69.愛は極限を突破している
「そのことについて峨鍈は蒼潤に何も言わないの?」
「もうね、峨鍈の蒼潤愛は極限を突破しているの」
「はぁ? なんだって?」
「だから、蒼潤が何をしていても峨鍈にとっては可愛いし、愛おしいのよ。7巻の後半から、今、私が読んでいる原稿の辺りでは、峨鍈は蒼潤に対して『可愛い』『綺麗だ』『美しい』『愛おしい』『好きだ』『愛している』しか言わないの」
「ええっ、……え?」
幻聴が聞こえたような気がして、亜希は自分の耳に片手を添えて聞き返した。
「確認ですが、60代と40代の男同士カップルの話ですよね?」
「そうですけど、なにか? ご質問でもございますか?」
いえいえ、と亜希は大きく頭を左右に振る。どうやら幻聴ではなかったようだ。
それでね、と早苗は気を取り直したように話を続ける。
「朝議の時にね、たまに蒼潤が愉快そうに笑ったり、嬉しそうに微笑んだりするの」
「あ、起きている時もあるんだ?」
「もちろん。いつもぐっすり眠っているわけじゃないのよ。蒼潤が眠っちゃうと、官吏たちは思うの、この案件には興味がないのか、って。逆に蒼潤が興味を持って聞いてくれると、それはもう、みんなで張り切っちゃうわけね」
「えー。官吏のおじさんたち、みんな大丈夫? 40歳のおじさんの反応にめちゃくちゃ左右されているじゃんか」
「ちょっと、蒼潤のことをおじさんって言うのやめてよ! ひどい!」
ぷんすか怒る早苗の頬がぷくぅっと膨らむのを見て、亜希はすかさず指先で早苗の頬を突いた。
志保が両腕を広げて肩を竦める。
「いいんじゃない? 亜希にとって自分の前世だし。自分で自分を『おじさん』って言ってるようなもんじゃん」
「あ……」
うっかり失念していたので、亜希は軽くショックを受けて無言になった。
代わって志保が、でもさ、と口を開く。
「峨鍈の指示で、寝たふりをしたり、微笑んだりしているんじゃないの?」
「それは当然あると思う。速攻で却下したい議案だとしても、皇帝の立場上、ひと通り話を聞いてやらなきゃいけなかったりするのね。却下したくてもできなくて、考えておくと言って、暗に拒否したのに、空気が読めない人が何度も何度も同じことを求めて言ってくるの。そういう時に蒼潤に合図を送って、欠伸をして貰っていたみたい。峨鍈がやると角が立つことでも、蒼潤なら許されちゃうところがあったみたいだよ」
へぇ、と亜希は信じがたい思いで相槌を打つ。
蒼潤なら許されちゃうとかって、いったい官吏のおじさんたちにとって蒼潤はどういう存在だったのだろう。
疑問は大いに残るが、早苗の話は午前の朝議を終えた後の蒼潤の過ごし方についてに移ってしまった。
「朝議の後は執務室で仕事をする峨鍈の隣にいて、墨をすったり、飲み物を入れたりして過ごして、食事も一緒に取るし、とにかく、ずっと峨鍈と一緒にいるの」
「へえ、蒼潤は随分と変わったんだね。18? 19歳くらいの蒼潤なんて、峨鍈から逃げ回っていたじゃん?」
亜希が今、読んでいる辺りでは、峨鍈の気配を感じたら隠れたり、梨蓉に匿って貰ったりして、峨鍈から逃げ回っている。
逃げる理由はいろいろあるが、その始まりは、ところ構わず触られるのが嫌だということだったが、次第に、己の気持ちを処理し切れなくて峨鍈と顔を合わせられないというものに変化していった。
この辺りから蒼潤はようやく精神的に大人になっていく。
恋心が芽生えると同時に、羞恥心も抱くようになって、気恥ずかしくて会えないという状態に陥った。
そういうことを経て、峨鍈の晩年では一緒に過ごせるようになったのかと思うと、じつに感慨深い。
「いいね。平和そう」
「うん。そうなんだけど、そうでもないよ」
肯定しつつ、否定もするという不思議な返事をして早苗は眉を顰めた。
「葵暦218年は戦をしていないけれど、翌年の219年には蒼邦軍との戦があって、夏銚の弟の夏葦が戦死しているの」
蒼邦というのは、蒼潤の姉の蒼彰が嫁いだ男だ。
彼は後に『冏』という国を興し、初代皇帝になる。
はっきり言って、蒼潤は蒼邦のことが気に入らないので、戦場で討ち取りたいと思っているのだが、蒼邦はなかなかしぶとかった。
夏葦って……と、亜希はその人物について思い出そうとしながら言う。
「ええっと、たしか蒼潤が峨鍈に嫁いだ時に互斡国まで迎えにやって来た人だよね?」
まだ夢の中に出て来た覚えはないが、小説では何度も名前が登場する。
峨鍈の同じ歳の従弟で、夏銚と同じくらいに信頼を寄せている相手だ。
「若い頃からずっと一緒に戦ってきた夏葦を失って、峨鍈はガックリきちゃうのよ」
「喪失感が半端なかったわけか」
いよいよ物語も終わりに近づいているという感じである。老いと病、身内を亡くした悲しみが峨鍈の体と心を蝕んでいた。
そうなると、気になってくるのは蒼潤のことだ。
峨鍈を亡くしてしまったら、蒼潤はいったいどうなるのだろうか。
