71.前世の死
「早苗が返事しないけど、大丈夫。読んでいいよ。ここで一緒に読む?」
「ううん。邪魔しちゃ悪いからリビングで読んでくる。いっぺんに何冊か持って行っていい?」
「いいよ。――って言うか、ちっとも邪魔じゃないのに」
亜希の家にやって来るたびに早苗が持参してくる少女漫画を15冊ほど美貴に持たせると、美貴はにこにこして首を横に振った。
「下のリビングの方が、お菓子がいっぱいあるからいいの」
ふーん、と亜希は鼻を鳴らす。
美貴が人から借りた漫画をお菓子を食べながら読むとは思えなかったので、おそらく遠慮しているのだろうな、と思った。
そもそも美貴の部屋なのだから、遠慮しなくてもいいのに、と思いつつ、階段を下りていく美貴を見送ってから亜希は扉を閉めた。
その時だ。くふっ、と早苗が嗚咽を漏らした。
はっとして振り返ると、早苗が両目からボタボタと涙を流している。
(はぁっ!?)
そして、次の瞬間、わぁーっと号泣し始めた早苗に亜希は驚愕して、大慌てで早苗に駆け寄った。
「ど、どう、どうしたの、早苗!?」
「わーん、蒼潤が死んだぁーっ‼ 信じられない! 蒼潤が死んだのぉー!」
「はぁ?」
思いがけない言葉に、亜希は頭の中が真っ白になる。
(――誰が死んだって?)
亜希の聞き間違いか、或いは、早苗の言い間違いに違いない。
「えっ、ええ? えーっと、なんだって? もう一回、言って」
「だから、蒼潤が死んだの‼ ひどい! なんで死んじゃったの!?」
「え、なんで? どうして? 病気?」
「違うもん!」
わんわん泣く早苗の言葉は要領を得なくて、亜希は困惑する。
(――蒼潤が死んだ? えっ、じゃあ、峨鍈は?)
早苗の話や夢で見た様子では、病を患っていたのは峨鍈の方だ。蒼潤が病だという描写はなかったはず。
「ええっと、じゃあ、戦死したの?」
「違うー」
早苗は、しゃくり上げながら、何度も何度も手のひらで自分の目元を擦って首を横に振る。
亜希は棚の上からティッシュボックスを取ると、早苗の前に置いた。
早苗はティッシュを掴み取ると、目元の涙を拭い、鼻をかむ。それを見て亜希がゴミ箱をそっと差し出すと、早苗は丸めたティッシュをゴミ箱に捨てた。
「あのね」
「うん」
「峨鍈に殺されたの」
「は?」
今度こそ聞き間違えたのだと思った。すかさず、亜希は早苗に聞き返した。
「誰が?」
「だから、蒼潤が峨鍈に殺されたの!」
「なんで?」
「好きだから! 愛してるから!」
「はあああああー?」
亜希は大声を上げて立ち上がった。
意味が分からん。本当に意味が分からん。頭を抱えたくなるくらいに、理解ができない。
「なんで、そうなった?」
「だって、蒼潤が生きていると、火種になってしまうから……」
蒼潤を皇帝にして青王朝を復活させようと考えている者たちのことを言っているのだ。
「そうかもしれないけれど、だけど、殺さなくたっていいじゃん」
「それに、峨驕が蒼潤を自分の後宮に入れようとしている」
「ああ、その問題もあったか!」
「峨鍈は息子の気持ちを知っていて、それで言うの。自分がどれほど時間をかけて、どれだけ手を尽くして蒼潤の心を手に入れたと思っているのか。その時間と苦労を思うと、たとえ誰であろうと、他の者に蒼潤を渡すことはできない、って」
なんだそれ!? と思って亜希は早苗の傍らに膝を着いて早苗の手元の原稿を覗き込んだ。
「ちょっと読ませて」
「うん、いいよ。私は最後まで読んだから」
早苗が亜希の方に原稿を差し出して来る。それを受け取って、亜希は床に座り直した。
原稿の文章に視線を落とすと、『蒼潤の胸に峨鍈の剣が突き刺さっている』という一文が目に飛び込んできた。
(違う。もっと前だ。どうしてそんなことになってしまったのか、もっと前を読まないと)
亜希は後ろに送られている原稿の紙を一枚、それから、もう一枚、前に戻した。
葵暦220年。峨鍈は死の床についていた。
侍医たちが打つ手がないとばかりに首を横に振ったのを見て、梨蓉が峨鍈の家族を彼の臥室に呼び集めた。そして、峨鍈は意識を朦朧とさせながら、一人ひとりに遺言を残している。
言葉が出にくいのか、時折、もどかしそうに表情を顰め、苛立ったように峨鍈は拳を握った。
そうかと思えば、同じ言葉を繰り返し、こちらの声は聞こえていない様子で自分の言いたいことだけを言う。
彼の指先が小刻みに震えている。手足に力が入らないのだと言って峨鍈は瞼を閉ざし、沈黙した。
そうやって意識を失っている時間が次第に長くなっている。
蒼潤は一番最後に峨鍈の傍らに呼ばれた。
蒼潤が峨鍈の枕元に膝を着くと、峨鍈は片手を払って、他の者を臥室から下がらせた。
「……天連…」
目が見えにくくなっているのだろう。峨鍈が蒼潤の姿を求めて手を空に彷徨わせる。
その手を取って蒼潤は答えた。
「ここにいる」
「体を起こしたい。手を貸してくれ」
「ああ」
