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80.懐かしい景色


 おそらく峨鍈は意識が朦朧としているのだろう。耳も聞こえなくなっているのかもしれない。

 蒼潤は強く抱き締めてくる峨鍈の背中を何度も叩きながら、その腕の中から逃れようと体を捩って暴れたが、そうすればそうするほど、峨鍈は蒼潤を逃すまいと力を込めてくる。

 だから、蒼潤は暴れるのを諦めて体から力を抜いた。

 ただ、これだけは言わなければならないと、声を張る。


「伯旋、聞け! 俺はお前を……っ!」


 峨鍈の手がなだめるように蒼潤の背を撫でる。

 ああ、と亜希は思った。もうすぐだ。もうすぐ蒼潤は殺される。


(嫌だ! 殺されたくない!)

  ――彼には殺されたくない‼


 峨鍈が蒼潤を突き放すように僅かに体を離すと、彼は臥牀に隠し持っていた剣を手にした。


(愛しているから!)

 ――と、その時、蒼潤が心の中で悲痛に叫ぶ。


(彼に自分を殺させてはいけない。死ぬのなら、自分で死ななくては!)


 だめだ、やめろ、と激しく抵抗する蒼潤の涙に濡れた頬に峨鍈は唇を寄せる。

 そして、彼は蒼潤の体を突き放すと、手にした剣で蒼潤の体を貫いた。


「――っ‼」


 蒼潤が受けた痛みで、亜希は息を詰まらせる。

 峨鍈はすぐに蒼潤の体から剣を引き抜いて投げ捨てた。


 突き刺された胸が焼けるように痛い。

 どくどくと血が溢れ出て、その血と共に体から力が失われていくようだった。


「すまない」

「……お前に……言わなきゃ…」


 ――愛してる、って。


「天連、すまない」

「…俺は、もっと……もう少しだけでも…っ、時間が、欲しかった…のにっ! ――お前を……」


 ――もっと、ちゃんと別れを告げたかった。出会えたこと、自分を選んでくれたこと、愛してくれたこと、そのすべてに感謝して、口付けて、来世を誓いたかった。


「すまない」

「……お前を……っ。………龍…殺しの、お前を……」


 ――お前に俺を殺させたくなかった。死んでしまったら無に戻り、もはや会えなくなるお前が、ただ、ただ、恋しい。


(ああ、ダメだ! 別れたくない! 会えなくなるなんて耐えられない)


 いつまでも素直になれなくて、『好きだ』と告げた数よりも『嫌いだ』と憎まれ口を叩いた数の方が多かった。

 愛してるのに『愛してる』と口にしたこともなくて、そのことを、とても後悔している。

 彼に自分を殺させた上に、来世を誓うことなく、このまま死んでしまったら、きっと自分たちの魂は、もう二度と出会うことはない。


(そんなの、イヤだ!)


 蒼潤は最期の力を振り絞って峨鍈の胸元を掴み、彼に顔を寄せると、噛み付くように言い放った。


「――呪ってやる」


 その声は確かに峨鍈の耳に届いて、彼の表情を歪ませる。

 蒼潤は自分の体から流れ出ていく龍の血に強く強く願った。

 その血が峨鍈の体を赤く染め、その体に染み入っていくように、自分の想いも彼の体と魂に染み入り、刻み込まれるようにと。


 伯旋はくせん、と最期に蒼潤が小さく小さく呟いて、亜希はその体から弾き飛ばされる。

 蒼潤という体を失ったのだと亜希が理解すると、亜希の意識は上へ上へと浮上していった。


 白い。

 眩しさに包まれて亜希は、ぎゅっと瞼を閉ざした。


 しばらく目を閉じてやり過ごし、それから、ゆっくりと目を開くと、見渡す限りの蒼。

 澄み渡った空が亜希の視界に延々と広がっていた。

 薄く流れた雲は、白い鳥が翼を広げたように風にたなびいている。


(ここは……)


 どこかで見た覚えのある景色だった。

 蒼潤の故郷である互斡城の近くかと思ったが、辺りを見渡しながら、そうではないと気が付く。

 ここは葵陽きようだ。

 その外郭門を出て、ずっとずっと馬を駆けさせると、互斡国の草原に似た景色が広がる場所に行き着くのだ。


 あの時もこの場所だったと亜希は記憶を呼び起こす。

 蒼潤が峨鍈のやしきを抜け出して草地に横たわっていると、心配した峨鍈が朝服から着替える暇も惜しんで蒼潤を追って来てくれたのだ。

 そして、蒼潤はこの場所で、死を見つめるのをやめて、峨鍈と共に生きることを決意した。――ここはそういう場所だ。


 思い返せば、亜希は初めて蒼潤の夢を見た時も、この場所だった。

 懐かしさを亜希に抱かせるここが、蒼潤が亜希に植え付けた原風景なのかもしれない。


「日岡さん……」


 亜希は日岡の姿を捜して、もう一度辺りに視線を向ける。

 だが、蒼潤の記憶のように彼が亜希を迎えに来てくれる気配はなかった。


(ここじゃない)


 亜希はその場にしゃがみ込むと、草地に両手をついて、地面のずっとずっと下を見据えるように目を凝らした。

 すると、亜希の足元が透き通り、まるでガラスの床の上に立っているかのように、下の光景が見える。


 そこは亜希が蒼潤の体を置いてきた峨鍈の臥室だった。

 広間のような臥室の奥に置かれた臥牀の上で、峨鍈が蒼潤の亡骸を抱き抱え、声を殺して泣いている姿が見える


「――っ‼」


 そのあまりにも痛ましい姿に亜希は言葉を失った。

 蒼潤はとっくに蒼潤だったことを忘れて次の場所へと旅立ったというのに、峨鍈はずっとこの場所に囚われて一歩も進んでいないのだ。

 それは蒼潤が意図したことではなかったが、蒼潤がかけた呪いの結果に他ならなかった。


 亜希は両手を高く振り上げて、ガラスの床を砕きたいとばかりに地面に拳を叩き付ける。


(行かなくっちゃ! 彼のところに行かなくっちゃ! すぐに。今すぐに!)


