75.今から寝るよ!
「私は、前世であの人が好きだったんだ。それなのに、なぜか死ぬ間際であの人を呪っているんだ。それがどうしてなのか分からない。日岡さんの原稿もその場面で筆が止まっていて、その時のことが正確に分からないんだ」
「信じられない。前世なんて、そんなの信じられない。慣れない本を読み過ぎて、頭がおかしくなっているんじゃないの?」
「姉ちゃん……」
一瞬、高野の顔が脳裏に浮かんで、高野だって本を読んだのだと言おうかと思ったが、亜希は言葉を呑み込んだ。
もしそれを口にして、高野の優紀への想いを優紀が疑うようになってしまっては、二人を不幸にするだけだし、優紀には前世に振り回されて欲しくない。
「本を読むと、前世の夢を見るようになるんだ。その夢がすごくリアルで、それで今回は、ちょっと頭が混乱した。――つまり、寝ぼけたってことだよ」
「寝ぼけて家を飛び出した亜希ちゃんを日岡さんが見つけたのは、本当に偶然なの?」
「それは……」
美貴の問いに亜希は言葉を詰まらせる。
実際、亜希もよくあの場に日岡がタイミング良く現れたなぁと思っていた。
おそらく、彼も同じ夢を見ていて、目覚めてすぐに亜希を捜しに来てくれたのだろう。そうだとしたら、それは偶然なんかではなく――。
「運命?」
「え?」
「あ……やっ、……やっぱり、偶然だよ。偶然!」
うっかり早苗が喜びそうな単語を口にしてしまって焦る。
「とにかくさ、呪いとか前世とかは信じてくれなくてもいいけど、寝ぼけて家を飛び出したところで日岡さんと会って、送って貰った、というのは本当だから。それは信じて」
「すっごい迷惑な話!」
「うん」
「それに、やっぱり信じられない」
「うん」
「――で、亜希は日岡さんが好きなの?」
「えっ」
「だって、前世で好きだったんでしょ?」
信じられないと言いながら、優紀が真顔で聞いてくる。
とんでもない爆弾を投げ付けられたような気がして、亜希は体がびくっと震えた。
「前世で好きだったからって、また絶対に好きにならなきゃダメってことはないよね? それに私は前世で日岡さんを呪いながら死んだわけだし……」
「なんで呪ったの?」
「だから、そこらへんが曖昧なんだって」
殺されたんだってことは、ややこしくなりそうなので伏せておく。
第一、殺される直前まで蒼潤が峨鍈を想っていたのは確かで、殺されたことを呪うほど恨んでいたとは亜希には思えなかった。
何か他に理由があるはずだ。
「その本を読むと、前世の夢を見られるようになるって、本当?」
不意に拓巳が口を挟む。
壁に背中を預けたまま、床に正座する亜希を見下ろして、それから、亜希の手元にある本に視線を向けた。
「俺も読んでみたい」
「ダメ!」
「私も受験が終わったら読みたい」
「絶対にダメ!」
「亜希ちゃん、私も読みたいな」
「だから、ダメだって! 呪いだって言ってるじゃんか。もっと怖がってよ!」
亜希以外の三人がそれぞれ顔を見合わせて肩を竦める。
「だって、怖そうに聞こえないし」
「むしろ楽しそう」
「私にも前世ってあるのかなぁ。どんな感じだったのかな。気になる」
三人の視線を集めて、亜希は、うっと言葉を詰まらせた。
(姉ちゃん、あんたは前世でも頭は良いし、美貴、あんたは前世でも可愛いよ。拓巳の前世はいろいろ大変だったけど、天寿は全うするし、寒い思いも、ひもじい思いもしない)
三人の前世を教えてやりたい気持ちになったが、亜希はぐっと堪えて首を横に振る。
「前世が幸せだったとは限らないんだから、覚えていないことを思い出す必要はないんだ。――だけど、私はここまで思い出してしまったのだから、最期まで思い出したい」
「なら、夢を見るしかないんじゃないかな。夢を見ることで前世を思い出してきたんだろ?」
ぱっと顔を上げて拓巳に振り向いた。
拓巳は亜希の隣に屈み込んで本の表紙に視線を落とす。そして、表紙のタイトルをそっと呟いた。
「蒼天の果てで君を待つ。――『果て』って、終わりという意味だよな」
「蒼天の終わり? 青い空の終わり? 地平線っていうこと?」
「蒼天には確か『天上の神』の意味もあったはず。天帝とか」
「天帝?」
「天帝の終わり。――天帝の死?」
「死……」
がっ、と亜希は本を掴むと、飛び跳ねるように立ち上がった。
「私、寝る。今から寝る!」
目はギンギンに開いていて、まったく眠気を感じていないけれど、もう少しで何かを掴み取れそうな気がして亜希は優紀の部屋を飛び出した。
美貴の部屋に戻って、二段ベッドの上によじ登る。
だけど、やっぱり瞼を閉ざしてみても、まったく眠れる気がしないので、枕元に置いておいた本を手に取った。
そして、少しの眠気も訪れないまま5巻を読み進め、晤貘をやっつけてしまった。
柢恵の拒馬槍は大活躍をし、蒼潤は傷ついた馬たちを一頭でも多く救おうと、戦闘後、馬の手当てに駆け回っていた。