蒼潤は臥牀に膝を乗せると、峨鍈の背中を支えながら彼の上体を起こさせた。そして、そのまま峨鍈の背中を支え続ける。
目が眩むのだろう。何度も何度も、ぐっと瞼を強く瞑って峨鍈は言った。
「嫈霞や明雲、雪怜の今後は、驕に頼んだ。だが、お前のことだけは頼むことができなかった」
「うん」
「尭の地で、お前が平穏に暮らせる場所はない。姉妹のもとに送ることも考えたが……」
「分かっている」
蒼彰のもとに身を寄せても、蒼麗を頼って南に向かっても、火種のもととなる蒼潤は歓迎されないだろう。
「――天連」
「うん」
「共に死んでくれないか?」
「俺を西域に逃すことはできないのか?」
「死ぬのは嫌か?」
「嫌だな。俺はもっと世界の広さを知りたい。西域の国々を回ってみたい。大宛に行って、汗血馬を育ててみたい」
「……すまない」
蒼潤は、ぐっと喉を鳴らして視線を伏せた。
「お前が死んだら、すぐに毒を呷る」
「儂が驕なら、その前にお前を拘束するだろう。お前を死なせまいとするはずだ。――だから、天連、今だ。儂がまだ剣を握れるうちに死んでくれないだろうか」
「……っ‼」
蒼潤は顔を上げて峨鍈を見やり、首を振る。
今にも泣き出しそうなほどに表情を歪めて、いやだ、と弱々しく声を漏らした。
峨鍈が蒼潤を振り向いて、その腕を引いて両腕の中に抱き込む。
「いやだっ!」
「儂もすぐに逝く」
「いやだ、伯旋。……怖い」
「痛いのも、苦しいのも、一瞬だ」
宥めるように峨鍈が蒼潤の背を撫でて、そして、わずかに体を離すと、彼は臥牀に隠し持っていた剣を手にした。
剣を握る力が残っているうちに、と峨鍈は焦っていた。
いやだ、いやだ、と首を激しく左右に振る蒼潤の涙に濡れた頬に唇を這わせて、それから、峨鍈は蒼潤の体を突き放すと、手にした剣で蒼潤の体を貫いた。
「――っ‼」
見開かれた瞳を見つめながら、峨鍈は蒼潤の体から剣を引き抜いて投げ捨てる。
カラン、と音を立てて剣が床に転がった。
峨鍈はすぐに、胸から血を溢れ出す蒼潤の体を掻き抱いた。
「すまない」
「……ゆる…さない……」
「天連、すまない」
「…俺は、もっと……生きたかった…っ! ――お前を、呪ってやる」
「すまない」
「……お前を……っ。………龍…殺しの、お前を………呪っ…」
そこで蒼潤は力尽きる。そして、日岡の文章もそこまでで途切れている。
亜希が小説の原稿から顔を上げると、早苗の青ざめた顔と目が合った。お互いに何か言わなければと思うのだが、亜希も早苗もどんな言葉を口にしたら良いのか分からなかった。
亜希は自分の指先が震えていることに気付いて、原稿を床の上に置く。
それを早苗が、じっと見つめ、ようやく口を開いた。
「大丈夫?」
「……分からない。でも、こんな最期だったなんて」
「仕方がなかったんだと思うよ」
「分かってる。そうだよ。仕方がなかったんだよ。でも! ……だけど、そうだとしても、峨鍈ならどうにかしてくれるって思ってた。どうにか、蒼潤が生き延びることができるように、もっと手を尽くしてくれる、って」
手を尽くそうと、きっとたくさん考えてくれたはずだ。
それでも、どうすることもできなかったのだろう。そうなのだろうと、分かっている。分かっているけれど。
「蒼潤が峨鍈を呪ったんだ」
悔しくて、悲しくて、苦しくて。強い想いで峨鍈を呪ったのだ。
――だとしたら、亜希が峨鍈を許すと言えば、その呪いは解けるのだろうか。
(峨鍈を許す?)
亜希は瞳を揺らしながら、蒼潤のことを想った。
亜希が許しても、蒼潤は峨鍈を許せないだろう。呪うほど憎んで死んだのだから。
そんな蒼潤の想いを知ってて、亜希が峨鍈を許すことなんてできない。
――その夜、亜希は久しぶりに何の夢も見ずに眠った。
△▼
「早苗ちゃんは、ついにそこまで読んだのね」
呟くように言って、律子は目線を伏せた。
昼休みを待って、亜希は早苗と志保と一緒に司書室の律子を訪ねた。司書室には先に市川が来ていて、律子と共に早苗の口から蒼潤の最期を聞くと、市川は信じられないとばかりに顔色を失う。
「仕方がなかったんだとは思うけど……」
「うん、分かってる」
分かっているけれど……という話だ。
蒼潤にはまだやりたいことがあって、生きたがっていたのだから。
「蒼潤は峨鍈を恨んで息絶えたんだ」
その事実が亜希の胸にずしりと圧し掛かってきた。
(――ああ、だからか)
現世で彼と出会った時、訳も分からず涙が零れ落ちたのも、その次に会った時に彼を『怖い! 殺される!』と思ったのも、実際に前世で彼に殺されたからだ。
懐かしいと思うと同時に恐ろしく、また殺されたくないから逃げたいと思ったのだ。
【メモ】
蒼麗
字は天鈺。蒼彰と蒼潤の妹。絶世の美女。玉泉郡主。
蒼潤よりも2つ年下。蒼潤を帝位に着かせるために、その身を犠牲にするようにと言われて育つ。
峨鍈が南の憂いなく瓊倶と戦えるように、穆珪に嫁ぐ。
穆珪が亡くなった後、穆匡に嫁ぐ。やがて穆匡が国を興し、彼の皇后となる。