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72.想いを追って


 亜希たちは司書室の大きなテーブルを囲むように椅子に座って、それぞれ口を引き結ぶ。

 膝の上で置いた拳を亜希は、ぎゅっと固く握りしめた。それから、顔を上げて律子の方に振り向く。


「日岡さんは、この小説をどうやって完結させるつもりだと思いますか? それは、つまり、どこまで書くつもりなんだろうってことで……」

「分からないわ。だけど、彼は自分が死んだ後のことを知らないはずだから、そこまでしか書けないはずよ」

「律子さんは、この時のことを覚えていますか? 夢で見たことは、ありますか?」


 亜希の言葉に、早苗も志保も、市川も、律子に視線を向けた。

 律子は悲しそうに眉を下げて、小さく息を漏らす。


「異変を感じて殿との臥室しんしつに戻った梨蓉が目にしたものは、血まみれの天連殿をかかえて亡くなっている殿の姿よ」

「え…。峨鍈も死んだの…? すぐに?」


 律子が亜希の目を真っ直ぐに見つめながら頷いた。


「じゃあ、本当に最後の力を振り絞って、蒼潤の体を剣で貫いたんだ」


 峨鍈はいつだって蒼潤の前では自分を大きく見せようとしていて、死ぬ間際でさえ弱さを見せなかったから分からなかったけれど、本当のところ、ギリギリで意識を保っていた状態だったのかもしれない。

 苦しかったのは峨鍈もおそらく同じで、彼だって死が怖かったに違いない。まだまだ、やるべきことが残っていて、それを為せないまま死ななければならないことが、さぞ悔しかったことだろう。


(だけど、それはそれ)


 峨鍈に残された時間は僅かだったかもしれない。

 だけど、もう少し蒼潤の気持ちに寄り添う時間があっても良かったのではないかと思う。

 蒼潤だって、自分が生きていることで災いとなることは理解していたし、毒を呷るとまで言っていたのだから、峨鍈に殉じることを受け入れていたはずだ。


(ただ、もうちょっと心の準備をする時間が欲しかったんじゃないかなぁ)


 きっと芳華や甄燕に別れの挨拶もしたかったはずだ。


「蒼潤と峨鍈が亡くなった後って、どうなりました?」

きょうが帝位を継いだわ。――そうそう、驕と言えば。驕がね、殿とのと天連殿の亡骸なきがらを引き離そうとしたのだけど、殿の腕がしっかりと天連殿を抱き抱えたまま固まってしまっていて、引き離すことができなかったの。だから、そのまま同じひつぎに入れたのよ」

「え……。そうなんですか…」


 同じ柩と聞いて、いつもの早苗なら『ロマンチック!』と叫びそうなところなのだが、早苗は早苗で蒼潤の死がショックだったらしく、昨日からずっと大人しい。


「蒼潤が死んじゃって、きっと芳華もショックを受けたはずですよね。蒼潤の死後、芳華や甄燕がどうなったのか分かりますか?」

「たしか、天連殿の侍女たちは後宮を出て、みんなで陽慧ようけい殿の子の世話をしながら一緒に暮らしたはずよ」


 陽慧とは柢恵のあざなで、柢恵の死後、その妻子は蒼潤に引き取られている。

 つまり、芳華は再び蒼潤の侍女に戻り、柢恵の息子は峨鍈の子供や孫たちと一緒に育てられたのだ。

 そして蒼潤の死後は、母親である徐姥や、気心の知れた呂姥と玖姥と共に後宮を出て、みんなで穏やかに暮らしたと聞いて亜希はホッとし、早苗に視線を向ければ、早苗も安心したような表情を浮かべていた。

 続いて、律子は志保に視線を向けながら口を開く。


「甄将軍は……」

「えっ、将軍!? 甄燕って、将軍になったんですか?」


 びっくり、と亜希が自分の顔の横で両手を広げると、志保も同じくらいに驚いた様子を見せる。


「天連殿が互斡国から連れて来た兵は、天連殿の死後、そのほとんどが互斡国に帰ってしまうの。だけど、帝都に残った兵もいて、その者たちを率いて、どんどん武功を立てていくの」

