66.もっと羨んでいい
リビングを出ると、亜希は二階の自室に向かう。
そのドアの前まで来て、違った、と呟いた。 亜希の部屋は今、拓巳が使っているのだ。
だから、美貴の部屋に間借りさせて貰っているのだったと思い出して、くるりと体の向きを変え、美貴の部屋の扉に手を伸ばした。――その時だ。
ガチャリ、と思いがけない音が響いた。驚いて振り返ると、亜希の部屋の扉がゆっくりと開く。
「なあ、ちょっと」
聞き慣れない低い声に亜希は思わず息を呑む。
目の前にいる少年は、いとこの拓巳であるはずなのに、拓巳ではないような気がして体が竦んだ。
そうか。長らく話していない間に拓巳は声変わりをしたのだ。
「何?」
亜希は拓巳の様子を窺い見ながら短く突き放すような言葉を返した。
「お前、競馬騎手になりたいの?」
「だとしたら、何?」
「伯父さんたちは、なんて? 反対されたのか?」
「反対されたわけじゃないけど、高校は行って欲しいみたいな。――って、あんたに関係なくない?」
「いいよな、お前は。自由で」
「自由?」
「好きなことをやれるだろ? 何を言っても頭ごなしに反対されないし。伯父さんたちが、あれやれ、これやれって、言っているのを聞いたことがない」
「勉強しろとは、よく言われているけど……?」
不意に亜希は、蒼潤の従兄である蒼絃のことを思い出した。
――朕は深江郡王が羨ましい
そう、呟くように言った蒼絃は、おそらく蒼潤のことを自由だと思っていたはずだ。
皇城から出ることを許されない蒼絃にとって、皇城の外で生まれ育った蒼潤は何にも縛られず自由に生きているように見えたのだろう。
だが、蒼潤がちっとも自由ではないことを亜希は知っている。
そして、蒼潤は、本当なら自分こそが皇城で暮らしていて、みんなから傅かれていたはずだと思っていた。
蒼絃の座る玉座は自分のものだと信じ、そこに座る従兄を恨めしく思っていたことも、亜希は知っている。
亜希は美貴の部屋のドアノブに伸ばし掛けていた手を下ろして、体ごと拓巳に振り向いた。
「もしかして、あんた、私のことが羨ましいの?」
「……」
拓巳は何も答えなかった。
その沈黙が肯定を意味していることを察すると、亜希は瞳を大きく大きく見開いた。
(信じられない。だって、いつだって、羨ましいと思うのは私の方だったから!)
拓巳だけが祖父に可愛がられ、拓巳だけが祖父から何でも与えられていた。
同じことをしても、同じことを言っても、拓巳だけが『賢いね』と褒められて、自慢の孫だと喜ばれていた。
「あんたは優秀で、何だってできるんでしょ? 将来、医者になるんだって聞いたけど?」
医者だったか、弁護士だったか忘れたけれど、孫息子の将来を楽しみにした祖父が、拓巳に小学校受験をさせて、そのための塾の費用から入学金まで、すべて祖父が出資したと聞いている。
3歳の頃から受験のための幼児教室に通っていた拓巳は、その甲斐あって、よほどのことがない限り大学までエスカレーター式に進学できる私立の小学校に入学した。現在は、その学校の中等部だ。
亜希から見れば、恵まれているとしか思えないのに、拓巳は苦しげに表情を歪めて言った。
「俺、そんなこと一言も言っていない」
「医者になるんじゃないの?」
「だから、そんなこと言っていない」
「じゃあ、弁護士?」
「違う」
「でも、あんた、頭いいんでしょ? 何にでもなれるよ」
「なれない」
自分の言葉を即座に否定されて亜希は片眉を歪めた。
すると、拓巳が、例えば、と口を開く。
「お笑い芸人になりたいって言ったら、なれると思うか?」
「え……」
「漫画家になりたいって言ったら? バンドマンになりたいって言ったら?」
「なりたいの? たぶん、どれも才能が必要かもだけど?」
「じゃあ、トラックドライバーや警備員、土木工事や介護職に就きたいって言ったら?」
「うーん……」
「フリーターやユーチューバーになりたいって言ったら、認めて貰えると思うか?」
「誰に?」
亜希は目を瞬いて辰巳の顔をじっと見つめた。
それから、ああ、と思い至って薄く唇を開く。
「叔父さんや叔母さん?」
「本当になりたいなら、なりたいって言えばいいじゃん」
「なりたいものなんかない。こうしたい、ああなりたいって思うだけ無駄だから、考えないようにしている。どうせ言ったって、鼻で嗤われるだけだからな。――俺の将来は全部あの人たちに決められているんだ」
不意に亜希の脳裏に祖父の声が響いて聞こえた。
――拓巳は男の子だからな。医者か弁護士になるんだ。
今なら分かる。祖父はアホみたいに、医者や弁護士というものを最高で最上の職業だと思っていた。
「おじいちゃんは、もう死んだよ」
拓巳は男の子だから、女の子の亜希よりも優れているはずだと信じていた祖父は、もういない。
それなのに拓巳は未だに祖父の強すぎる想いに縛られている。
