78.蒼天は既に選んだ
「落雷があったようだが、大丈夫だったのか?」
「すべて瓊倶の陣営に落ちたから、こちらに被害はない」
「偶然か?」
「安琦の言う通り、俺は運がいい!」
にっこりとして蒼潤は峨鍈を見上げた。
何か隠していると峨鍈は疑うような眼差しを向けてきたが、とりあえず今はそれを追及するつもりはないようだ。
雨で濡れて青く染まった蒼潤の髪に視線を向けて、峨鍈は自分の外套を脱いで蒼潤の頭に被せた。
「お前のせいで儂の寿命が縮む。お前に死なれたら困るのだ。お前は儂の『勇』なのだから」
「勇?」
「かつて、斡太上皇に言われたのだ。『智』、『勇』、『美』のいずれかを選べと。そして、儂はお前を選んだ。お前は儂の『勇』だ」
「ならば、お前は俺を選んだおかげで瓊倶に勝てたんだ。そうだろ? だって、お前は6倍の兵力差に怖気づいていたんだからな。――だけど、お前。以前は俺のことを己の片翼だと言ったぞ」
「比翼の鳥だ」
「そうそう、それだ」
蒼潤は面白がってケラケラと笑い、まあいい、と言って言葉を続ける。
「なんであろうと、俺がお前のものであることに違いない」
ほら、と峨鍈に向かって両腕を大きく広げた。
「お前の勇で、翼だ。受け取れ」
言って蒼潤が笑顔を向ければ、峨鍈が息を呑んだ気配がする。
彼が一歩前に踏み出すように蒼潤に歩み寄ってきたので、蒼潤は広げた両腕でぎゅうっと峨鍈に抱き着いた。
△▼
亜希ちゃん、と呼ばれて亜希は枕から顔を上げる。
声の方に振り向けば、美貴が部屋の扉を大きく開いて、夕飯だよ、と言った。
「ちょっと寝てた」
「うん、寝てたね」
「まったくお腹すいてないんだよねぇ」
「ほとんど動いていないからね」
ベッドを降りて、亜希は夕食を取りに美貴と共にリビングに向かう。
あんたは本当にゴロゴロしてばかりね、と母親に言われながら食事をして、少しばかりテレビを見て、再び部屋に戻った。
そう言えば、まだやっていなかった、と思い出して月曜日までの学校の課題を済ませ、優紀と入れ代わるように風呂を使う。
パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツに着替えて、再びベッドの上によじ登った。
(どこまで読んだっけ……)
本のページを捲って、峨鍈軍が瓊倶を捉えたところを探し出す。
猩瑯城に戻った峨鍈と蒼潤が身支度を整えて幕僚たちが集まる場に出てくると、縄を掛けられた瓊倶が地べたに座り込んでいる。
瓊倶よりも高い位置に用意された椅子に峨鍈が座り、蒼潤はその傍らに立つ。
こういう時、峨鍈は蒼潤を華やかに着飾らせる。女物ではないが、龍と牡丹の刺繍が施された袍を纏い、結った髪には簪を挿している。耳飾りや首飾りは、重たく感じるほどに豪華な物だ。
――峨鍈にとって、蒼潤は権威の象徴なんだよ。
そうと語ったのは、市川だ。
王冠や玉座などと同じで、権力や支配を示すシンボルなのだという。
ただし、峨鍈がそう思っていても、蒼潤にその自覚はないので、なぜこんな格好をしなければならないのかと、蒼潤は不平不満だらけだ。
そんな蒼潤をよそに、峨鍈が蒼潤の手を取って握ると、瓊倶が顔を上げて峨鍈を睨みつけた。
唇の端に血を滲ませながら口惜しそうに声を荒げる。
「峨鍈! わたしはお前に負けたわけではない。蒼家の血に負けたのだ!」
続けて、瓊倶の血走った眼が蒼潤を捕らえる。
「郡王よ! わたしが、瓊家が、蒼家のためにしてきたことをご考慮くだされ。蒼家を守れるのは瓊家だけですぞ。峨家の力では国は治まりません!」
蒼潤は嫌悪感を露わにして細めた目で瓊倶を見下し、冷ややかに言い放った。
「血を頼る時代は終わったのだ」
「郡王……」
「血が国を治めるわけではない。人が国を治めるのだ。国は人の集まりであり、血の集まりではない。峨家が国を動かすのではなく、峨伯旋が動かせば良いと、わたしは思う」
「では、わたしが。この瓊供甫が郡王の手足となり、国を動かしてみせましょう!」
蒼潤は頭を左右に振る。雨は既に上がっていたが、乾き切れていない蒼潤の髪は未だ瑠璃色の輝きを放っていた。
「蒼天は既に峨伯旋を選んだ。他の者に心を奪われることはない」
――あっ!
と声を漏らして亜希は、もう一度、先ほどの文章を読み直す。
――蒼天は既に峨伯旋を選んだ。
蒼潤が『蒼天』と口にしたシーンだ。
(これって、どういう意味で言ったんだろう?)
蒼天とは、天帝の意味があると拓巳が教えてくれたが、蒼潤のこの口ぶりだと、自分自身を指して『蒼天』と言っているようだ。
(でも、そうなのかも……)
この時、蒼潤の父親である蒼昏は既に亡くなっている。
峨鍈は宣言通りに蒼潤以外のすべての龍を殺しているので、青王朝の郡王は蒼潤ただひとりである。
蒼絃は皇帝の座についているが、龍ではない。仮の皇帝だと考えれば、蒼潤こそが青王朝の真の主であり、青王朝そのものなのだ。
(蒼天が蒼潤を意味していて、果てが終わりや死という意味なら、蒼天の果てって……)
亜希は、ぱたんっと本を音を立てて閉じた。
もしも自分のこの考えが正しいのであれば、峨鍈も日岡も本当にバカだと思う。
そんなところで待っていて欲しいだなんて、蒼潤も亜希も思ってはいないのだから。
(そんなところで、いつまでも、じっと待っていちゃダメだ!)
