79.繰り返される最期の日
蒼潤は、分かったと呟くように言って、峨驕の胸に両手をついて、その体を押しやる。
「今は伯旋のところに行かせてくれ。あいつが俺を待ってる」
「父上が亡くなったら、わたしのもとに来てくださいますか?」
「……」
頷かない限り、峨驕は蒼潤を離してくれないだろうか。
だが、蒼潤は頷けなかった。峨驕の眼差しから目をそらして喉から声を絞り出すように言う。
「考えてやる」
それ以上のことは何も言えなかったので、後は押し黙って、ぎゅっと体を堅くしていると、やがて峨驕が蒼潤の体の上から退いた。
蒼潤は峨驕から解放されるとすぐに峨鍈の寝殿に向かった。
後宮の回廊を駆け抜けていく間に何人もの女官たちと擦れ違う。彼女たちは蒼潤の姿を見ると、さっと廊下の端に退いて頭を深く下げる。
大きく扉が開け放たれた寝殿の入口の左右に衛兵が立っており、その手前で孔芍の姿を見つけた。
彼は蒼潤の姿を認めると深く拱手してから、暗く沈んだ顔を上げて蒼潤の足を止めさせた。
「ご家族を順に呼ばれて最期の言葉を告げられております。青龍王は一番最後にお通しするようにと仰せつかっております」
「青龍王? ――ああ」
それは蒼潤のことだと亜希は思い出して、蒼潤の声で亜希は、そうか、と呟いて顔を伏せる。
峨鍈が即位する時に、皇后になることを拒んだ蒼潤のために、彼が『青龍王』という爵位をくれたのだ。それは郡王よりも上位であり、蒼潤のみに与えられるものだと彼は言っていた。
この時の蒼潤はどうだか知らないが、亜希は呼ばれ慣れていないため、思わず聞き返してしまった。
すると、孔芍が驚いたように瞳を見開く。亜希の腕を掴んで、まさか、と息を呑んでから言った。
「亜希さんですか?」
「えっ」
「ついにここまで、たどり着いてくださったのですね」
「ええっと、もしかして水谷さん……?」
城戸が教えてくれた話を思い出して、亜希は孔芍の顔に視線を向けた。
孔芍は、日岡の秘書である水谷の前世なのだという。
「水谷さんも夢を見ていたんだ?」
「社長と出会ってすぐに例の本を読むように命じられましたので。実を言いますと、わたしはこの時の夢を見るのは、今回で5回目なのです」
え? と亜希は首を傾げた。
水谷が口にした言葉の意味がよく分からなかったので聞き返そうとすると、その前に寝殿の中から、ぬっと大きな影が出てくる。
「俺と律子は9回目だ」
うんざりとした声に亜希は視線を上へ上へと向けた。
「城戸さん!」
「亜希ちゃん、やっと来たな。待っていたよ」
「9回目って、どういうこと?」
「そのまんまの意味だ。俺たちは、あいつが死ぬ日を繰り返し夢で見ている。俺と律子が初めて見た夢も、この日のことだった」
「わたしもですよ」
水谷が眉を顰めて静かな口調で言う。
「ただ、わたしの場合、この日の夢よりも陽慧が亡くなったという報せを受け取る日の夢を何度も繰り返し見ますね」
「それだけ、お前にとって陽慧の死は大きな衝撃だったということだろう」
「ええ、そうなのでしょう。ですから、現世であの子に会えたなら、健康管理くらいきちんとしなさいと罵ってやりたいです」
ははは、と亜希は脳裏に市川の顔を思い浮かべながら乾いた笑いを響かせる。
だが、すぐに笑いを引っ込めて亜希は眉を寄せた。
「大切な人が死ぬ時の夢を繰り返しみるなんて、しんどいね」
城戸が、呪いだと言ったその意味がようやく分かったような気がした。
日岡はもちろん、彼らもずっとこの場所に囚われているのだ。
「亜希ちゃん、この後の展開を知っているんだよな?」
「うん。蒼潤も死ぬんだよね?」
「どうやって亡くなったのかも承知していますか?」
亜希は水谷に視線を向けて、うん、と頷いた。
「やっぱり、その時って、痛いのかなぁ。苦しいのかなぁ」
「ごめんな。怖いよな」
城戸の大きな手が亜希の頭の上に置かれる。
ゆっくりと優しく頭を撫でられて、亜希はキュッと唇を引き結んだ。
――怖い。
だって、これから自分は峨鍈に殺されにいくのだ。
だけど、逃げることは許されない。ようやくここまでたどり着いたのだ。
呪いを解きたいと思った時から、亜希は後戻りを許されていない。
蒼潤の記憶を追い続けて知ってしまった気持ちが亜希の心を染めてしまったから、今さら何も知らなかった時に戻ることはできないのだ。
しばらく寝殿の入口で待っていると、涙に頬を濡らした雪怜が、彼女が産んだ娘と共に寝殿から出てきた。雪怜の娘はとっくに他家に嫁いでいたが、父親と最期の別れをするために帰って来たようだった。
彼女たちは蒼潤に向かって頭を深く下げると、寂しげな背中を晒してその場を去っていった。
それから、さらに待つ。
寝殿の奥から静かな足音が近付いて来て、梨蓉が蒼潤を呼びに出てきた。
