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76.猩瑯城の戦い

 

「来たぞ」

「来るなと言ったがな」


 蒼潤が室の中に入って来た。――それだけで辺りがパッと華やいだように感じられた。

 蒼潤は男の為りをしているが、以前、峨鍈が与えた瑠璃の玉が連なった蝶の簪で髪を簡単に纏めている。

 玉が擦れる音を涼しげに響かせて、蒼潤が近くに寄って来た。


「弱気になっている者がいると聞いたが?」

「そんな者はおらん」

「へえ」


 傍らで膝を着いた蒼潤の腕を引いて、その体を自分の膝の上に乗せるようにして抱き締めると、蒼潤も峨鍈の首に腕を回してくる。


「兵力差が6倍ともなると、勝てないと思うものなのか? お前は以前、杜山とざん郡に攻め入って来た壬州の叛乱軍を制圧しただろ。あの時は100万だった。味方は1万と5千しかいなかったのに」

「あれは農民による叛乱だったからだ。大した策もない、ただの烏合の衆だった」

「それでも、お前は100倍の兵力差に勝った。――そんなに瓊倶が怖いか? 瓊家は名門だと言うが、その点で競うのならば、蒼家には適わない。お前は蒼家の郡王を伴侶にしているのだぞ」


 潜在的にある瓊倶への敗北感を峨鍈の中に見つけて、蒼潤は言葉を重ねてくる。

 そもそも峨鍈が蒼家の娘を妻にしようと考えたことも、瓊倶の血に対抗しようとしたからだ。

 生まれや親から受け継いだ財とは関係なく、その者個人の能力で、生き方を切り開けるような国を作りたいと語っていたのは、峨鍈自身だというのに――。


 国を望む気持ちに偽りはない。

 だが、瓊倶への劣等感が、度々、峨鍈の正常な思考を妨げる。血を意識させるのだ。


「関係ないって言えよ。血だの、生まれなんか関係ないって。己自身の力で道を切り開いていくものなんだろう?  実力を重視した国をつくりたいって言っていたじゃないか。それなら、瓊倶に言ってやれよ。お前が誇っている血など自分との戦には通じないんだって」


 それでも、と言って蒼潤は峨鍈の耳元に唇を寄せる。


「お前が血でも瓊倶に勝ちたいと言うのなら、お前には俺がいる。――きっと、あいつの軍だって、烏合の衆だ。名門の血とやらに群がっている虫けらばかりだ。そいつらを蹴散らすために、俺に流れる血を利用すればいい。あいつらは、俺に流れる血をこの世でもっとも尊いと思っている。お前はそれを好きに使っていいんだ。お前のものなのだから」


 深江郡王が峨鍈の陣営にいる。おそらく、それを理由に瓊倶から峨鍈に下って来る者もいるだろう。

 この天下には、郡王には弓を引けないと考える者が少なからずいるからだ。

 峨鍈は蒼潤の背に手を添えて、ゆっくりとその体を床に倒していく。蒼潤が黒々とした瞳を見上げさせて、吐息を漏らすように言った。


「だけど、俺はお前には血以外のものでも瓊倶に勝って欲しい。勝てるはずだと思っているから――」  



 ――と、そこまで読んで亜希は本から顔を上げる。階段の下から『お昼ご飯よ』という母親の大声が聞こえたからだ。

 本をベッドの枕元に置いて亜希は体を起こした。


(蒼潤がやって来たとたんに押し倒したしー!)


 ちょっとどうなんだよと思うけれど、蒼潤が抵抗している描写がまったくなかったから、きっと合意の上のことなのだろう。


(いいんだけどね! 蒼潤がいいのならっ!)


 それに、蒼潤はちゃんと峨鍈を励ましている。

 峨鍈のことを心から信じていて、彼に深い想いを寄せているのだということは、蒼潤のセリフから伝わってきた。


 好きだと意識してから、好きで好きでしかたがない。

 自分のすべてを余すことなく捧げても良いと蒼潤は思っている。峨鍈になら利用されてもいいのだと。


(それほど好きだと思える相手と出会えたっていうのは、すごいことだよね!)