「甄燕には、もともと実力も人望もあって、蒼潤の下に甘んじていなかったら、もっと早くから頭角を現していたかもね」


 付け加えるように市川が言った。

 えー、と亜希は不満げな声を上げる。


「それじゃあ、まるで蒼潤が甄燕の足を引っ張っていたみたいじゃん」

「実際のところ、その通りなんだ」


 あっさりと肯定した市川を、じとりと見やると、そんな亜希に志保が苦笑を浮かべて言う。


「だけど、甄燕自身がそれを望んでいたんだと思うよ。自分が先頭に立つよりも、蒼潤の背中を守りたいって」

「そうなのかなぁ」

「うん、そうだよ。私が言うのだから間違いないよ」


 志保がにっこりして言うので、亜希はそういうことにしておこうと思った。

 ともあれ、甄燕が蒼潤の死後も堯の将軍として活躍したのだと聞けて嬉しい。

 それにしても、と早苗がようやく口を開いた。


「同じ柩なんだね……」


 ああ、やっぱりそこが気になるのか、と亜希は思う。

 ようやく、いつもの早苗らしくなってきたのかと思いきや、しかし、早苗は一向に『ロマンチック!』と叫ぶ気配はない。

 それどころか、暗い顔をして、ぼそぼそと呟くように言った。


「もしも蒼潤が本気で峨鍈を憎みながら死んだのだとしたら、同じ柩に入れられたことを恨めしく思っているかもしれないよね」


 あー、と亜希は低く唸る。

 早苗の言葉に司書室の空気が一気に重苦しくなったように感じた。


「蒼潤は今、どう思っているんだろう?」

「どうって?」

「まだ峨鍈が許せないのかな? 呪っちゃうくらいに、ずっと、ずっと、恨んでいるのかな?」

「それは――」


 亜希は困惑して早苗の沈んだ表情を見つめる。


「分かんないよ。だけど、蒼潤の気持ちは、蒼潤が最期に言い残した言葉がすべてではないように思う」

「どういうこと?」

「よく分からないけど。――でも、最期の時ってさ、峨鍈は意識が朦朧としていたんでしょ? 朦朧としている中で耳に届いた言葉だけを覚えていて、それを小説に書いたとしたら、蒼潤が言い残した言葉はもっとあったんじゃないかなぁって思う。それが何かは、分からないけれど」


 分からないから、知りたい。

 蒼潤が本当はどう思って死んでいったのか。


「その時の夢を見ることができたらいいのに……」


 ところが、亜希はその夜も夢を見ることなく朝まで寝入ってしまった。さらに翌晩も。その次の夜も。

 そして、夢を見ないまま五日が経った。

 このまま、蒼潤の夢を見ることがなくなってしまうのだろうか。

 少し寂しいように思うけれど、だからと言って、夢を自由にする術はない。

 亜希が今できることと言えば、日岡が書いた小説を読み進めていくことだけだ。


(やれることをやろう)


 いつだったか、律子も本を読めば答えが見つかるかもしれないと言っていた。その時は、そんなわけがない、と亜希は思ったのだけど、今は本の中にしか答えがないように思う。

 亜希は『蒼天の果てで君を待つ』の5巻を手に取ると、ベッドに上がり、うつ伏せになって本の表紙を捲った。



△▼



 いったい『蒼天の果て』とは、どこのことだろうか。

 そして、誰が誰を待っているのだろう。


 もし自分を待っている相手がいるのだとしたら、すぐにその者のもとに駆け寄ってやりたい。そう思うのだが、亜希には自分がどこに向かえば良いのか分からなかった。


「――!」


 名前を呼ばれたと思って振り返る。

 風が背中を押しやるように吹き抜けていき、蒼潤の長い髪を乱す。

 蒼潤の黒髪は陽の光を強く浴びて、蒼く透けているように見えていた。

 振り返った先には誰もいない。空耳かと怪訝に思った時、別の方からも声を掛けられた。


「天連!」


 亜希は身を翻して声の方に振り向く。

 すると、申し訳なさそうに眉を大きく下げた柢恵の顔が見えて、亜希は驚きに目を見開いた。


(柢恵が生きている……?)


 ひとつ前に見た夢が晩年だったので、目の前に柢恵の姿があることが俄かに信じがたい。

 亜希は恐る恐る柢恵に向かって手を伸ばし、その顔を見つめながら彼の頬を、むぎゅっと摘まんだ。


「おいっ!」


 何をするんだ、と柢恵が亜希の手を振り払った。


「そんなに怒ったのかよ。だけど、謝らないからな。考えて、考えて、他に策はないと思ったんだ」


 ばつが悪そうに言った柢恵に亜希は首を傾げる。

 どうやら、この柢恵は市川ではなく、本当に柢恵のようだ。しかし、彼が何の話をしているのか、亜希にはさっぱり分からない。


「なんの話?」

「なんの、って」


 柢恵がちらりと視線を辺りに向けたので、その視線を追うように亜希も辺りを見渡した。

 草地に覆われた平野が広がっている。

 見渡す限りの緑に心地の良い風が吹き抜けて、その上空に広がった蒼い空も清々しいほどに澄み渡っていた。

 だが、亜希はその光景を見て、瞬時に顔を強張らせる。


「はああああああああ?」


 なんだ、あれ⁉ と、蒼潤ご自慢の騎兵隊がボロボロに傷付けられている光景に声を荒げた。


「どういうこと!? ひどい! なんで、ああなったの!?」

「なんでって……」


 柢恵が気まずげに口ごもったので、亜希は説明を求めて甄燕を呼んだ。

 甄燕は負傷した馬たちの様子を確認していたが、亜希の声を聞いてすぐに自分の馬に騎乗し、こちらに駆けて来る。

 甄燕が亜希の前で馬から降りるのを待って、亜希は甄燕に詰め寄った。


安琦あんき! どういうこと!?」

陽慧ようけい殿に頼まれて、摸擬戦を行ったところ、惨敗いたしました」

「惨敗!?」


 ただ負けたという話ではない。馬たちを傷付けられて惨敗したのだ。

 もっと詳しくと甄燕や柢恵に説明を促すと、どうやら柢恵は峨鍈の命令で、騎兵に対する策を考えていたのだという。

 そうして、思い付いたのが拒馬槍だ。


 本来、拒馬槍とは、騎兵の侵入を防ぐためのバリケードだ。丸太に槍を通して斜めに立たせたもののことである。

 だが、そこに拒馬槍があると分かっていれば、迂回して抜ければ良い話だ。


 ところが、柢恵はそこに拒馬槍があるということを上手に隠し、蒼潤の騎兵がその場所に近付いたのを見計らって、地面に埋伏させていた拒馬槍を縄で引き起こしたのだ。










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