77.四百年の王朝の重み
瓊倶は顎髭を軽く扱いた。
そして、深江郡王の姿を見つけると、身を乗り出してその姿に目を凝らす。
「よく見えんが、郡王の容姿は如何ほどだろうか」
「深江郡王の妹君は絶世の美女として知られています。父も母も同じであれば……」
「そうであろうな。あの峨鍈が女として扱っているくらいだ。さぞかし見目麗しい方なのだろうな。近くで、お顔を拝見してみたいものだ」
「殿?」
「郡王を我が陣に迎える。城を落とし、深江郡王をわたしのもとにお連れするのだ!」
そうして、瓊倶は自ら兵を率いて城壁の前に立つ。
地響きが鳴る。瓊倶軍の重装備の攻城部隊が雲梯車の梯子を城壁に掛けようとしていた。
城壁の上から矢が雲梯車に向かって降り注ぐ。雲梯車を推し進めている攻城部隊が次々に矢に貫かれ、倒れていく。
城壁に雲梯車がたどり着く前に攻城部隊が全滅すれば、雲梯車は無意味な場所で立ち往生してしまう。
攻城部隊を守ろうと、井闌の上から城壁に向かって矢が放たれた。
すると、矢を射られない深江郡王の側に投石器が設置され、そこから放たれた大きな石によって井闌をいくつか破壊された。
どおーんっ!
瓊倶の目の前で投石器によって雲梯車が破壊され、崩れ落ちる。これで使い物にならなくなった雲梯車は、2台目だ。
「殿!」
自分を呼ぶ声にハッとして振り向けば、側仕えの男が灰斗の方角を青ざめた表情で指差している。
瓊倶もそちらに視線を向けた。すると、夜明け前の北東の空が赤々と燃えていた。
灰斗の兵糧を燃やされたのだと察して瓊倶は城壁を睨み付ける。
「早く城を落としてしまうのだ! 猩瑯さえ落としてしまえば、帰る場所を失った峨鍈など滅びるしかない!」
瓊倶軍は全軍を投入して激しく攻め立てている。瓊倶の目には、猩瑯城の落城は必須のように思えた。
――しかし、その時だ。
城壁の上で深江郡王が空に向かって両手を掲げている様子が瓊倶の視界に入った。
いったい何をしているのだろうか。
その不可思議な様子を怪訝に思いながらも、瓊倶は魅入った。
いつの間にか、東の空が明るみ始めている。
長い時間、深江郡王は同じ姿勢のまま、じっと固まっており、やがて朝陽が地平線から顔を覗かせ、一筋の白い帯のような光を放って郡王を射抜いた。
「なっ……‼」
瓊倶は息を呑んだ。そして、傍らの軍師に問い掛ける。
「見間違いか? 郡王の髪が青く輝いているように見える」
「はい、わたしにもそのように。とても神々しいお姿です」
神々しい。まさにその言葉通りだと瓊倶も思った。
そして同時に、己の気持ちが昂っていくのを感じる。
高揚して体が熱い。
峨鍈がなぜ深江郡王を己の物にしたのか、その想いを理解できたような気がした。
あれは、人ではない何かだ。
尊い存在であるが故に、地を這う人であれば、手を伸ばしてみたくなるような存在だ。
さあーっと冷たい風が瓊倶の体を吹きつけた。興奮した体にその風があまりにも冷たく感じて瓊倶は、はっと空を仰いだ。
どんよりとした紫色の雲が空を覆っている。
(なんだ?)
違和感を抱いた時だった。ピカッと空に稲光が走る。
どおおおおおおおおおん、と轟音が鳴り響き、櫓のひとつが落雷に当たって燃え上がった。
朝陽は完全に上ったが、空は未だ紫色の暗い雲に覆われている。
次の落雷で、もう一つの櫓が燃える。
雲梯車や井闌も燃えたが、不思議なことに峨鍈側の陣営には雷が落ちなかった。
ざあーっと雨が降り始める。
瓊倶は城壁の上で両手を掲げ続ける深江郡王を見上げて、まさかと顔を強張らせた。
不意に郡王が視線を転じて、瓊倶の方を見たように感じる。
鮮やかに青い髪を長く腰まで垂らした郡王が、ふっと笑みを零したように見えて、瓊倶はどきりと胸を突かれた。
(――欲しい)
もっとその姿を目で追うとしたが、郡王は城壁の上から姿を消す。
やはり城を落とすしかないのだと瓊倶は下唇を嚙みしめた。城を落とさなければ、深江郡王を手に入れることができない!