梨蓉は亜希を見て、そして、城戸と水谷に視線を向けて、はっとする。
「亜希ちゃんなの?」
声を震わせ、瞳を潤ませながら梨蓉が両腕を大きく広げ、ふわりと亜希を抱き締めた。
「律子さん?」
「うん…うん……。亜希ちゃん、ずっと、あなたを待っていたの」
「律子さん、私、中に入ってもいい?」
律子の両腕に、ぎゅっと力が込められる。そして、すすり泣いているかのように体を震わせた。
「一緒に入りましょ。きっと私は、あの人に出て行けって言われるだろうけど、こっそり隠れて側にいるからね」
「うん」
ありがとう、と亜希が言うと、律子が亜希の手を握って、寝殿の中へと亜希を促した。
この夢は、葵暦220年が始まって間もない日のことである。
亜希が峨鍈の臥室に入ると、死を間近にした者が放つ独特な臭いが室の中に充満していた。
香を焚いて誤魔化そうとしていたが、臥室の奥に置かれた牀榻に近付けば近付くほど臭いは咽るほどに濃くなって、亜希は怯みそうになる。
亜希が律子の手を強く握ると、律子もすぐに握り返してきて、大丈夫よ、と囁くように言った。
臥牀の周りを覆った床帳を捲って、その内側に入ると、土色の顔をした峨鍈がそこに横たわっていた。
亜希は律子から手を放し、峨鍈の枕元に膝を着く。
すると、峨鍈が思いのほか力強く片手を払って、臥室の中で控えていた医官や女官たちを下がらせた。
律子は彼らと一緒に下がったふりをして、臥室の隅の方に身を寄せている。
「……天連…」
目が見えにくくなっているのだろう。峨鍈が蒼潤の姿を求めて手を空に彷徨わせた。
亜希はすぐにその手を取って、ここにいる、と答える。
「体を起こしたい。手を貸してくれ」
「うん」
亜希は臥牀に膝を乗せると、峨鍈の背中を支えながら彼の上体を起こさせた。そして、そのまま峨鍈の背中を支え続ける。
目が眩くらむのだろう。何度も何度も、ぐっと瞼を強く瞑つぶって峨鍈は言った。
「嫈霞や明雲、雪怜の今後は、驕に頼んだ。だが、お前のことだけは頼むことができなかった」
日岡が書いた小説通りのセリフだ。
亜希は、うん、と言って頷いた。
「尭の地で、お前が平穏に暮らせる場所はない。姉妹のもとに送ることも考えたが……」
「分かっている」
「――天連」
「うん」
「共に死んでくれないか?」
覚悟していたつもりだったが、亜希は思わず息を呑む。
そして、何も言えずにいると、峨鍈が続けて言葉を口にした。
「死ぬのは嫌か?」
「……嫌だ」
やっとの思いでそれだけを言うと、亜希はじんじんと目頭が熱くなって、ぽたぽたと涙を零す。
「嫌だよ、伯旋……。お前が死んでしまうのが、本当に、いやだ…っ」
「……すまない」
謝る峨鍈の声に亜希は、ゆっくりと顔を上げて彼の目を見やる。
心から申し訳なさそうにしている彼を見て、亜希はもうどうすることもできないのだと思った。
きっと蒼潤だって、そう思ったはずだ。
日岡が書いた小説では、ここで蒼潤は、大宛に行って、汗血馬を育ててみたいなどと言っていたが、きっと蒼潤は本気でそう望んでいたわけではなく、ほんの少しだけ峨鍈を恨めしく思って、彼を困らせるようなことを言ってみたくなっただけなのだ。
もうすぐ死んでしまう彼が恨めしくて、憎らしい。
そして、愛おしい。
もっと長く彼に生きていて欲しいし、西域の国々にだって、蒼潤ひとりで行きたかったわけじゃないんだ。
峨鍈と一緒に世界の広さを知りたかったんだ。
だけど、それは叶わないことなのだと蒼潤は理解している。
だから、最初から蒼潤は峨鍈と共に死ぬ覚悟で、ここに来ていた。
「お前が死んだら、すぐに毒を呷る」
――そう。それが蒼潤の心からの言葉だ。
ところが、峨鍈はそんな蒼潤に対して、それでは不足だとばかりに首を横に振る。
「儂が驕なら、その前にお前を拘束するだろう。お前を死なせまいとするはずだ」
ああ、そうかもしれない、と先ほどの峨驕とのやり取りを思い出して蒼潤は思った。
「お前を、他の男に渡すつもりはない」
「俺も、ずっとお前のものでいたい」
「――だから、天連、今だ。儂がまだ剣を握れるうちに死んでくれないだろうか」
「伯旋、お前と死ぬのは構わない。だけど、待ってくれ!」
蒼潤は顔を上げて峨鍈を見やり、慌てたような声を上げる。
それを拒絶と受け取ったのだろう。峨鍈が振り向いて蒼潤の腕を引き、その体を自分の両腕の中に抱き込んだ。
(力が強い!)
今にも死にそうなくせに、と亜希は思った。
それほど峨鍈も必死なのだろう。
「待って。いやだっ!」
「儂もすぐに逝く」
「違う! 伯旋、違うんだ。俺、まだ、お前に言わなければならないことがあって……っ」
「痛いのも、苦しいのも、一瞬だ」
――話を聞いてくれない!