7.蒼潤との出会い
話題が『蒼天の果てで君を待つ』のことになると、脳裏に日岡の顔がちらりと浮かぶ。
本日、何度目だろうか。早苗に尋ねられるたびに彼の顔が思い浮かんで、今もまた本と結びついて彼の顔を思い出す。
日岡の、高野とは別種の胡散臭さを感じさせる笑みを浮かべた顔は、造形は悪くなかったように思う。
だから、きっと学生時代はモテただろうと思う。――いや、もしかしたら、今現在もモテモテかもしれない。26歳だと聞いたので、社会的に見ればまだまだ若い部類だろう。
だけど、12歳の亜希にしてみれば、十分に『おっさん』だ。干支だって、ひと周り以上違う。
その『おっさん』が書いた小説を自分が読んでいると思うと、なにやら不思議な気分になった。
何がどう不思議なのかというと、そこはよく分からないけれど、胸がざわざわと落ち着かなくなるような、居心地の悪さが湧いてくるのだ。
知らず知らず眉間に皺を寄せていると、その眉間を早苗にペシッと叩かれた。
「ここまで読んだんだから最後まで読んでね。それにね、2巻からが本当に面白いの!」
早苗は何かを思い出したかのように、ふふっと笑う。
「2巻から、いよいよ峨鍈の最愛の妻――蒼潤の登場だよ」
「え? 峨鍈の妻って、梨蓉でしょ?」
亜希は、何を言っているんだと早苗の顔を見つめながら片眉を歪めた。
梨蓉とは、大恋愛の末、峨鍈の妻になった女性だ。1巻のメインストーリーと言ってもいいほどの大恋愛だったのに、峨鍈は彼女の他にも妻を娶るつもりなのか?
(信じられない! 妾だって、いつの間にか両手に足の指を足した数ほどいるのに‼)
梨蓉に深く肩入れして苛立つ亜希の様子を見て、早苗は苦笑を浮かべた。
「梨蓉はね、峨鍈が蒼潤を娶った後は側室にされちゃうの。ひどいよね。でも、仕方ないんだよ。この本の世界ではね、天下を取りたいと思ったら天に相応しい血が必要なの」
「天に相応しい? 何それ?」
「つまりは皇族。蒼家の血よ。天を語るにも蒼家の血が必要で、蒼家の血を得て初めて、天を仰ぐことができるという世界なのよ」
「ワカラン。まったくワカラン。だって、空を見上げるくらい自由じゃん」
「空じゃなくて、天だってば。もうっ!」
いまいち理解できていない亜希に、早苗は、ぷくぅっと頬を膨らませた。
早苗の機嫌を損ねては面倒なことになると亜希は、それで? と話の続きを促しながら自分が本を読んで得た情報を披露する。
「峨家の血は卑しいってところ読んだよ。おじいちゃんが宦官なんだよね? さらに遡っても商人だって」
「うん、そう!」
ぱっと早苗の顔が輝く。亜希がちゃんと本を読んでいて、しかもその内容を覚えていることが嬉しいらしい。
「峨鍈にとって、自分の血が卑しいってことは最大のコンプレックスだったの。峨家には、宦官だった峨旦が貯め込んだ財があって、その財で買った官位もあったのよ。峨鍈のお父さんは、三公のうちの太傅の官位を金で買ったの。だけど、いくら財を持っていても、どんなに高い官位があっても、峨鍈が天を語るには、高貴な血が必要だったのよ。卑しい者がいくら天を語っても、誰も耳を貸してくれないから。――そういう世界なの」
どんなに腑に落ちなくとも、そういうものなのだと言われてしまえば、渋々納得するしかない。血が何よりも価値を持ち、力を持つ。そういう世界なのだ、と。
早苗は、ほんのりと頬を赤く染めて興奮気味に話を続けた。
「そこで、峨鍈が目に付けたのが、蒼昏の三姉妹だったの。蒼彰、蒼潤、蒼麗。蒼昏が正妃との間に設けた娘たち」
「へぇ、三姉妹」
「しかも、蒼潤は、亜希と同じで真ん中だよ」
自分と同じだと聞くと、ちょっぴり親近感がわく。
だけど、それはそれ。蒼潤とやらが三姉妹の真ん中だろうと、峨鍈と梨蓉の仲を裂く存在は頂けない。
「――でもさ、峨鍈はあんなにも梨蓉のことが好きだったじゃん? 瓊倶から奪っちゃうくらいにさ。妻にした後だって、ベタ誉めしてるじゃん。腹を立てた時も顔や態度に出さず、喜んだ時も節度を忘れない――だっけ? 顔が美しいだけじゃなくて、頭の良い人だって。メロメロじゃんか。それなのに、新しく娶った女のために、梨蓉を正室から側室にしちゃうの? 高貴な血が欲しいから? ――血って言うか、つまりは血統だよね? 血統って言うと馬っぽいから、血筋って言った方がいいのかな」
競走馬において何よりも重要視されるのは血統だ。
血が大事というよりも遺伝子が大事なわけなので、本の世界とは少し違うのかもしれないが、なんとなく似たようなところを見付けられると、ぐっと物語が身近に感じられる。
「とにかく! 血筋だけが目的で妻にされちゃったその人も哀れだけど、そのせいで側室にされちゃった梨蓉が可哀想。峨鍈って、なんか許せなくない?」
小説の登場人物のことなのに、なぜか著者である日岡の顔が浮かぶ。本当に、もうっ、本日何度目だよっていう顔を思い浮かべながら、峨鍈の行いが、作者である日岡の行いであるかのように思えてきてイライラしてしまった。
