67.残された時間
ふっと瞼を開くと、薄闇に包まれていた。
窓から差し込んでくる星明かりのみが仄かに室内を照らしている。頬に触れてくる手を掴んで視線を向ければ、自分を見つめてくる瞳と目が合った。
「すまない。起こした」
口では謝っているが、それが心からの謝罪ではないことは唇の端に浮かべられた笑みで分かる。
「眠れないのか?」
「今夜は眠れた方だ」
暗さに慣れた瞳が、男の顔を映す。
近頃、彼は眠れずに床帳に覆われた臥牀で朝の訪れをじっと待っていることが多かった。
肉体も頭も疲れ果てていて、眠りたいと願いながらも、いざ臥牀に横たわると、あれやこれやと考え始めてしまい、眠れないのだという。
「お前は寝ていろ」
そう言いながら、首筋に唇を押し当ててくる。
臥牀で体を動かせば少しばかり眠れるらしい。だが、そうやって眠っても、うなされて寝苦しそうにしていることを蒼潤は知っていた。
「お前が少しでも眠れるのなら付き合う」
蒼潤は峨鍈の首に両腕を回して、ここ数年で痩せた体をぎゅっと抱き締めた。
峨鍈が堯王に任ぜられたのは、葵暦216年、初夏のことだ。
その僅か数ヶ月後、蒼絃は峨鍈に帝位を禅譲したいと告げたが、峨鍈はこれを固辞している。
これは、固辞することで峨鍈が自らの徳の深さを演出しようとしたためではない。
朝廷には未だ峨鍈に反発している勢力があって、彼らを一掃することを優先したためであった。
ひとたび帝位につけば、その者たちも自分の臣下になってしまう。
安易に臣下を処断する皇帝は徳がないとされ、非難を受けるものだ。案外、皇帝というのは、動きにくいものなのだ、と峨鍈は言っていた。
更に数か月後。
蒼絃は峨鍈に対して、二度目の要請を出す。帝位を譲り受けるようにと、多くの官吏たちの前で告げた。
しかし、この時にも峨鍈はその要請を固辞している。法の整備に忙しかったからだ。
長く続いた青王朝には、時世に合わない法も多く、また、奸臣や宦官が好き勝手をするために彼らに都合の良い法もあって、それらをひとつひとつ吟味し、不要なものは削り、必要なものは書き足す作業に追われていた。
――と同時に、賄賂などの不正を厳しく取り締まり、法と秩序を重んじた政を行うようにと蒼絃に請う。
蒼絃はこれを受け入れ、峨鍈の意思に沿った政を行っていた。
もはや蒼絃は玉座にあっても峨鍈の盾にしかならない存在である。そのことを十分に承知しているがために、蒼絃は一日でも早く帝位を峨鍈に譲りたいのだ。
三度目の禅譲の要請は、葵暦217年の年明け早々だった。
この頃から度々、彩雲が見られるなどの瑞兆が報告される。麒麟が現われたとの報告もあったが、それはさすがに疑わしいものだった。
蒼絃は峨鍈の功績が著しいとし、九錫を与える。
これは、皇帝が臣下に与えられる最高の恩賞であり、これ以上の恩賞は帝位しかないことを示した。
この時、峨鍈の功績とは何かと問われた蒼絃は、次のものを上げている。
一つ目は、屯田制の導入である。
兵士たちに新たな耕地を開墾させ、平時には農業を行わせることで、軍の兵糧を農民から搾取することなく、確保できるようになった。
また、戦乱で土地を失い、流浪する民には新たな土地を与えて定住させ、その収穫の一部を税として納めさせた。強敵の瓊具に勝てたのも、これらの政策によって食糧が豊かだったためだ。
二つ目は、経済の発展である。
呈夙が粗悪な貨幣を大量に造ったため、貨幣の価値が下がり、経済が崩壊していた。しばらく現物の取引が行われていたが、峨鍈が粗悪貨幣を回収し、新たな貨幣を発行することで経済を立て直したのだ。
そして三つ目が、以前から彼自身が強く望んでいたことで、出自にこだわらない人材登用である。
地方の有力者が才覚のある人材を見付け出し、朝廷に推薦するという仕組みをつくったのだ。
葵暦217年の秋。
蒼潤は勅旨を受けて参内し、蒼絃と謁見する。
蒼絃から、峨鍈に帝位を譲り、穏やかな余生を望んでいることを聞かされた上で、蒼潤は峨鍈の説得を頼まれた。
峨鍈邸に戻ると、蒼潤は参内した姿のまま峨鍈の私室を尋ね、怪訝顔で彼に問う。
「次はどんな理由で断るつもりなんだ?」
彼は文机に肘を突いて両手で頭を抱えていた。近頃、頻繁に起きる頭痛に悩まされていて、このように頭を抱えている彼の姿をよく目にする。
蒼潤は峨鍈の背後に回り込んで、両手を彼の肩に添えると、ガチガチに凝り固まったその肩を揉み始めた。
「天連」
「なんだ?」
「お前、皇后になるか?」
「ならん」
即答すれば、一瞬の間があって、それから体を揺すって峨鍈は笑い出す。
「皇后には梨蓉を立てるが、構わないか?」
