6.お姉さま、そういうことですか
しかも、よくよく考えてみれば、この姉、担任が教室を去ったと同時に現れた。3年の教室から1年の教室まで瞬間移動でもしたのだろうか?
1年の教室は一階だが、3年の教室は四階だ。姉はもしかすると超能力者かもしれない。怖すぎる……‼
「あんた、聞いたわよ。高野にケンカ売ったんだって?」
亜希が近くに来るなり、優紀はとげとげしく言い放った。
一瞬なんの話だか分からなかったが、すぐに思い出して、ああ、と声を漏らした。陸上部の高野俊弘と100メートル走の勝負をしたことだ。
地獄耳だが、情報が遅すぎる。だって、あの日から六日は経っている。なんで今頃、と亜希は優紀を恐る恐る見上げた。
「それで陸上部に入れなくなったんだって? どうしてあんたって、そう無謀なの? 後先をよく考えて物を言いなさいよ。あんたから陸上をとったら、いったい何が残るの? 走ることしか能がないくせに! ほんとバカよ、バカ過ぎる!」
たぶん途中で息継ぎをしていない。姉は捲し立てて言うと、亜希の腕をがしりと掴んだ。
「これから、謝りに行くわよ」
「えぇっ!?」
「一緒に行ってあげるから、謝るの。謝って陸上部に入部させて貰うのよ。陸上、やりたいんでしょ?」
端から見れば、なんて妹想いの優しい姉に見えることだろう。
だが、エライお節介である。高野俊弘との一件は、亜希にとって、とっくに終わった出来事だからだ。
陸上部に関しても、もう諦めがついている。これを機会に別のスポーツを始めてみてもいいかなぁと思っていたりもする。
腕を引かれて強引に連れて行かれそうになったので、踏み止まろうと、膝を曲げて両脚で踏ん張る。
「いいよ!」
「よくない!」
「いいってば!」
「いいはずないでしょ‼」
精いっぱい抵抗して大声を出せば、優紀は亜希よりもさらに大きな声を出して威嚇してきた。
教室の入口で、亜希の腕を使った綱引きのような動きをしているので、クラスメイトたちが遠巻きに視線を向けて来る。そんな姉妹に敢えて近付いて来たのは、志保と早苗だけだ。
「亜希。そこ、みんなの邪魔になってるから」
志保に言われて、姉妹はぴたりと動きを止めた。
下校、或いは、部活に向かうために教室を出て行きたくとも姉妹が教室の後ろの出入り口で暴れているため、クラスメイトたちは教室の前方の扉から出て行くしかなくなっている。
亜希がクラスメイトたちのために扉の前から退いて教室の中に戻ろうとすると、優紀が亜希の腕を強く引っ張って、亜希を廊下に引っ張り出した。
「ほら、行くよ!」
生まれて12年間、この姉に対してあらゆる抵抗をしてきたつもりだが、一度として亜希の願い通りになった例がない。
いつだって姉は姉の思い通りにし、亜希はそんな姉に振り回されてばかりだ。
端から見て『妹想いの優しい姉と、どうしようもない妹』だろうと、亜希にとっては、度し難いのは姉の方だ。
それでも、とりあえずの抵抗してみるのが、亜希である。
「もういいんだってば! 中学生になったんだから走ってばっかじゃなくて、少しは勉強することにしたの!」
「勉強?」
はっ、と鼻で嗤われる。
「あんたが? しても無駄だわ。私とは頭のつくりが違うんだから」
「ぐっ」
「いいこと? あんたと私じゃあ頭のつくりも違えば、体のつくりも違うの。私は私の、あんたはあんたの長所を伸ばしていけばいいのよ。あんたの唯一の取り柄は、その足でしょ? それを手放して、あんたに何が残るの? そんなことになったら、私はあんたを見捨てるわよ。妹だろうと関係ないね。私は何ひとつ魅力のない人に、用はないの!」
姉妹の縁を切るわよっ、と世にも恐ろしい顔で亜希を圧倒する。いっそ、見捨てて貰えた方が気が楽になるのではと思ったほどだ。
「私の妹がバカの上、何の取り柄もないなんて、あり得ないわよ。許せることじゃないわ。幸い運動神経だけは人並み以上なんだから、もっともっと精進しなさいよ」
さあ行くわよ、と亜希の腕をガッツリ掴み直すと、ズルズルと廊下を引きずって優紀は歩き始めた。
この学校の校舎は、1年生は一階、3年生は四階に教室を設けられている。
ちなみに2年生は三階で、二階には職員室や校長室、事務室の他、視聴覚室や会議室がある。図書室は三階に位置し、2年生の教室に近い。
上級生たちからの注目を浴びながら、亜希は優紀に引きずられて3年生の教室に連れてこられた。
高野と優紀はクラスが違うようで、優紀はズカズカと教室に踏み込むことはせず、高野のクラスメイトを掴まえて彼を呼んで貰っていた。
爽やかな顔が振り返る。
こちらに視線を向けると、ふっ、と微笑んだように見えた。早苗なら、きゃあっと悲鳴を上げて大喜びするような場面だが、亜希はなぜかゾッとして足を一歩後ろに引く。
高野が軽やかな歩みで姉妹のもとに近付いて来た。
高野俊弘。――彼の足はこの学校の誇りであり、彼はこの学校の期待を一身に背負う存在だ。
亜希は自分の正面に立った少年の顔を見上げた。
格好良いと評判の彼だが、その顔の造形は美形と言うほどではなく、むしろ平凡だ。これから伸びるのかもしれないが、身長もさほど高い方ではない。
ただし、清潔感があって、とにかく、よく笑う。
活発で明るく、誰とでも気さくに話し、陸上でどんなに優れた記録を残したとしてもそれで驕るようなことがないため、男女関係なく彼に好意を抱いている者は多かった。
亜希だって、彼のトドっぷりを目にしていなかったら、今でも憧れを抱いていただろう。
淡い期待と憧れを打ち砕かれた今となっては、涼しげな笑みも、ヘラヘラと笑っているように見えて胡散臭く思えた。
(なんで、こんな奴に負けたんだろう?)
