声を上げたのは市川で、早苗と志保は言葉を失っていた。
「もしかして、殿!?」
市川の大声に気付いて車の横に佇んでいたスーツ姿の男が顔を上げて亜希たちに視線を向ける。
彼は目を細めて微笑み、軽く手を上げた。
「陽慧、大きく育ったな」
「市川です。お久しぶりです、って言っていいのか分からないけれど、また会えて嬉しいです」
亜希たちが日岡に駆け寄ると、日岡はまず市川の頭に、ぽんっと軽く手を乗せて、志保と早苗の頭にも、ぽんっ、ぽんっ、と続けて手を乗せて軽く撫でる。
そして最後に亜希に視線を向けて顔を綻ばせると、車の助手席のドアを開いた。
「乗って」
「えっ」
僅かに体を後ろに引いた亜希の隣から市川が、待って、と声を上げる。
「久坂の両親に許可を取らないと、殿は未成年の誘拐になります」
「大丈夫。さっき亜希ちゃんのお母さんに連絡して許可は貰っているから」
日岡と交際することになったことは、昨日のうちに家族に報告して両親からの許可を貰っている。
日岡が亜希の家に来てくれて両親を説得してくれたのだけど、前世のあれこれを省いて説明をするのは本当に困難で、軽く修羅場だった。
だからと言って、前世の話を持ち出せば、普通の人間には理解できない。余計な混乱を招くだけだし、日岡の印象を悪くしてしまう恐れもあった。
亜希は三人に視線を向けてから、日岡の顔を見上げて首を振った。
「でも、これから早苗たちと勉強会をする約束があって……」
「いい! 亜希、いいから! そんなの今度でいいから‼」
「うん、行きなよ。こっちは気にしなくていいよ!」
早苗と志保にものすごい勢いで言われ、ぐいぐいと背中を押されるように亜希は日岡の車に乗る。
ぱたんと日岡にドアを閉められて、車の外で日岡が早苗と志保に、ありがとう、ごめんね、と笑顔を向けている様子を窓ガラス越しに見つめた。
日岡が運転席に乗り込んで来て車をゆっくりと走らせ始めたので、亜希は車の中から三人に手を振った。
「亜希ちゃん」
呼ばれて日岡に振り向けば、彼はハンドルを握ってまっすぐ前を向いている。
そのまま亜希に振り向くことなく彼は言った。
「少し遊びに行こうか」
「どこに行くの?」
「亜希ちゃんが喜びそうなところかな。30分くらいで着くよ」
府中市の街並みを抜けて、道幅の広い真っ直ぐな道路を西に向かって快適に走っていくと、しだいに亜希の目に映る緑が増えてくる。
ブーブー、とバイブ音が聞こえて亜希は運転席のスマホホルダーに入れられた日岡のスマホに視線を向けた。
「無視していいから」
「でも、さっきから鳴りっぱなしだよ」
スマホ画面には『水谷』とある。
鳴っては切れて、すぐに鳴るという鬼電を繰り返してくる相手が、日岡の秘書の水谷であることは明白だった。
スマホから水谷の怒りが伝わってきて亜希は、まさか、と顔を引き攣らせる。
「仕事、抜けて来ちゃったの?」
「今日は大した予定が入っていなかったんだ」
「いや、絶対にそうじゃないよね。大事な用があったんじゃないの?」
じゃなかったら、こんな鬼電されるわけがない。
「亜希ちゃんほど大事な用事なんてない。――ほら、もう着いたよ」
言われて亜希はフロントガラスに視線を向けた。
都内とは思えないのどかな風景と洋館のような建物が目に入る。そして、亜希はすぐに馬の姿を見付けて、身を乗り出すように腰を浮かせた。
「馬だ! 馬が走ってるよ!」
柵に囲まれた馬場があって、そこで乗馬の練習が行われている。
大人が多いが、亜希よりも小さな子供の姿もあって、馬もサラブレッドだけではなくポニーもいた。
「亜希ちゃんも乗ってみる?」
「乗れるの!?」
「体験を予約しておいたから、30分くらい乗れるよ」
信じられない! と亜希は日岡に振り向いて、ぱあっと笑顔を浮かべる。
すると、日岡が息を呑んだ気配がしたが、亜希は構わずシートベルトを外すと運転席の方に身を乗り出して興奮しながら言った。
「すごくすごく嬉しい! たぶん、ここ、私もチェックしていたところだと思う。乗馬の練習ができるところを捜していて、体験に行きたいなって思っていたんだ」
「そうなんだってね。お母さんから聞いたよ」
「お母さんから聞いて、ここを予約してくれたの?」
「ううん、違うよ。ここに亜希ちゃんを連れて行きたいって話したら、お母さんが、亜希ちゃんが騎手を目指している話を教えてくれたんだ。――競馬騎手になりたいの?」