ああ、と頷けば、峨鍈の手が彼の肩を揉む蒼潤の手を上から抑えた。ゆっくりと彼が振り向いて、蒼潤と目を合わせる。
「ならば、お前をどうすればいいのか」
「そんなことで頭を痛めていたのか。俺のことなんか、どうでもいいだろ」
「いいわけがない。儂はお前と共に玉座に座りたい」
「はぁ……」
蒼潤は大いに呆れて、膝を着いて峨鍈の正面に腰を下ろした。
「お前、まだそんなことを言っているのか」
「約束をしたからな」
かれこれ20年以上前の約束だ。
その当時だって、蒼潤は本気にはしていなかったというのに、峨鍈が律儀に守ろうとしてくれている。その気持ちだけで蒼潤は嬉しかった。
「お前を王位につかせよう」
「すでに俺は郡王だ」
「龍王というのはどうだ?」
「聞いちゃいねぇな」
「龍王……、少し違うか。――ならば、青龍王? こちらの方が響きが良さそうだ」
どうだ? と視線を向けられて蒼潤は眉を歪める。
「なんだっていいけどさ。郡王と、どう違うんだ?」
「青龍王は、お前だけだ。今後、他の何者にも、それを名乗ることを許さん」
へぇ、と蒼潤は答えて、つまり、と思いを巡らせた。
峨鍈が帝位に着けば、やがて息子の峨驕は皇太子になり、峨驕以外の息子たちは郡王になるだろう。
青王朝の郡王は蒼潤ただひとりしか残っていないが、新しい王朝では郡王が増えていくことだろう。それら自分の息子や孫たちと、蒼潤を同列にはしないと峨鍈は言っているのだ。
「ついに禅譲の要請を受け入れるのだな」
「ああ。――まだまだやり残したことは多いが、儂ももう歳だからな。お前との約束を果たせぬまま死ぬことだけは避けたい」
「伯旋」
「なんだ?」
蒼潤は顔を上げて峨鍈を見やり、その顔に自分の顔を寄せる。唇にそっと触れるだけの口づけをして、小さく微笑んだ。
「――ありがとう」
なんとなくだが、感じるのだ。さほど時間は残されていないのだと。
峨鍈の年齢は60半ばを越えていて、頭痛や不眠の他、胃の調子も悪く、あまり物を食べられなくなっていた。
幼い頃はあんなにも大きくて恐ろしいと感じていた男が、今や老いて、細く頼りなげに蒼潤の目に映る。
それでも、抱え込むように仕事をこなし、内外の敵と常に戦っている彼を愛おしいと思っていた。
愛おしくて、切なくて、少しでも力になりたいと思うばかりで、何をどうすれば力になれるのか分からず、もどかしい。
ただ、ただ、終わりが見え始めた時間ばかりが残酷に過ぎ去っていて、あとどのくらいだろうかと、焦燥感に駆られた。
峨鍈の室を出て、自分の私室に向かっていると、その途中の回廊で峨驕に出くわす。
随分前に峨驕は自分の邸を構えて、そちらで暮らしているため、顔を合わせるのは半年ぶりだろうか。
蒼潤は、峨鍈によく似た面持ちをした峨驕と顔を合わせるたびに、はっとさせられる。
幼い頃は、ひたすら可愛くて、弟のように接していたのだが、いつの間にか蒼潤の背丈を抜き、大きく成長した峨驕の姿を見て、蒼潤は若い頃の峨鍈に思いを馳せ、密かに楽しんでいた。
二十歳、葵陽北部尉に任命された頃、峨鍈はこのような姿だったのだろうか。
三十歳、騎都尉として賊軍と戦っていた頃は、このような姿をしていたのだろう。
そんな風に峨驕を眺めていて、峨驕に怪訝顔をさせてしまったことも度々あった。
(あと、6年か、7年くらいだろうか)
そのくらい経てば、峨驕は、蒼潤と出会った頃の峨鍈の歳になる。きっとその時には、峨驕の姿を見て、懐かしい想いが蒼潤の胸に溢れるはずだ。
今はまだ、ちょっと若い。蒼潤の知らない頃の峨鍈の顔だと思って、峨驕の顔を見上げると、その顔が淡く微笑んだ。
「天連殿、お久しぶりです。お会いできて良かった。ずっとお会いしたかったです」
峨驕は蒼潤と会うたびに、会いたかった、と言ってくれる。それが少しこそばゆく、しかし、同時に、何とも言い難い違和感を覚えた。
峨驕は蒼潤の正面に立つと、一歩前に足を踏み出して距離を詰めてきたので、蒼潤は思わず一歩後ろに足を引いた。
「梨蓉に挨拶をしたのか?」
「ええ、母上にはすでに。これから父上のもとに伺うところです。実は先に父上の室に伺ったのですが、天連殿がいらっしゃったので」
「ああ、なるほど。遠慮なく声を掛けてくれたら良かったのに」
そう蒼潤が言うと、峨驕は困ったように眉を下げた。
それから蒼潤の纏った長袍に視線を向けて、目を細める。
「参内されたのですか?」
「ああ、うん」
「よくお似合いです。天連殿はどのような格好をしていても美しい」
褒められているはずなのに、嬉しいという気持ちよりも、不安感が蒼潤の胸を過った。
なんだろうか。この胸のざわめきは――。