65.俺はお前に褒められたい
仕方がないなぁと、蒼潤は峨鍈に寄り掛かっていた体を起こして、彼に振り向いた。
「言いたいことがあるのなら、言えよ」
「お前は邸の奥から出すべきではないな」
「はぁ? 俺、何か間違ったことしたか?」
「……」
「ほらな。俺は何も悪くない。余計なことは言わなかったし、比較的よい子にしていた。そう思うだろ?」
「陛下と何を話していた?」
「それは内緒だ。――なあ、やっぱり考えたんだけど、離縁しないか?」
「は?」
ぴくんっと眉を跳ねさせ、峨鍈の目つきが鋭くなる。そして、全身から剣呑な雰囲気を放っているが、蒼潤は無視をすることにして、さらに言い募った。
「俺、結構、使える部将になれると思うんだ。妻にしておくのはもったいないって、そのうち後悔するんじゃないかなぁ。俺のこと、邸に閉じ込めておくより、お前の臣下にしてくんない?」
「お前はいったい何を言い出したんだ?」
「だって、妻だの、伴侶だのにしておくより、よっぽど役に立つと思うんだ。――俺、お前に褒められたい」
蒼絃との会話を思い出して、蒼潤は険しい表情を浮かべている峨鍈を見上げて言った。
すると、峨鍈は虚を突かれたような顔になって、それから、蒼潤の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「お前が一日、邸の中で大人しくしていたら、めいっぱい褒めてやる」
「そういうのは、違う」
即座に否定すれば、峨鍈は眉を寄せ、それから、呆れたように大きなため息をついた。
「お前が率いることができる兵の数は、せいぜい五百だ」
「いいんや、もっとできるね」
「好き勝手に動くやつが何を言っている」
「ちゃんと作戦通りに動いているだろ。それに、臨機応変に動けている」
「臨機応変すぎる。まったく、物は言いようだな」
「じゃあ、どうしたら褒めてくれるんだよ。俺は陽慧みたいにお前から、よくやった、って言われたい」
「お前と陽慧では、頭の出来が違う」
「分かってる! だから、軍師になりたいだなんて言ってない。爸爸みたいになりたいんだ」
「石塢か……」
峨鍈の従兄である夏銚の顔を思い浮かべているのだろう。峨鍈が、いかにも嫌そうな顔をした。
そして、蒼潤の両肩に手を置き、細い腕を掴み、さらに、ほっそりとした腰に触れると、頭を左右に振る。
「無理だな」
「俺はお前のそういうところが嫌いだ」
いーっ、と歯を剥いて言えば、峨鍈がくくくっと笑った。
「あいつは、お前より幼い頃から体が大きくて、厳つい顔をしていた」
「どうせ俺は体格に恵まれてないし、顔もこんなんだよ」
不貞腐れて言えば、肩を掴まれ抱き寄せられる。
何が功を奏したのか分からないが、いつの間に峨鍈の機嫌が上向きになっていた。
再び彼の体にもたれ掛かって、蒼潤は言う。
「俺はこれから自分が本当にやりたいことを探して生きていくんだ」
自分は何を成し得ることができるのか。それはまだ分からない。
分からないからこそ探していきたい。これだ、と思えるものを――。
△▼
「JRAジュニアユースとやらに応募したいです。――でも、もう今年の募集期間は終わっているから、来年1月の募集期間に応募したいです。そのために、乗馬クラブに通いたいです」
夕食後、リビングで寛いでいる両親を捕まえて亜希は神妙な面持ちで言い放った。
けして、その場の思い付きではなく、真剣な話なのだと分かって貰わなければならない。そのために亜希は姿勢を正してソファに座ると、膝の上で拳を、ぎゅっと握り締めた。
「私、騎手になりたい。なので、中3になったら、競馬学校を受験します」
「なんだって?」
「ジュニアユースに入れたら競馬学校の受験で有利なんだけど、めちゃくちゃ狭き門で、ぶっちゃけ1人くらいしか募集していないから無理かもなんだ。無理だったら、受験指導してくれる乗馬教室に通いたい」
待って、と母親が亜希の口をいったん閉じさせた。
「本気で言っているの? 本当に騎手になりたいの?」
「うん」
「お母さん、よく知らないんだけど、競馬学校って、中学3年生が受験するものなの?」
「受験資格は、中学校卒業以上の学歴を有する20歳未満って、ホームページに書いてあった」
「だったら、高校卒業してから受験してもいいんじゃない?」
当然言われるだろうと思っていた通りのことを母親に言われる。
そこは亜希も悩んだところだ。
競馬学校を卒業しても高卒資格は取得できない。つまり、学歴は中卒ということになってしまう。騎手として成功すればそれで良いとは思うが、万が一のことを思うと、悩ましい。
その想いもきちんと口にしてから亜希は首を左右に振った。
「競馬学校もめちゃくちゃ狭き門なんだ。だから、チャンスは最大限に使いたい。中3で受験して、ダメなら20歳まで毎年受験する」
「普通の高校には行かないつもりなの? ちょっと待ってね。急すぎて、賛成も反対もできないわ。お母さんも自分で調べてみる」
うん、と亜希は母親に頷く。