長々と文句をたれる亜希を引きつれながら早苗は本棚と本棚の間を進むと、カウンターの隣のお薦め図書コーナーのラックの前までやって来た。そこにお目当ての本、『蒼天の果てで君を待つ』が並んでいる。
ところが、早苗は、あれ? と小さく声を上げた。
「2巻がない」
「え?」
「誰か借りてるのかなぁ」
小首を傾げて早苗は図書室の中を見回す。そして、カウンターの中から注がれる視線に気付いて、司書教諭の顔を見上げた。
司書教諭の浦部は、嬉しそうに瞳を細めて図書室のテーブル席の方を、すっと指差した。
テーブルと椅子が並んだ読書スペースでは、教科書を開いている者もいれば、漫画を読んでいる者、本を読んでいるという態でヒソヒソとおしゃべりをする者たちがいる。
もちろん、本来の読書スペースの用途である読書を真面目に行っている者もいて、そのひとりである少年が『蒼天の果てで君を待つ』の2巻を読んでいた。
「またひとり、私のお薦めの本を読んでくれる子が現れて嬉しいわ」
綺麗に微笑みながら浦部が言うのを聞きながら、亜希は少年の顔をじっと見つめて小首を傾げた。
誰だろうか。見た覚えのない顔だが、上履きに入ったラインの色が亜希たちと同じ黄色なので、同学年だ。
長めの前髪で目元を隠すようにして熱心に本を読んでいる。
「あの子、知ってる。市川君だよ」
「だれ? なんで知っているの?」
早苗は人見知りをするたちだ。慣れてくれば、ぺらぺらとおしゃべりになるが、初対面の相手には貝のように口を閉ざしてしまう。
なので、早苗は亜希か志保と行動を共にしたがり、実際、学校では可能な限り二人のどちらかと一緒にいるので、早苗に亜希が把握していない交友関係があるとは意外だった。
「D組の男の子なんだけど、同じ小学校だったんだよ。見覚えない?」
「ない」
きっぱりと言い放つと、早苗は苦笑を漏らして言った。
「私は図書室でよく見かけたよ。小学校で同じクラスになったことはなかったから、話したことは一度しかないけれど」
「話したことあるんだ?」
「市川君と私って、本の好みが同じみたい。二人で同時に同じ本を取ろうとしちゃたことがあってね、それで……」
ひと昔前の少女漫画でありそうなシーンを実演してしまったらしい。手と手がぶつかって、あっ、という古典的なあれである。
まさに早苗が好きそうな乙女チックなシチュエーションである。
「市川君と、また読んでいる本が被っちゃった。これって、運命かも……」
「え……?」
少女漫画の次は運命と来たか。早苗のロマンチックが爆発したような発言に思わず耳を疑っていると、その隙を突くように亜希の隣から早苗が消えた。はっと我に返ると、早苗は市川のもとへ、とことこと歩み寄っている。
亜希は慌てて早苗を後を追った。
「市川君」
声を潜めて早苗が呼び掛けると、呼ばれた少年が本から顔を上げた。そして、何度か瞬きをすると、自分の傍らに立った早苗を仰ぎ見る。
早苗は市川の瞳に自分の姿が映ったと知ると、にっこりして言った。
「市川君もその本を読んでいるんだね。私も読んでいるんだよ」
「俺は司書さんに薦められて、さっき読み始めたとこ。1巻がなかったから、2巻から。――2巻から読んでも大丈夫だって、司書さんに言われて」
「1巻は、亜希が借りているの。もうすぐ読み終わるんだよね?」
前半は市川に向けた言葉で、後半は亜希に振り向きながら早苗が言った。
亜希が曖昧に頷くと、市川は亜希の読むスピードが遅いことを察して片手を前に出すと、声変わり前の、少年特有の高い声で言った。
「いいよ、ゆっくりで。司書さんの言う通り2巻からでも読めたし。――これ、面白いね」
「市川君もそう思う? 面白いよね。どんどん読めちゃう。私はこれから4巻を借りるところなのよ」
まるで自分を褒められたかのように、早苗は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
市川は、こくんと頷いて微笑む。
「今、峨鍈と蒼潤が出会うシーンを読んでいたんだけど、面白いんだ。峨鍈が心の中で『汚い』って何度も何度も言っているのが、おかしい」
「汚い?」
どういうことだろうかと、まだ読んでいない亜希が怪訝な顔をすると、早苗は市川の隣の席に腰を下ろして、さらに隣の席の椅子の座面をとんとんと叩いて亜希にも座るように促した。
「峨鍈が蒼潤と初めて会ったのは、馬小屋だったの」
「馬小屋?」
馬と聞いて亜希の興味が惹かれる。
早苗の隣の席に座ると、いったいどういうことなのかと二人の顔を交互に見やった。
【メモ】
市川 亮
中1。12歳。亜希と同学年だが、他クラス。
小学校も同じだが、クラスが違ったため、亜希は覚えていない。
早苗とは小学校の図書室で出会っていて、話が合うようで、早苗の人見知りが発動されない。
誘拐経験を持つ天才少年。図書委員。
早苗のことは『藤堂さん』と呼ぶのに、亜希のことは『久坂』と呼ぶ。
早苗からは『市川君』と呼ばれ、亜希から『市川』と呼ばれている。