だって、そんなの、悲し過ぎるし、苦しいに決まっているのだから――。
△▼
天連様、と呼ばれて亜希が振り向くと、呂姥が不安げな表情を浮かべて蒼潤の臥室に入って来た。
亜希は自分が蒼潤の体の中にいることに気付いて、臥牀に横たわっていた体を起こし、呂姥の方に顔を向けた。
「起こしてしまい申し訳ございません。少しはお休みになられましたか?」
「どうしたの?」
「子毅様がお越しです」
「驕?」
「どうなされますか?」
不思議な問いだと思って、亜希は怪訝顔をする。
「追い返すわけにはいかないと思う」
「では、お会いになるのですね?」
「う、うん……?」
峨驕。字は、子毅。
峨鍈と梨蓉の息子で、蒼潤よりも8つ年下である。幼い頃から蒼潤のことを慕ってくれていたので、蒼潤も弟のように思い、面倒を見てきた。
そのような相手に対して、呂姥は何を不安がっているのだろうか。
呂姥の手を借りて身支度を整えると、峨驕を待たせている隣の室に移動する。
蒼潤の姿を見て、峨驕が榻から立ち上がったので、亜希は手を前に広げて峨驕に座るように言い、自分も別の榻に腰を下ろした。
「お休みのところ申し訳ございません」
「いや、構わない」
呂姥に差し出された器を受け取って、器に満たされた水で口の中を潤す。
それから、峨驕に視線を向ければ、すっかり大人になっている彼は本当に峨鍈にそっくりで、亜希は思わず目を細め、唇に笑みを浮かべた。
「何か話があるから来たのだろう?」
「ええ、そうです」
ひと呼吸を置いてから、峨旋は話を切りだした。
「父上が亡くなった後、貴方はどうなさるつもりですか?」
「伯旋は死なない」
反射的に応えて、亜希はじろりと峨驕を睨んだ。
そして、この夢は――と視線を辺りに流しながら、自分が置かれた状況を探った。
亜希が今いる場所は後宮の一室だろう。では、この夢の中では、峨鍈はすでに即位している。
峨驕の口ぶりから峨鍈の病状がかなり進んでいることを察した。
「もはや長くはありません。侍医は皆、首を横に振ります」
死なないと言いながらも峨驕の言葉に、そうなのだろうと思って亜希の胸が痛む。
峨鍈が死んでしまうことは、既に日岡が書き綴った小説の原稿を読んで知っていた。
しだいに諦めに似た感情がじわりじわりと蒼潤の胸に広がって、亜希は悲しみを込めて言葉を放つ。
「あいつが死んだら、俺は生きている意味がない」
すると、峨驕が跳ねるように顔を上げて、蒼潤に向かって声を荒げた。
「意味など、新に見つければ良いではないですか! 例えば、わたしの為に生きてくださいませんか?」
「お前の為に?」
意味が分からず聞き返すと、峨驕は眼を細めて微笑んだ。峨鍈と似た笑い方をする。
それが、どうしようもなく、蒼潤と亜希を切なくさせた。
「父上の死後、その喪が明けたら、わたしの妻になって下さい。不自由はさせません。貴方が望むのならば、皇后にして差し上げる。――父上は、貴方を皇后にしなかった。だが、わたしなら貴方を皇后にして差し上げられる!」
馬鹿な、と蒼潤が亜希を押し退けて吐き出すように言った。
「断る。俺は伯旋だったから、あいつの伴侶になった。だが、あいつのためだろうと、皇后にはならなかった。それなのに、あいつ以外の者の皇后になるわけがない」
「では、皇后でなくとも構いません。わたしの側にいてください。わたしはずっと貴方をお慕いしてきました。父の妻だと思ったことはない。兄――いや、姉のように思っておりました。父の妻でさえなければ、手に入れられるのに、と口惜しく思っておりました」
「お前の想いなど、知らん。聞きたくもない!」
蒼潤が切り捨てるように冷たく言い放つと、ダンッと峨旋は床を踏み鳴らして立ち上がった。
その姿は見上げるほど大きく見えて、蒼潤も亜希も恐れを抱いた。
峨驕は数歩で蒼潤に歩み寄ると、その腕を掴む。
一瞬だった。天地が逆転したと思った瞬間には、もう床に引き倒されていた。
蒼潤は我に返り、己に圧し掛かっている男を睨み上げた。
「退け!」
「黙れ! ――覚えておかれるが良い。貴方はこんなにも無力だ。父上が死ねば、帝位はわたしが継ぐ。わたしの命に誰も逆らうことはできない。貴方はわたしの妻となるのだ!」
「……っ!?」
亜希は、しくじったと苦々しく思った。
こんなにもはっきりと告げられたことはなかったが、以前の夢でも峨驕が蒼潤に対して、異常な執着を見せてきたことを思い出したのだ。
(安易に会うべきではなかった)
呂姥の気遣わしい表情の意味を今更ながら理解した。
「驕……」
蒼潤が眉を寄せて悲しげに峨驕を見上げる。
「俺はお前を嫌いになりたくない。だから、退いてくれ」
「いやだ! 嫌われてもいい。貴方が欲しい!」
泣きそうだなと思ったが、もはや泣きわめいて欲しいものを強請るような子供ではないのだなと、峨驕の顔を見つめた。