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73.一番幸せだった頃


 蒼潤は何も聞かされていず、ただ、柢恵から調練に付き合って欲しいと頼まれただけだったので、地面から突如として生えた拒馬槍にひどく驚かされる。激しい怒りさえ感じた程だ。

 蒼潤の目の前で、何も知らずに勢いよく駆けてきた馬たちが次々と槍に傷付けられた。

 槍を恐れ竿立ちになり、乗り手を落とした馬もいて、馬も兵もボロボロだ。しかも、その後の展開もひどい。


 拒馬槍だと分かった蒼潤は慌てて騎馬隊を返させた。

 逃げて、後ろを振り返るように確認すると、半数以上が落馬しており、残った者も柢恵が率いた弓兵から手ひどくやられ、最終的に蒼潤の側には数十騎しか残されていなかった。

 甄燕が歩兵を率いて逃げ道を確保してくれなかったら、蒼潤は柢恵に捕らえられていただろう。


 蒼潤は天狼から降りると、まずは天狼の腹を、そして、首、蹄を確かめた。

 幸い天狼は無傷だったが、他の多くの馬たちの負傷報告を受け、蒼潤は全身を震わせる。

 再び天狼に跨り、一目散に柢恵の元へ駆けた。

 柢恵は蒼潤の反応を予測していたのだろう。すぐに、降参だと両手を天高く上げて見せて言う。


「天連、ついに晤貘ごばくを討つ時が来たんだ。この調練は、晤貘が有している最強騎馬に対抗するための策の最終仕上げだったんだ」


 だから、あまり怒ってくれるな、と柢恵が蒼潤に向かって言ったところで、亜希の意識が蒼潤の体に宿ったのだ。

 亜希は、甄燕から馬たちの怪我の程度を聞くと、むうっと顔を顰めて柢恵を見やる。


「馬が可哀想だ。俺の馬のことじゃない。晤貘軍の馬たちのことだ」

「敵の馬のことだろ?」

「馬は馬だ。敵じゃない。偶々敵に所有されているというだけだ。俺が手にしたら、俺の馬になる」

「それでも、拒馬槍をこうやって使うしか晤貘に勝つ策がない。晤貘の騎馬隊を封じなければ」

「分かっている。だけど……」


 負けたことはもちろん悔しい。

 だけど、目の前で馬たちが傷付けられて、亜希は涙が滲んでしまうほど悔しかった。


「――じゅん!」


 不意に名を呼ばれて、亜希は弾かれたように後ろを振り向く。

 峨鍈が、晤貘との戦いに備えて赴郡から呼び寄せた夏銚かちょうともなって、馬を駆けさせて来る姿が見えた。

 二人は亜希の近くまでやって来ると、馬の背から降りて亜希の姿を見下ろし、ため息をついた。


「随分と、ぼろぼろにやられたようだな」

「怪我はないか?」


 夏銚が心配そうに低い声を響かせる。

 彼は既に蒼潤の正体を知っているのだが、蒼潤が男の為りをしている時は今まで通り自分の息子の『夏昂かこう』として蒼潤を扱ってくれた。

 だから、蒼潤も変わらずに夏銚のことを『爸爸ちちうえ』と呼ぶ。


「爸爸、悔しいです」


 ぎゅっと拳を握り締め、涙を溜めた瞳で夏銚を見上げれば、彼がぐっと喉を鳴らす音が聞こえた。

 おそらく、この場に峨鍈がいなかったら、大きな手で頭を撫でてくれたはずだ。それから、慰めるように、ぎゅっと抱き締めてくれたかもしれない。


 だが、夏銚は峨鍈の視線を感じると、亜希の肩を掴んで、ぽいっと峨鍈の方にその体を押しやった。

 亜希は瞳を大きく瞬いて、峨鍈に抱き付く格好になる。峨鍈は抱え込むように亜希の体を抱き締めると満足そうな顔になって、柢恵に視線を向けた。


「うまくいったようだな」

「はい、縄を引く頃合いを見定めるのが難しかったのですが、天連のおかげで掴むことができました。ですが、あともう少しというところで、天連を逃してしまい、己の力不足を感じます」

「遠くから見ていたが、安琦が有能なのだ。天連の下につけておくのが、実にもったいない」


 恐れ入ります、と甄燕が峨鍈に向かって拱手する。

 うむ、と頷いてから峨鍈は再び柢恵に視線を戻して言った。


「実戦では石塢せきうに後詰めを任せる。お前は敵を拒馬槍におびき寄せること、そして、縄を引く頃合いだけに集中すればいい」

「お任せください。必ず殿の期待に応えてみせます」

「ああ、期待しよう。――ところで、陽慧。お前のせいで、おれ潤々(じゅんじゅん)が泣いてしまったではないか。どうしてくれる?」

「はあ……」


 柢恵が困惑の声を漏らしたのと、亜希が峨鍈の腕の中で顔を赤らめ、彼の背中を強く叩いたのは、ほぼ同時だった。


「泣いてない! それから、潤々、言うな!」

 

 この頃、峨鍈は蒼潤の名を重ねて『潤々』と呼ぶ。

 この呼び方は、男女が二人きりの時に、男が女を呼ぶ時に使う呼び名だ。女のように扱われていることに対しても腹立たしいが、人前でそう呼ばれたことが、ものすごく恥ずかしい!