蒼潤を皇帝にと考える勢力もあって、何らかの争いに巻き込まれていくだろうことは明らかだ。
それに加えて、峨驕のこともある。亜希は昨晩の夢の内容を思い出して、ゾッとした。
峨鍈の跡を継ぐ皇帝は峨驕だ。峨鍈を失った蒼潤を、はたして峨驕は放っておいてくれるだろうか。
△▼
昼休みになると、亜希たちは律子と話がしたいと思って図書室に向かった。
階段を上がって3階に着くと、図書室の前の廊下で見知った相手と出会う。彼の手に『蒼天の果てで君を待つ』があるのを見て亜希は、あっ、と声を上げた。
「高野先輩、その本、読んだんですか!?」
図書室から出て来たばかりの高野に駆け寄って、亜希は彼が手にしている本を指差す。
高野が亜希を見て、にっこりと微笑んだ。
「亜希ちゃん、こんにちは」
のんびりした口調で挨拶をしてくる高野に若干のイラつきを覚えながら、亜希は地団太を踏んだ。
「こんにちは。――って、なんで読んじゃうんですか!」
「普通に図書室にあったからだよ。え、読んだらダメだったの?」
「ダメです! その本、ヤバいですから!」
「でも、もう読み始めてしまったし、さっき2巻を借りたところなんだ」
ひぃーっ、と亜希は悲鳴を上げる。
手遅れだったか、いや、もしかしたらまだ間に合うかもしれない。どっちだ!? と亜希は高野の顔をじいっと見やった。
急に駆け出した亜希に追い付いてきた早苗と志保が亜希の隣に並んで、そわそわとしながら亜希と高野に交互に視線を向ける。
亜希は高野の様子を探るように口を開いた。
「高野先輩、その本を読んだから陸上部をやめたんですか?」
「うん、そうだね」
あっさりと答えてくれた高野に亜希は、うわっと声を上げて両手で頭を抱え込んだ。
姉の優紀がドリームキラ―ではなかったことを喜ぶべきかとも思ったが、本のせいで高野が生き方を変えたのであれば、それはきっと手遅れだったということなのだ。
高野は亜希の反応を面白がるように口元に笑みを浮かべて、首を傾げた。
「亜希ちゃんって、俺のこと、嫌いだよね?」
「はい、嫌いです」
ぱっと顔を上げて亜希は即答する。
「先輩には何度も負けましたから」
「それなのに心配してくれるんだね」
訂正することも、疑問を返して来ることなく答えた高野に、やっぱりと亜希は思う。
亜希自身が高野に負けたのは、100メートルを並んで走った時の一回だけだ。それを何度もと言ったのは、蒼潤として彼に負けた時のことも敢えて数えたからである。
――だとしたら、高野の前世は彼で間違いはない。
「心配と言うか……。だって、忘れてしまう方が幸せだから、人って、いろいろと忘れてしまうのだと思うんです。それをその本のせいで思い出してしまったわけですよね? 思い出す必要のないことは、思い出して欲しくなかったんです」
「思い出してしまうと、思い出した記憶に今を影響されてしまうから?」
きっと身に覚えがあるだろう。亜希の言葉に対してすぐに言葉を返してきた高野に、亜希は、こくんと頷いた。
「実際、高野先輩は、私の姉と付き合って、陸上部をやめましたよね?」
「優紀と付き合いだしたのは、本を読む前だったよ」
「じゃあ、その気持ちは信じます」
前世に影響されて付き合ったのではないと。
高野は、ちらりと視線を亜希の左右に流して、その目を細める。
「きっと思い出しても思い出さなくても、出会うべき人とは出会えるし、なるべくようになるのだと思う。だって、君たちは記憶なんてなくても、ちゃんと出会えただろ」
「はい。……でも、私。今度あの人を前にしたら、私自身の気持ちなのか、それとも蒼潤の気持ちなのか、分からなくなると思うんです」
「亜希ちゃんは、そのことが不安なんだね。その不安はとてもよく分かる。俺も無性に、このままではダメだと思ったから」
「ダメって?」
怪訝顔で高野を見やると、彼は片眉を歪めて苦笑する。
その表情を見て亜希は、彼が陸上部をやめたことを言っているのだと察した。
「何か他に、やりたいことを見つけたんですか?」
「やりたいことと言うか、やるべきことと言うか。この本の作者の日岡さんって、どこかの会社の社長なんだよね?」
「えっ、あー、はい」
急に日岡の名前が話に出てきて、亜希は思わずドキリとする。
「日岡さんが財界なら、俺は政界かなぁ、って」
「えっ!? 高野先輩、政治家になりたいんですか!?」
「どう思う?」
「え、そんな、どう思うかなんて聞かれても困ります。よく分からないですし」
亜希はぶんぶんと頭を左右に振る。
じっと黙って亜希と高野の話を聞いている早苗と志保も、明らかに驚いた表情を浮かべていた。
「あの人とは、同じ土俵に立ちたくないんだよ」
「違う天下で戦いたいっていうことですね」
不意に志保が口を挟んだ。
「そのうち、もうひとり現れて、現代版天下三分の計になったりしてね」
はははっと笑って高野が志保に振り向きながら、そんな冗談みたいなことを言う。