68.玉座にすわってて、胸アツ!
彼に対して、どのように接したら良いのか戸惑って蒼潤は峨驕から顔を背ける。
「忙しいのだろう。もう伯旋のもとに行くといい」
「いえ、もう少しだけ天連殿と一緒にいたいです。――触れてもいいですか?」
えっ、と短く言葉を発して蒼潤は峨驕の顔を仰ぎ見る。
まともに正面から目と目が合い、いつだったか、峨鍈に呆れた口調で言われた言葉を思い出した。
――いいか。普通の女は顔を俯かせて、男を正面から睨んだりしないものだ。お前ときたら、まともに目を合わせたな。男は女と目が合えば、勘違いする生き物なのだぞ。
それは峨鍈に嫁いだばかりの頃の話で、その時、蒼潤は憤慨して答えたのだ。
――なんだそれ。意味が分からない。
自分も男だが、そのような勘違いなんかしたことはないし、自分は男なのだからそのような勘違いをされるわけがない、と。
だが、今ようやく峨鍈の言わんとしていたことの意味が分かった気がした。
自分に向かって伸ばされた峨驕の手を振り払って、蒼潤は数歩後ろに退く。
「触れるな!」
蒼潤は慌てて踵を返し、峨驕を回廊に置き去りにして私室へと逃げた。
峨鍈が老いて、峨驕が成長して、この時、蒼潤は初めて峨驕に男を感じて、ぞっとする。
こんなはずではなかったと思った。
ずっと、ずっと、幼いままでいてくれたら、弟のように、息子のように接し続けることができたはずなのに。
だけど、時間は皆に等しく流れ、峨驕を成長させ、峨鍈を老いさせた。
峨驕にとって、おそらく蒼潤は男でも女でもなく、ただ、ひたすらに『美しい人』なのだろう。峨鍈にとって蒼潤が男でも女でもなく『龍』であるのと同じだ。性別など、どうでもいいのだ。
そうとも気付かず蒼潤は、峨驕と通して、峨鍈の若い頃の姿を見過ぎてしまった。
いったい自分は峨驕に対してどのような眼差しを向けて続けて来たのだろうかと、思い返すだけで背筋が冷えた。
△▼
朝。教室に入るなり、早苗が亜希と志保に向かって大声を上げて言った。
「聞いて! 昨晩、即位式の時の夢を見たの!」
あまりにも大きな声だったため、亜希と志保はクラスメイトたちの視線が自分たちに集中したのを感じて苦笑いを浮かべる。
一方、当の早苗は、そんなことを気にしている余裕がないらしい。亜希と志保に駆け寄ると、あのね、あのね、と体を上下に弾ませながら必死な様子で、しゃべり掛けて来た。
「蒼潤がめちゃくちゃ綺麗だったの!」
「うんうん、わかったわかった。まずは座ろうね。はい、落ち着いて」
早苗の夢の内容が気になりつつも、亜希と志保の二人がかりで、朝から興奮状態にある早苗をまず席に座らせた。
何事かと視線を向けて来たクラスメイトたちも、早苗が椅子に腰を下ろしたのを見て、各々、自分たちのおしゃべりに戻っていく。
皆の注意が逸れたのを確認してから、亜希は早苗に話の続きを促した。
「芳華も即位式の様子を見ることができたんだね」
「もちろん。蒼潤の侍女として、ギリギリまで側に控えていたし、式の最中は皇城の女官たちと一緒に参列していたんだよ」
「へぇ。――って言うことは、蒼潤も峨鍈の即位式に参列していたのかぁ」
「あったりまえよ! むしろ、メインだよ! 蒼潤がメインだったよ!」
「えっ」
いやいやいや、と亜希は顔の前で激しく片手を振る。メインは即位する峨鍈だろう。
旧王朝の皇族がメインになってしまったら、非常に良くない。そうと言えば、早苗は頬を赤く染めて、再び興奮状態を蘇らせて拳で自分の机を、どん、どん、と叩いた。
「そうなんだけど、そうなんだけどね! でも、蒼潤がめちゃくちゃ綺麗だったの! 衣装はね、男性皇族の正装なんだけど、これでもかってくらいに着飾ってて……、髪が青いの! ギリギリまで濡れた布で巻いてて、出番っていう時に芳華が布を取ったの。そうやって、瑠璃色に輝く髪を結い上げて、皇后が付けるような、めちゃくちゃ豪華な金冠を被ってて………、とにかく、すごかった!」
「よく分からないけど、頭が重そう」
蒼潤の髪の長さを思えば、髪を結い上げただけでも頭が重いのに、さらに豪華な金冠をつけるとか、首がもげそうだ。
「蒼潤、いくつよ?」
「たぶん、もうすぐ40歳」
「え、40? おじさんじゃん。ハゲてないの?」
「ハゲてないよ!」
なんてこと言うの、と早苗は眉を吊り上げる。
「私たちから見たら、40歳って、おじさんだと思うけど、蒼潤はぜんぜんおじさんじゃないの。――って言うか、まったく老けてないし! さすがにもう女装はしないみたいだけど、でも、たぶん、まだイケると思うのよ。シミとかシワとかないし、白髪だって生えていないんだもん。むしろ、歳を重ねれば重ねただけ綺麗になっていく感じ。ヤバい!」
「うんうん、ヤバいね。早苗、落ち着こう」
志保が早苗の背中をとんとんと優しく叩く。