そうと分かり、拓己のことがなんとも哀れに思えた。
ならば、亜希はちゃんと拓己と向き合って、彼に正直な気持ちを伝えなければならない。
ぐっと拳を握りしめると、亜希は口を開いた。
「私、ずっとあんたが羨ましかった。おじいちゃんに可愛がられているあんたが。だけど、人はさ、他人の表面しか知らない。分からないんだ。だから、その表面の華やかさを羨ましく思ってしまうんだ――ってさ」
夢の中で蒼絃に言われたことを思い出して亜希は拓巳の目を見つめながら言った。
すると、拓巳が亜希の言葉の続きを言う。
「だけど、その内側には必ずその者の苦しみがある」
亜希は、うん、と頷いた。
「拓巳には拓巳の苦しいことがあるんだと思う。だから、拓巳の目には、私がお気楽に生きているように見えるのかもしれない。だけど、私には私の苦しみがあって、悩んでるよ。嫌なこともいっぱいあるし、迷って、不安に思ったりもする。人を妬ましいと思うし、とくにずっと拓巳が羨ましかった」
亜希の前世が蒼潤ならば、拓巳の前世は蒼絃かもしれない。
本当にそうなのかどうかは分からないし、それを確かめる必要があるのかどうかさえ分からない。だけど、これだけは言っておかなければならない。
「あんたが私を羨ましいって思うのなら、それでもいいんだけど、私も一応いろいろあるんだってことを知っていて欲しいし、私としてはあんたが羨ましい。だけど、そうやって羨んでいても、あんたはあんただし、私は私だから、どうにもならないよね? 結局、自分のあるべき場所で、自分にできることをするしかないんだと思う」
ふと、蒼潤が蒼絃に約束していたことを思い出す。蒼絃の『楽しい』や『嬉しい』を一緒に探すという約束だ。
蒼潤はその約束を果たすことができたのだろうか。
蒼潤自身も、自分が成し得ることのできる何かを探していた。おそらく蒼潤はその何かを見付けることができないまま生を終えている。――そんな気がした。
もしそうなら、せめて亜希は拓己に言ってやりたい。
「もしも私が騎手になれずに中卒ってことになった時に、めちゃくちゃあんたを羨ましく思うと思う。――っていうか、その時には、そうあって欲しい。べつに医者になれとか、弁護士になれなんて言わないけど、あんたには私が羨ましく思うような場所にいて欲しい。それが私の原動力になるから。ずっとそうだったんだ。羨ましい、悔しいっていう気持ちがいつだって私を奮い立たせてきた。頑張れるんだよ」
だから、と、亜希は拓巳に人差し指を立てた。
「あんたはもっと私のことを羨んでいい」
羨ましいと思って、もっと頑張れ。
そしたら、きっと亜希も拓己を羨ましく思って、もっと頑張れる。
「あと、自分の好きなもの、なりたいもの、将来くらい自分で探しなよ。たぶん、そういうのって、最初は勘違いかなってくらいに小さくて些細なものなんだ。それを無視しないで気に掛けて、大事に育てていくと、得意なものや大好きなものになるんじゃないかな」
よく分からないけど、と亜希は続ける。
「あんたの場合、ちょっと気になるなと思うものを、ばっさ、ばっさ、切り捨ててきたんじゃないの? こんなもの好きになっても無駄だ、こんなもの好きだと知られたら否定されると思ってさ」
こんなことを言えるほど拓己のことを知っているわけではないが、たしか蒼絃がそうだったなと思い出して亜希は言った。
蒼絃は、ひとつのものに執着しないように育てられたため『好き』という気持ちがよくわからないと言っていた気がする。
皇帝や皇太子がひとつのものに執着してしまうと、それがその者の弱点になり得るからだ。
例えば、豚肉を辛めの味付けで料理されたものを美味しいと感じたとする。だけど、そう感じたことを周囲に知られてはならないのだ。もし、好みの味付けを知られてしまったら、それを利用して毒を盛ろうと企む者が現われるかもしれないからだ。
玩具や遊戯、衣ひとつ取ってもすべてに同様のことを言えた。お気に入りのものをつくってはならないし、万が一、気に入ったものができたとしても周囲にそれを知られてはならないのだ。
拓巳が蒼絃のように育てられたわけではないが、似たようなものを感じながら言いたいことを言い切ると、亜希は唇を結んで拓巳の顔をじっと見つめた。
拓己は喘ぐように息を呑んで、それから、ゆっくりと息を吐くように言った。
「俺はお前が羨ましい」
「うん」
やっと認めたなと、亜希は拓巳と目を合わせたまま頷いた。
そうだよ。そうやって、自分たちはお互いのことを認め合っていこう。
そうすれば、亜希は拓己が羨んでくれる亜希自身も認めることができる。
亜希は女である。
もはや女であることを嫌ったりはしないし、性別がどうあれ、亜希は亜希だと思っている。
ただ、ただ、自分で選んだ道を生きるだけだ。
(だから、蒼潤。私は私の道をいくよ。どうか見守っていて――)