亜希は一瞬、馬専門の獣医を目指すのも有りかと心が揺れたが、すぐに、そうじゃない、と思い直す。
(馬の病とか治療法とか、知識として持っていても良いとは思うけど、違うんだよ。私は馬に乗りたいんだよ)
晤貘を倒して、ひとつ憂いを払った翌年、蒼麗が穆珪に嫁いだ。
そうして南への不安を取り除いた葵歴200年。ついに瓊倶との戦いが始まる。
この時、峨鍈が瓊倶との戦いに投入できる兵力は6万弱しかおらず、対して瓊倶は35万を超える兵を率いて南下してきていた。およそ6倍の兵力差である。
(数字だけ見たら勝てるわけがないんだよね)
だけど、勝ったのだということは既に早苗や市川から聞いている。
思い返せば、敵の数が圧倒的に多くて勝てそうにない戦ほど峨鍈は勝利してきた。
逆に、こんなところで負けるのかと思うところで負けるので、峨鍈という男はよく分からないところがある。
亜希は残りわずかになってきた5巻のページを捲って、寝がえりを打った。
蒼潤の前では弱さを見せない峨鍈が孔芍と柢恵を相手に弱音を吐いているシーンが続く。
蒼潤は戦場には連れて行かず、もしも自分が負けたら瑞州にいる蒼彰のもとに逃がすようにと峨鍈は孔芍に言った。
すると、柢恵が首を横に振って言う。
――負けた後のことを考えているとは、殿らしくないです。それに、自分だけを逃されても天連は喜びませんよ。天連に剣を持たせてやってください。あいつは漢なんですから。
だけど、結局、峨鍈は蒼潤を併州城において戦場に向かった。
併州に攻め入ってきた瓊倶軍を峨鍈は利杜で迎え撃つ。その利杜で敗れ、峨鍈軍は猩瑯まで撤退した。
峨鍈が猩瑯城に引き籠ってから戦局が膠着し、すでに二ヶ月が過ぎている。
その間、動きがあったと言えるのは、瓊倶が築いた土塁ばかりだ。
瓊倶は猩瑯城に対するように陣を敷き、土塁を築き、櫓を建てている。もはやそれは陣というより砦であり、街のようでもあった。
櫓からは絶えず矢が放たれてくる。
矢は雨のようで、瓊倶軍は味方が矢を射ている間に、土塁の前に更に土塁を築いている。そうして、徐々に猩瑯城に向かって前進してきているのだ。
すでに土塁は三重にもなっていた。
瓊倶が猩瑯城に近付けば近付くほど、峨鍈軍の受ける威圧感は増し、戦わずして負けに近付いているようであった。
「不幸を呼び寄せそうな顔をしておいでです」
峨鍈のもとに夏銚がやって来て言った。
「勝機が見えん。苦しいな」
「やはり天連を呼びましょう」
柢恵が言うと、それが良いと夏銚がすぐに頷いたが、峨鍈は額を片手で押さえ、もう一方の手を大きく振った。
「必要ない。呼ぶな」
「しかし、殿は弱気になっておられます」
「あいつは、儂が弱気になっているからと言って、慰めてはくれんぞ」
「それは殿が天連の前では弱音を吐かれないからです」
なるほど、と峨鍈は低く唸った。
「あれは儂が負けるかもしれんなど微塵も考えておらん」
「俺もですよ」
「馬鹿な。儂にも負ける時があるということをお前は知っているだろう」
じろりと柢恵を睨むように見やれば、柢恵はニヤリと笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。ですけど、天連もちゃんと知っていると思いますよ。殿は女に迷って命を危うくしたことがありますから」
蔀城で帷緒に奇襲を受けた時のことを言っているのだと、峨鍈はすぐに気付く。
それは三年前のことだ。峨鍈が蔀城に攻め入ると、帷緒は己の妻を置き去りにして逃げた。
帷緒の妻の吟氏は美しいと評判だったが、それだけではなく、閨房術に長じているということでも知られていたので、峨鍈は吟氏の臥室を訪れて彼女の肌を夜通し楽しんだ。
主が楽しんでいるのだから配下の兵たちも気が緩み、その油断が、逃げたはずの帷緒の奇襲を許してしまったのだ。
思い出して苦々しい表情を浮かべると、柢恵はニヤニヤしながら言葉を続けた。
「――それでも天連は殿のことを信じています。殿が瓊倶などに負けるはずがないと。まさか、そこまで信じられている天連の前で殿は弱気でいられますか?」
「いられるわけがないな! すぐに呼ぶべきだ!」
夏銚が膝を大きな手のひらで打ち鳴らす。
「殿も元気になられ、兵達の士気も上がるというものです」
勝手に決めて柢恵は筆を取った。
葵陽に残してきた孔芍と蒼潤に宛てた文を書くつもりなのだろう。峨鍈は観念して文机に頬杖を付いた。
そこまで読んで、亜希は5巻の最後のページを捲り、そして、本を閉じた。
二段ベッドから飛び降りて、水谷から受け取った紙袋の中を漁り、6巻を取り出すと再び二段ベッドの上によじ登った。
6巻の表紙を開き、ページを捲る。
6巻の内容は、蒼潤が峨鍈のもとにやって来たところから始まった。