早苗は深呼吸を数回繰り返すと、今度はゆっくりと落ち着いた口調で即位式の様子を語り出した。
葵歴218年。ついに峨鍈が帝位に着く。
都は葵陽を改め、紅華とし、国名を『尭』に定めた。
峨鍈は蒼潤を隣に立たせ、その手を引きながら大門から正殿に向かって歩く。
左右には文武百官が立ち並んでいて、蒼潤の青い髪に度肝を抜かれていた。
そんな彼らの反応に峨鍈は終始、愉快そうであったし、体調が良さそうであった。
2人で玉座の前までやって来ると、そこには蒼絃が座っている。峨鍈は蒼潤から手を放し、蒼潤は文官たちの最前列に並ぶように立った。
蒼絃から峨鍈に帝位が譲られる宣旨が下される。
蒼絃が玉座を降りて、代わって、峨鍈がそこに上り、座した。
続いて、峨鍈によって蒼絃は領地を与えられ、郡王に封じられる。蒼絃は峨鍈の前で拱手して、蒼潤の隣まで下がって、並び立った。
深江郡王、と峨鍈が蒼潤を呼ぶ。
蒼潤が玉座の前に立つと、峨鍈が蒼潤を『青龍王』に封じる宣旨を下す。
拱手した蒼潤が顔を上げると、峨鍈が手招いて蒼潤を傍らに呼んだ。そうして、蒼潤は峨鍈と共に玉座に座ったのだった。
「――と言うわけで、ついに蒼潤が玉座に座ったの! 胸アツだよね! 今朝、私、起きた時に涙で顔がぐしゃぐしゃだったの」
言いながら思い出したのか、早苗の瞳がうるうると潤みだす。
その横で志保が冷静な口調で、口元に拳を当てて言った。
「峨鍈って、今まで蒼潤の青い髪を隠そうとしていたけれど、それを敢えてみんなに見せびらかしたのは、蒼潤がただ人ではないことを知らしめるためなのかなぁ」
峨鍈は、皇帝ではない者を玉座に座らせたという前例をつくってしまった。
だけど、その者が、たとえ皇帝ではなくとも、ただ人ではないのだから、例外であって、特別なのだと皆に知らしめる必要があった。
「青王朝が幕を閉じて、青王朝の歴史が編纂されることになったんだけど、その時に峨鍈は蒼家の者たちが青龍の末裔であることを公示するの。つまり、青という国がどのように興ったのか、蒼家の者たちがどこからやって来た者たちであるのか。そして、蒼潤が最後の龍であることが、みんなに知られるの」
「まあ、そうするしかないよね。じゃないと、誰でも玉座に座れるようになってしまうもの。蒼潤だけが特別で、蒼潤が龍だから皇帝の隣に座れたんだと知らしめないといけない」
「うん、そうなんだけど。でも、それは諸刃の剣で。蒼潤が龍だと知った人々は、蒼潤こそが帝位に着くべきだと思うようになるの」
「ただ人よりも龍が皇帝だっていう方が、なんとなく心情的に良いよね。納得できる感じで」
結果、青王朝をもう一度、復活させようとする勢力が生まれる。
しかし、これは峨鍈の在位中においては、峨鍈の力によって抑え付けられ、彼らは密かに蒼潤に対して、娘を妃にと請うてくるのみに留まっていた。
「蒼潤としては、今さら妃なんていらないから、迷惑だったと思うよ」
――問題は、峨鍈の死後だ。
「この頃、蒼潤は片時も峨鍈から離れないで、今までまったくやってこなかった世話をしだすのよ。身支度の手助けとかね」
「今までまったくやってこなかった、というところに悪意を感じます。主に、言い方に」
早苗の言葉に、聞き捨て為らないと亜希が片手を上げて言えば、早苗は、だって、と言葉を続けた。
「本当に、いっさい何もやらなかったからね、正室なのに。季節の変わり目に衣を新調したりするのね。普通、妻が夫の衣を仕立てたりするんだけど、そういうことも梨蓉がすべてやってくれていたのよ。そもそも、蒼潤は裁縫ができないから仕方がないんだけど。でも、お酌くらいできるじゃない? それなのに、蒼潤がお酌さえしないから、いつも峨鍈は蒼潤と一緒の時は手酌よ」
「いや、だって! 自分の飲みたい量だけ、自分で盃に注げば良くない? 自分のタイミングでさ」
亜希としては、蒼潤を力一杯に擁護したいところだ。
だけど、そういう細々した世話を40歳過ぎてようやく始めたという話なのだ。
そう言えば、亜希が見た夢の中でも蒼潤は峨鍈の肩を揉んでいた。10代や20代ごろの蒼潤だったら、そういうことは絶対にやらなそうだ。
「それだけ峨鍈が老いて、残された時間が少ないと蒼潤が感じているということだね」
「うん、そうだと思う」
早苗が寂しそうに頷く。
「夜も一緒に寝ているの。朝起きて、一緒に朝議に出るのよ。青王朝の頃は、朝議って、月に数回しかなかったんだけど、ほぼ毎朝やるようになって、蒼潤も峨鍈の隣でじっと座っているの。でも、不眠症な峨鍈に付き合って、夜ほとんど眠っていないわけね。だから、すごく眠くて、峨鍈の肩に頭を預けて玉座で寝てるの」
「え……。朝議の間、玉座で寝てるの? すごくない?」
「すごいな……」
早苗の話に、亜希と志保は唖然とする。