母親の気持ちはよく分かる。亜希が進みたいと告げた道は、普通の道ではない。
中学校を卒業したら高校に進学して、その次は大学にという母親自身も通って来た道ならば、母親だってイメージが付きやすいため助言もできただろう。
しかし、その道を亜希は進まないと告げたのだった。
母親がいったん口を閉ざすと、代わって父親がゆっくりと自身の想いを語り始めた。
「わたしは、正直なところ、高校は卒業して欲しいな。騎手になれたとして、その後、怪我でもして騎手を辞めなければならない時、中卒の亜希が別の仕事を探そうとしても、それはとても難しいことなんだよ」
「でも、高校を卒業するまで待ったら3回もチャンスを逃すことになるし、3年間も時間を無駄にしてしまう」
「無駄な時間を過ごすか否かは、亜希次第ではないかな」
「でも……」
亜希が押し黙ると、リビングがしんと静まり返った。
ここで亜希が、高校に行く、高校を卒業してから競馬学校を目指すと言えば、きっとすべてが丸く収まる。
数年後の受験に向けて今から大慌てで準備するよりも、高校三年間の猶予を得て、ゆっくりと将来を考えれば良いのではないかと両親は考えているに違いなかった。
だけど、亜希はずっと捜していたものを、やっと見付けたのだ。それを見失いたくない。
その時、ねえ、と優紀がスマホの画面を見ながら声を発した。
「今、調べてみたんだけど、競馬学校の受験って、夏にやるみたい。競馬学校に落ちてからでも受験勉強、間に合うんじゃない?」
え、と聞き返すと、優紀はスマホから視線を上げて亜希を見やる。
「競馬学校に落ちたら、普通の高校を受験すればいいじゃん。それだったら、亜希もお父さんも納得できるでしょ? 中3で競馬学校を受験してみて、合格したらそれでいいし、もしダメなら普通に高校受験をする。高校に通いながら翌年も競馬学校を目指せばいいし、ずっと受からなければそのまま高校を卒業すればいいでしょ?」
「だが、もし受かってしまったら、中卒なんだぞ」
焦ったように父親が優紀に振り向いて言えば、優紀は肩を竦めて答えた。
「大丈夫、お父さん。競馬学校って、毎年10人くらいしか合格しなくて、倍率が20倍くらいだから。そう簡単には受かんないって」
「ひどい」
亜希がムッとして言えば、優紀はからからと笑って言う。
「でも、私はさ、いつかまた亜希が騎手になりたいって言い出すと思ってたよ。ほら、小さい頃にも言ってたことあったじゃん」
「あったかしら?」
母親が首を傾げる。
「言ってたよ。でも、お母さんが本気にしなくて、馬を走らせるんじゃなくて、自分の足で走ったらって、亜希に陸上をやらせたんじゃん」
「あら、そうだったかしら?」
「うわっ、そうだったかも。思い出してきた!」
たぶん8歳の頃の話だ、と亜希は膝を手の平で、ぱちんと打つ。
初めて競馬場でレースを見た時に、これだ、と思ったことを思い出した。
(そっか、私、あの時にすでにやりたいことを見付けていたのか)
陸上をやっていたことに後悔はないけれど、ちょっぴり遠回りしてしまった気分だ。
だけど、きっと陸上で鍛えた体は無駄にはならないはずだ。
再び優紀がスマホを片手で弄りながら、仕方がないよ、と母親の肩を持つようなことを言った。
「乗馬なんて、子供の習い事としては高いもんね。月に1万から3万って書いてあるよ」
「ひぇー。亜希、ごめん。3万はきついわ」
うん、と頷いて亜希は人差し指を立てる。
「そこで、ジュニアユース。会費無料って書いてあるよ」
「待って。亜希、舐めすぎ。たぶん、それ、よほど優秀な子じゃないと受からないから」
「知ってる、狭き門なのは。でも、目標にするくらい良いじゃん。――という訳なので、乗馬を習いたいです」
再び両親に向き直り、姿勢を正す。
おそらく趣味のための乗馬クラブというよりも、競馬学校を受験する人のための乗馬教室に通わなければならないだろう。
そうなると、月謝はもっと高くなるはずである。
お金のことは中学生の亜希にはどうすることもできないので、とにかく亜希の本気を両親に見せるしかない。
ぐっと唇を結んで父親を、そして、母親を見やれば、やがて父親が重たい口を開いて言った。
「亜希の気持ちは分かった。少し考えさせてくれ」
仕方がない。すぐに結論を出せるほど、亜希の家は裕福というわけではないのだ。
三姉妹とも大学まで進学させるつもりで貯金しているとは両親から聞いているけど、亜希にお金を使いすぎて美貴の学費が足りないということになったら、美貴に申し訳なさ過ぎる!
うん、と頷いて亜希はソファから立ち上がる。
想いは伝えた。たぶん、まだまだ覚悟が足りなかったり、調べ切れていないところもあると思う。
それに何よりも亜希自身の実力が未知数だ。夢の中で乗馬が得意だったとしても、実際には馬を走らせたことがないのだから。
それでも、最初の一歩を踏み出せたという実感がある。手を伸ばしてみなければ、何も掴めないように、やりたい、こうしてみたい、と口に出して言ってみなければ、周囲からの援助は受けられないのだ。