「殿、落雷による被害を報告致します」
「そんなことはどうでもいい! すぐに城を落とせ!」
「しかし、雲梯車や井闌を多く失い、火消しに人手を取られています」
「残った物をすべて使え。火消しは後回しだ! とにかく城を落とせ!」
深江郡王が城壁から降りたとたんに雷がやむ。
空を覆った雲も散り始めていた。
「殿、灰斗からの早馬です」
「うるさい! それどころではないわっ! もっと衝車で突っ込め!」
城門を打ち破ろうと、衝車を向かわせた時だ。その大扉が音を響かせて開いた。
城門の内から騎兵隊が現われて、こちらに向かって風のように駆けてくる。
騎兵隊の中に青い髪を見付けて、瓊倶は思わず身を乗り出した。
「深江郡王だ」
美しいという言葉では言い尽くせない。瓊倶が今まで『美しい』と思って抱いてきた女たちとはまるで異なった『美しさ』を郡王が纏っていたからだ。
手が届かないと思わせるような気高さ。それは、じつに神々しい。
気付くと瓊倶は大声を張り上げていた。
「城はいい! 郡王を捉えるのだ!」
瓊倶は騎乗した馬の腹を蹴って駆けさせる。
「殿、なりません! 灰斗の兵糧を焼いた峨鍈軍が猩瑯に戻ってきます」
「東から1万5千の敵が側面から攻撃してきました! 夏葦軍です」
しかし、瓊倶は配下たちの注進をまともに聞き入れられる精神状態ではなかった。
瓊倶は深江郡王ただひとりを目指して単独で馬を走らせる。大慌てで護衛兵たちが追ったが、その数は500騎にも満たなかった。
「郡王を」
――深江郡王を手に入れれば、どのような戦でも勝てる。
400年の王朝の重み。そして、天候さえ操る力。それらを自分が手に入れるのだ。
瓊倶にはもはや深江郡王の背しか見えていなかった。
△▼
「天連様っ!」
甄燕の声で蒼潤は振り向いた。
瓊倶がなぜか自分に向かって突進して来ている。
城壁の上から瓊倶の姿を見つけた時、敵の大将である彼を討てば、落城寸前の危機を脱することができるのではないかと安易に思って出撃してみたが、その瓊倶の方から自分に向かって来られると、空恐ろしいものを感じて、蒼潤はぞっとする。
だって、どう考えても瓊倶の行動は無謀だ。自軍から突出している。
蒼潤の言えたことではないが、瓊倶は大将なのだから、自軍の後ろでどっしりと構えて落城を待つべきではないだろうか。
「安琦、向こうからやってくるだなんて好都合じゃないか。瓊倶を討つ!」
そうは言ったものの、瓊倶の顔は明らかに正気を失っているように見えて不気味だ。
敵兵と打ち当たって、蒼潤は天狼の足を止めると、剣を横に滑らせる。敵兵が悲鳴を上げて崩れるように倒れていった。
直ぐさま剣先を返す。そうして次の敵兵を切った。
騎乗して扱う剣は突くよりも切った方が良いと夏銚に教わった通りに、蒼潤は二人目を切ると素早く構え直して、次に備えた。
更に、ひとり切る。
返り血を浴びないような切り方をしていたが、気付くと肘の上まで真っ赤に染まっていた。
蒼潤は東方に視線を向けた。
『夏』の旗が見えて、それがどんどん近付いて来る。
(もう少しだ)
もう少しで夏葦が猩瑯に戻って来る。それまで持ち堪えていればいい。
不意に、腕が伸ばされる。
ぎょっとしながら、間一髪で避けて視線を転じれば、それは瓊倶の腕だった。
いつの間に追い付かれたのだろう。気が付くと、瓊倶は蒼潤と馬を並べている。
すかさず蒼潤は瓊倶に剣を振りかざしたが、雨で濡れた手が滑りやすくなっていたため、その剣を空高く弾き飛ばされた。
「深江郡王よ、わたしのものになってください。峨鍈などよりも、よほど良い暮らしをお約束致します」
「はあ……?」
戦場だというのに、熱に浮かされたような表情を浮かべた瓊倶に、予想もしなかったことを言われた蒼潤は、ぽかんとして聞き返した。
「正室の座をお望みでしたら、もちろんそのように致します。絹も玉もお望みのままに捧げましょう」
「……」
「貴方に相応しい場所を、わたしがご用意致します。ですから、どうか、わたしのもとにいらしてください」
「気色悪い!」
うっとりとした表情。
ねっとりとした声音。
纏わりついてくるような眼差しに、蒼潤は鳥肌を立たせて、嫌悪を露わにした。
しかし、瓊倶は構わず蒼潤に手を伸ばして来る。
「――っ!」
瓊倶の手が蒼潤に触れるか否かのその時だ。二人の間に矢が放たれた。
矢は瓊倶の手の甲を薄く傷付けて、彼方へと飛んでいく。
驚いて振り返ると、夏葦が馬を駆けさせながら、こちらに向かって弓を構えていた。
「天連殿、殿はあちらだ。あちらに向かって駆け抜けろ」
蒼潤はすぐに愛馬である天狼の脇腹を蹴った。『峨』の旗を捜して駆け出す。
途中、夏銚とも擦れ違った。
怪我はないか、と心配する声が大きく響き、ない! と叫んで蒼潤は灰斗の方角に馬を駆けさせる
峨鍈の配下たちと次々に擦れ違い、皆、瓊倶を捕らえようと、蒼潤の後ろに向かって駆けていく。
蒼潤が峨鍈の姿を見つけた時、瓊倶を捕らえたとの声と歓声が上がった。
「お前は――っ」
と言って、峨鍈が蒼潤に駆け寄ってくる。
「どうして城の中で待っていられないんだ!」
怒鳴られたが、蒼潤はちっとも恐ろしいとは思わなかった。
天狼の背から降りると、峨鍈の前に立つ。
「瓊倶の姿を見つけたから討ってやろうと思ったんだ。そしたら、勝敗が決する」
しゃあしゃあと言ってのけると、峨鍈は埒が明かないとばかりに矛先を蒼潤の後ろに控えた甄燕に向けた。
「安琦、なぜお前はこいつを止めないんだ!」
「天連様は雷も避けて通るほど運がお強いので、どうにかなるかと思いました」
甄燕も平然とした顔で答える。
峨鍈は苛立った表情を浮かべたが、雷と聞いて思い出したように蒼潤に振り向いた。