 亜希は、嬉しい気持ちを胸に溢れさせて、二段ベッドから飛び降りた。

 階段を降りてリビングに行くと、すでに家族と拓己が食卓を囲んでいる。


「家にいるのなら、手伝ったらどうなの?」


 亜希が食卓の席に着くと、深夜の出来事をまだ引きずっている様子の母親が不機嫌そうに言った。


「亜希ちゃん、今日は競馬場に行かないの?」

「亜希は、今週末は外出禁止!」


 美貴の問いに対して、すかさず母親が言い放つ。


「そうなんだね。ドンマイ、亜希ちゃん。オークスが来週で良かったね」

「うん、オークスは生で見たい」


 オークスとは、3歳牝馬の女王が決まるGIレースだ。

 亜希は、はっとして顔を上げて家族の顔を順繰りに見やった。


「私、オークスで優勝したい。ええっと、つまり、騎手になって、自分が乗った馬を優勝させたいっていうことなんだけど……。今はそれが夢!」

「オークスでいいんだ? ダービーじゃなくて?」

「最終目標はダービー。でも、まずオークス」


 オークスもダービーも東京競馬場で行われる2400mのGIレースだが、オークスが3歳牝馬のみのレースであることに対して、ダービーは牡馬も牝馬も出場できるレースだ。

 つまり3歳馬の頂点を決めるレースがダービーなのである。


 亜希の競馬好きに影響されて、なんとなく競馬に詳しくなっている家族の顔を見渡しながら、それで、と亜希は言った。


「いくつか乗馬クラブの見学に行きたいから、体験を申し込んでもいい?」

「いいけど、お母さんも一緒に行きたいから申し込む前に場所と日にちを教えてね」

「うん」


 昼食の焼きうどんを食べ終えると、亜希は再び読書に戻った。

 美貴の部屋に戻り、二段ベッドの上で寝転び、本を開く。昼食前に読んでいた文章を見つけると、その先の文字を目で追い始めた。



 1万5千弱の峨鍈軍は、猩瑯しょうろう城に引き籠り、35万を超える瓊倶けいぐ軍に囲まれている。

 いくさの勝敗を左右するいくつかの条件の中に、兵糧の充実がある。兵の数が多いほど、そして、兵站へいたん線を長くするほど、これは難易度が上がった。

 しかし、瓊倶は十分な兵糧を確保しており、他の物資と共に北部から度々輜重隊に運ばせている。


 ――とは言え、35万を超える兵だ。僅かな兵站の失敗が命取りとなる。

 瓊倶は兵站の道をいくつか用意し、輜重隊がどの道を通るか分からないようにしていたが、峨鍈は幾度もそれを見破り、輜重隊を襲撃し、兵糧を奪い、奪えない時には焼いた。

 すると、瓊倶軍は、あっという間に飢え始め、瓊倶は大規模な兵糧の移送を行う必要が出てきたのだ。


 柢恵が峨鍈の前に広げられた地図に指を滑らせ、灰斗はいとを指差す。

 瓊倶は灰斗に兵站基地をつくり、そこに兵糧を集めているとの情報を入手した。灰斗から自営への移送は、いずれ大軍を用いて厳重に行うつもりなのだろう。

 ならば、その前に灰斗の兵站基地を攻撃するというのが、峨鍈軍の作戦であった。


「しかし、罠かもしれません」


 夏銚の言葉に峨鍈は頷く。


「だが、瓊倶のことだ。きっと兵糧はあろう。その上で、おれおびき出そうとしているのだ」


 おそらく瓊倶は偽物の餌で峨鍈を釣ろうとはしないはずだ。餌は本物を使う。そういう男だ。


「――であるのなら、儂自ら行かねばなるまい。騎兵1万で灰斗を攻める」

「2万です、殿との。それから夏将軍方にもそれぞれ1万5千ずつ率いて出陣して頂きます。灰斗を守るのは3万との情報ですが、近くに潜んでいる可能性を考えて、灰斗の近くまで出て頂き、必要があれば殿の掩護えんごを」


 夏銚と、その実弟の夏葦かいが柢恵の言葉に頷く。

 他の者や柢恵自身も夏銚と共に出陣することとなり、峨鍈は眉を顰めて柢恵に視線を向けた。


「それで、城を守る者は?」

天連てんれんが良いかと」

「天連を?」

「殿が天連を連れ回したいとおおせなら、他の者を考えますが。――いっそう俺でも良いですし」

「天連がここに残るのは構わないが、天連だけなのか?」

「十分ですよ。ただ、瓊倶には、少なくとも5万の兵が城に残っていると思わせなければなりません。実際には1万弱ですね」

「……」


 峨鍈が不安げな表情を浮かべると、柢恵はカラカラと笑った。


「そんなに天連が心配なら、さっさと帰ってくればいいんですよ。灰斗の兵站基地を占拠する必要はございません。兵糧さえ焼いてくださればいいんです。そうすれば、早く天連のもとに帰れますよ?」

「まさかそれを狙って、天連を残すのではないだろうな?」

「そのまさかですよ」


 ケラケラと憎たらしく笑う柢恵に峨鍈は顔を顰める。

 それを見やり、夏銚が柢恵の頭にゴツンと拳を落とした。



△▼



 夜の闇に紛れるように峨鍈軍が城を出た数刻後のことだった。瓊倶軍が自ら建てた土塁を越えて、直接城壁を取り囲んだ。

 衝車しょうしゃが城壁にぶつかって行く音が鈍く大きく鳴り響いていた。


 瓊倶は自ら櫓の上に昇り、猩瑯城を眺める。

 いつの間にか土塁は城壁まで三里の距離まで近付いていて、櫓から城壁がよく見える。松明の炎で明るく照らされた城壁の上を移動している人の姿もしっかりと確認できるくらいだ。

 ふと気付いて、瓊倶は傍らに軍師たちを呼んだ。


「なぜあそこを射ないのだ?」


 絶えず矢を城壁に向けて射させている。夜も昼も関係なく、である。

 矢は雨のように猩瑯城に降り注いでいるのだが、なぜか一カ所だけ、まったく矢が届いていない場所があるのだ。

 その場所を指して瓊倶は低く唸った。まるで兵達はその場所を避けて矢を射ているように見える。

 軍師たちが目を細めてそちらを見やり、そしてすぐに彼らは、ああ、と頷き合った。


「郡王殿下がいらっしゃいます。それで皆、矢を射られないのでしょう」

「郡王だと?」


 峨鍈が娶った深江郡王のことだとすぐに思い至った。

 郡主として育てられ、峨鍈に嫁いでいるが、実は男子であり、青王朝の郡王なのだ。

 そのしらせを耳にした時、瓊倶は腹が捩れるほど笑い転げた。

 宦官の孫が男を娶ったのだ。これを笑わずにいられようか。


「なぜ峨鍈の妻が、あのようなところにいる? ――いや、なぜ兵たちはあの者を射られないんだ?」


 瓊倶は目を皿のようにして城壁を見つめ、深江郡王の姿を捜しながら更に問いを重ねた。


「青王朝は400年も続いた王朝です。その郡王を射られるわけがありません」

「皆、帝室に刃を向けることを恐れています。400年の重みは、どのような盾よりも強固な盾だと言えましょう」

「なるほど、さすが蒼家よ。蒼家の郡王の血には、何人たりとも、ひれ伏さずにはおられぬのか」  







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