改めて思うが、自分の敗北がじつに信じがたい。亜希は誰にも気付かれないように、小さくため息を付いた。
「高野、ごめんね。うちの妹のような弟が迷惑をかけて」
優紀は亜希の頭を両手で押さえ付けて、無理矢理下げさせながら言った。
すると、高野俊弘は笑みを浮かべたまま柔らかく手を振った。
「いいよ、気にしてないから。――そっか、久坂の弟だったんだね。名字が同じだったから、まさかとは思っていたんだ。っていうか、弟って!? えっ、妹じゃなかったっけ?」
「いいえ、弟なの。ほとんど弟なのよ。ほんと、おバカな弟で、ごめんなさい!」
ぐっ、ぐっ、と亜希の頭を押さえ付ける力が強められる。
「痛っ! 痛いって!」
バタバタと両手を振り回し、なんとか優紀の手から逃れると、慎重に距離をとる。
いったい、どうしてこんな目に合うのだろう? 優紀はにこにこと怖いくらいに笑顔を浮かべているし、高野も優紀以上ににこにこしていて不気味だ。
(なんだ、これ?)
非常に不本意だが、一応これで亜希は高野に謝罪したことになるのだろうか。だとしたら、もう用は済んだはずだ。
(教室に戻ってもいいのかな? 早苗が待っているし)
様子を窺うように優紀の顔を見やれば、優紀の目には亜希の姿などまったく映っていなかった。
「高野、ほんとうに弟がごめんね。よく言い聞かせたから、弟を陸上部に入れて貰えないかなぁ?」
「俺はべつに構わないから、他の部員にも話してみるよ。久坂の弟が……って、妹か! 足が速いって聞いていたから、入部してくるのを楽しみにしていたんだ」
「えっ、そうなの⁉ だってよ、亜希。よかったね!」
ようやく優紀が亜希に振り向いて、ちらりとだけ目線を向けてから、再び高野の顔を見つめる。
「久坂と妹って、あんまり似ていないんだね」
「そう? よく似ているって言われるんだけど」
「似てないと思うよ。久坂はなんていうか、可愛いし、女の子って感じがするけど、妹は……ほら……」
「男の子でしょ?」
ふふふっ、と優紀が肩を揺すって笑い、はははっと高野も笑う。
(ほんと、何これ?)
途中までは、なんて妹想いの優しい姉なのだろうという姿だったが、だんだん何か違うものを見せられている気分になってきた。
(――っていうか、ほらって何!? ほらの続きって、なんなんだ!)
どうせろくでもない言葉が続くのだろうけど。
むーっと顔を顰めて二人をじとりと見やり、そして、亜希は、ハッと気が付いた。
(あー、そうか)
大勢から好意を受ける高野。つまり、その大勢の中に優紀も含まれていたのだ。
だけど、学年が同じとは言え、クラスが違う姉にとって、高野は遠い存在だ。話し掛けるきっかけが欲しかったに違いない。
優紀の高野を見る眼差しに、亜希はうんざりした。思い返せば、亜希が高野の存在を知ったのは、姉の口からだった。
――私の学年にすごい人がいるのよ。
あんたも彼のようになりなさいね、と言って、陸上をやっている亜希のことを一番応援してくれたのは、姉の優紀だった。
なんだ、と亜希は思う。つまり、姉は妹をダシに使って高野に近付いたのだ。
――妹は、姉のために存在するのよ。
なんてことを常々口にしている優紀には勝てない。
亜希は二人が話に夢中になっている様子を窺い見ると、そっとその場から離れ、優紀に気付かれないうちにダッシュで自分の教室に逃げ戻った。
そして、教室で待っていてくれた早苗に愚痴を聞いて貰い、大変だったね、と言って貰いながら図書室に向かう。
図書室は静かにすべき場所という教えが身についているので、図書室の扉を開くと同時に亜希は唇を固く結んだ。
早苗も声を潜めて話しかけてくる。
「亜希、そろそろ1巻読み終える? 2巻借りちゃえば?」
「いや、まだ半分くらいしか読めてないから」
【メモ】
久坂 優紀
亜希の姉。二つ年上で、中3。冬生れの14歳。
亜希が2歳の時に妹の美貴が生まれ、母親が美貴の世話で手一杯になったため、優紀が『小さなお母さん』として亜希の世話を焼いていた。
今現在もその延長上に二人の関係はある。
亜希のことを『私の弟』です、と冗談交じりに言ったりする。
亜希に対する口調は厳しいが、両親の代わりに授業参観に行ったりもするくらいに妹を想っている。
実技教科以外の成績が優秀。髪を背中まで真っ直ぐに伸ばしている。