「もういい! 帰る! 放せ‼」


 ジタバタと暴れて峨鍈の腕の中から抜け出そうとすれば、峨鍈がますます力を込めて抱き締めてくる。

 その様子を少し離れたところで眺めながら、天連、と夏銚が父親面して言った。


「今日はもう、お前の兵たちは休ませた方がいいだろう。怪我をしている者も多い。きちんと手当てをするように命じておけ」

「うん」


 頷いて、亜希は甄燕に視線を向ける。甄燕はすぐに意図を察して自分の馬に騎乗すると、蒼潤の兵たちの方へと駆けていった。

 不意に亜希の体が、ふわりと空に浮く。峨鍈に抱き上げられたのだと気付いた時には既に彼の馬の背に乗せられていた。

 峨鍈も騎乗して、亜希の体を背中から抱き締めるように手綱を握る。


「帰るのだろう?」

「そうだけど……」


 天狼に乗りたい。できれば、自分で馬を走らせたいと、亜希は内心、むっとなった。


 ――だけど、まあいい。


 峨鍈の胸に背をもたれさせると、彼の温もりが伝わってきて、ホッとする。

 彼の強い力で抱き締められると、蒼潤の心に芯が通ったように感じて、亜希はこれでいいのだと思った。

 ずっとこのままでいたい。

 だって、ここが、この腕の中が自分の居場所だ。

 

(好きだ)

 

 亜希は自然と心の中に沸いた感情に驚いて、ぱっと後ろに振り向いて峨鍈の顔を仰いだ。

 目と目が、ぴたりと合う。

 亜希は彼を見つめたまま、その目を大きく開いて彼の胸元を掴んだ。

 すると、彼も目を見開いて、何かを察したような表情を浮かべた。だが、すぐに亜希から視線を逸らして言った。


「前を向け。馬から落ちてしまう」

「……違う」


 亜希は小さく呟き、そして、手を伸ばして彼の頬に、そっと触れる。


「だれ?」


 ほとんど直感だ。

 なんの理由もないし、当然、根拠もない。だけど、目の前の彼が峨鍈ではないと気付いて亜希は尋ねた。

 彼も目の前の蒼潤が蒼潤ではないと分かっている様子だった。


「前を」


 彼は答えず、前を向くようにと再び亜希を促して、馬の腹を蹴る。

 二人を乗せた馬が駆け始めたので、亜希は慌てて顔を前に向けて馬の鬣を両手で握り締めた。


 そして、その時。

 亜希は世界から弾かれたように、ぱちりと瞼を開いた。


「――っ‼」


 飛び起きると、ゴトン、と音を立てて本が二段ベッドから床に落ちる。

 その本の表紙を見下ろして、亜希は息を呑んだ。


(見つけた!)


 亜希は二段ベッドから飛び降りると、居ても立っても居られなくなって部屋を飛び出した。

 階段を駆け下りて玄関で靴を履く。寝巻き代わりのTシャツとハーフパンツのまま家から外に出ると、どこへとも分からずに走り出した。


 街灯のともった住宅街を全力で駆け抜ける。

 細い道から大通りに出ると、ぱっと視界が開けて亜希の目の前に藍色の空が広がった。

 正面から吹きつけてくる夜風に押し戻されるように亜希が足を止めると、すぐ目の前をクラクションを響かせながらスピードを出した車が走り抜けていった。


「……っ」


 直前で足を止めていなかったら……と思って、亜希はゾッとする。

 道路に飛び出して車にねられるところだった。たちまち頭がすうっと冷えて、亜希は来た道を振り返る。


(帰ろう)


 見つけたと思ったのは確かだ。

 だけど、そこから、どうすればいいのか、どこに行けばいいのか、亜希には分からなかった。


 先ほど見た夢は、きっと蒼潤が一番幸せだった頃の夢だ。


 柢恵が生きていて、いつも隣には甄燕がいる。

 芳華は柢恵との縁談が纏まって、とても嬉しそうで、そんな彼女を眺めていると、蒼潤も幸せな気分になれた。

 夏銚がいて、彼の息子の夏範もいて、本当の父や兄のように接してくれる。

 蒼絃との関係も良好で、たまに皇城に呼ばれては他愛もない話をしたり、蒼絃に乗馬を教えたりしていた。


 そして、蒼潤は峨鍈のことが好きだ。

 その想いに気付いてから、どんどん彼が好きになって、彼のすべてが愛おしかった。


 会えない時は会いたいと思うし、会えば触れたいと思う。

 触れ合って、もっと彼に近付きたい。

 彼が自分のものだと実感できるくらいの温もりを感じれば安心でき、彼が自分を己の片翼だと言う意味が分かったような気がした。


 再び車のクラクションが聞こえて亜希は、ハッとなる。家に帰るつもりが、無意識に競馬場への道のりをたどっていた。

 いつもなら自転車で走り抜ける道を、とぼとぼと歩いている自分がなんとも頼りなく、心細くて堪らなかった。


「亜希ちゃん!」


 呼ばれて亜希は顔を上げる。

 先ほどクラクションを鳴らして過ぎ去って行ったはずの黒い車が路肩にまって、亜希が歩いてくるのを待っていた。

 運転席の扉が開いて、すらりとした男が車から降りてくる。


「……なんで、いるの?」


 亜希は彼から数歩の距離を取って足を止めた。


「失踪中じゃないの? なんで、今ここにいるの? 私にGPSでもつけた?」


 不信感をあらわにして見やれば、日岡は首を横に振る。


「なら、誰かに私を見張らせているの?」

「いや」

「じゃあ、なんで……」


 問いを重ねようと口を開くが、亜希はすぐに思い直して、もういいや、と視線を伏せた。

 そうして亜希が黙り込むと、日岡が助手席のドアを開いて言った。


「亜希ちゃん、家まで送るから乗って」


 亜希はちらりと日岡の車の中に視線を向けると、首を横に振る。











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