 だけど、ガラスの床に阻まれて、亜希では峨鍈のもとに降りていくことができなかった。

 ただ彼の姿を見下ろしていることしかできない。

 やがて力尽きた峨鍈がその瞳から光を失っていく。その様子を亜希は最期まで見守った。



 ▽▲



 ぱちっと瞼を開くと、白い壁紙が貼られた天井が見えた。

 美貴が窓のカーテンを開く音が部屋の中に響いて、亜希はベッドの上で体を起こす。


「亜希ちゃん、おはよう。――えっ、大丈夫?」

「何が?」

「何がって、涙が出てるよ」


 美貴に言われて亜希は自分の頬を手の甲で擦った。美貴の言う通り、顔が涙でぐしょぐしょに濡れている。

 亜希は二段ベッドの上から飛び降りると、顔を洗いに洗面所に移動した。


 Tシャツにデニムパンツ、薄手の上着を羽織って亜希は階段を下りる。その格好を見て、先に起きて食卓にみんなの箸を並べていた優紀が驚いた表情を浮かべて言った。


「出掛けるの!?」

「9時になったら行く」

「ダメよ、亜希。外出禁止だって言ったでしょ?」


 朝食の味噌汁を食卓に出しながら母親が言う。

 美貴も拓巳も二階から降りて来たのを見て、亜希はお釜を開いた。優紀に渡される茶碗に次々とご飯をよそって美貴に手渡す。

 すると、美貴は茶碗を食卓に並べた。


「お母さん、私さ……」

「どうかしたの?」

「たぶん、好きな人ができた」

「――っ!?」


 母親だけではなく、姉妹たちも拓巳も驚愕して、いっせいに亜希に振り向いた。

 亜希は痛いほど視線を感じながら最後の茶碗にご飯をよそり終えて、お釜の蓋をぱたんと閉める。


「まだ確定しているわけじゃないんだけど、たぶん、そうなると思うんだ」


 だから、と言って亜希は母親に振り向き、それから、一番最後にリビングにやってきた父親に振り向いて言葉を続けた。


「今日、絶対にその人に会わなきゃいけない」


 本当は今すぐにでも彼のもとに走って行きたいくらいだ。

 だって、これ以上、彼を待たせてはいけない。


「とりあえず、食べなさい」


 誰よりも先に父親が食卓に着いて、それに倣うように亜希たちも自分の席に座った。

 誰も何も話し出さないまま食事が始まり、黙々と料理を口に運ぶ。

 やがて食事を終えて亜希は箸を置いた。ちらりと壁掛け時計を見やると、短い針が7の数字を指している。

 亜希はぎゅっと拳を握り締めてから、重苦しい沈黙を破って言った。


「私、どうしても行かなくちゃいけないから、出掛けちゃダメだって言われても、窓から飛び降りてでも出かけると思う」

「やめなさい」

「どこに行くの?」


 父親に窘められ、母親に問われ、亜希は答える。


「たぶん競馬場」

「ちゃんと帰って来るのよね?」

「うん」

 

 頷きながらも亜希は予感していた。

 今日、彼と会うか、会わないかで、亜希のこれからの人生はまったく異なるものになっていくのだと。


 会えば、きっと亜希は彼の手を取らずにはいられないだろうし、会わなければ亜希は彼を見捨てることになるだろう。

 彼の苦痛を知ってもなお、すぐに駆け付けなかったということは、そういうことになるからだ。


 ――そして、亜希は彼を見捨てられない。


「亜希がちゃんと帰ってくるのなら……」

「出掛けてもいいの?」

「だって、部屋に閉じ込めても抜け出していくんでしょ?」

「うん」

 

 だったら仕方がないじゃないの、と母親がため息を漏らした。

 父親は何も言わないが、概ね母親と同じ考えのようだ。

 亜希は食べ終えた食器を台所の流しに運ぶと、ありがとう、と言って二階の部屋に戻った。


 競馬場の門が開くまで、まだ時間がある。

 その間に日岡が書いた小説の原稿を読んでおく。――蒼潤の最期のシーンだ。


(いくつか蒼潤のセリフが間違っているところがあるから、日岡さんに書き直して貰わないと)


 峨鍈のセリフさえも亜希の記憶とは違っているような気がする。

 どこがどう違うのか、後でちゃんと話せるようにチェックしながら原稿を読んでいると、気付けば、時計の針が9時を指していた。

 亜希は慌てて原稿を元の場所に仕舞い込むと、部屋を出て階段を駆け下りる。

 玄関で靴を履いて、行ってきます、とリビングに向かって大声を出してから外に出た。









ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

「読んだよ!」のリアクションを頂けましたら、たいへん嬉しいです。

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