「うん」
頷いてから亜希は、あっ、と思い出したように声を上げてから声音を低めて言い添える。
「これは『玉座が欲しい』とかいうのとは違うからね。本気なやつだよ」
一瞬、面食らったような顔をしてから日岡は、ははは、と笑って腕を伸ばし、亜希の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
その手がくすぐったくて、心地よくて、亜希は目を細める。
「亜希ちゃんのやりたいことをやればいいし、なりたいものになればいい。欲しい物があれば、躊躇なく手を伸ばして欲しいと思うし、そのための手助けをしたいと思っているよ」
「日岡さん……?」
「君が前世ですべてを捧げてくれたから、現世では何でも叶えてあげたいんだ」
「日岡さん、そういうのは――、ちょっと違う」
「違う?」
訝しげな日岡の視線を受けて、亜希は懸命に言葉を選ぶ。
「確かに蒼潤は峨鍈にすべてを捧げたけど、そのことで自分が犠牲になったとは思っていないよ。蒼潤が自分で望んで、そうしただけなんだ。だって、思い出してみて、蒼潤はいつだって、嫌な時には嫌だって言ってたでしょ?」
日岡は僅かに亜希から視線を逸らし、昔を思い出しているような表情を浮かべた。
「確かに言っていたけれど、蒼潤が嫌がっても峨鍈が無理やり押し通した記憶しかないな」
「ああー」
日岡に言われて亜希もそんな気がしてきた。
「うん、でも、なんて言うか、前世の負い目みたいなものを感じて、現世で尽くされるのは違うかなぁって思う。だって、そういうのって、なんか、重いじゃん?」
重くて、お互いにしんどくなるのは嫌だ。
そう言うと、日岡は不意に真顔になって、亜希の顔に顔を近付けて言った。
「ごめん、亜希ちゃん。俺、重いかも」
「えっ」
「やっぱり亜希ちゃんの望みは全部、俺が叶えたいんだ。前世の負い目とか、自分を犠牲にしてとか、そういうのは無しにしても、亜希ちゃんが喜ぶようなことをしたい。そう思うことに喜びを感じるから。――それから、ようやく手に入れた君を絶対に手離すつもりはないから、ずっと一緒にいるためなら何でもする。どんなことでも苦じゃない」
「重いね……」
だけど、そうかと亜希は思う。
重たいくらいの想いがなければ、何年もかけて各地を巡り、蒼潤の生まれ変わりを探したりはしない。
「重たいけど……」
亜希は日岡に笑顔を向けて両腕を伸ばした。
「だけど、好き! 重くても好き! 無理やりでも、むちゃくちゃでも、呪われてても、あり得なくても何でもいいよ。それでも貴方が好き! 前世ではあまり言えなかったから現世ではいっぱい言おうと思う。好き!」
感極まったように日岡にぎゅうっと抱き締められて、亜希も力いっぱい抱き締め返す。
日岡の肩口に額をぐりぐりと押し付けて、亜希は胸がいっぱいになった。そして――。
(蒼潤)
心の中で、自分のどこかにいるであろう蒼潤に向かって呼び掛ける。
(あのね、蒼潤。好きな人に『好き』って言うと、幸せな気分になれるんだ)
亜希もいつか『愛している』という言葉の意味を理解した時に、それを彼に伝えたいと思う時がくるだろう。
その時が来たら、絶対に後悔がないように素直に言うんだ。
(だから、蒼潤……)
亜希は、自分がまるでこの世で一番大切なものになったかのように日岡の腕の中に包まれながら、葵陽の草原を思い浮かべる。
その蒼い草原の真ん中には、蒼潤がひとり佇んでいた。
寂しそうで、悲しそうなその姿を痛ましく思っていると、不意に蒼潤が名前を呼ばれて顔を上げる。
蒼天の果てから解放された峨鍈が馬を駆けさせ、蒼潤を迎えに来たのだ。
(蒼潤がその胸に抱いた想いを伝えるのに、遅すぎるっていうことはないと思うんだ。――だって、蒼潤には私がいるから)
蒼潤の前で峨鍈が馬から降り立ち、二人は駆け寄って抱き締め合った。
そして、蒼潤は峨鍈に告げるんだ。
――愛してる。
【完】
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
この話で本編完結ですが、後日、亜希と日岡のその後の話を投稿予定です。
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