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64.池の鯉と姿を隠した鳥


 葵暦189年のことである。

 恙大将軍が宦官たちに殺害され、以前から宦官誅滅を唱えていた瓊倶が兵を率いて宮中に踏み込んだ。

 そして、難を逃れようと宦官達は皇帝を連れ、宮中から外へ逃げ出したのだ。

 おそらく、その時に皇太子であった蒼絃も共に連れ出されていたのだろう。


「わずか数刻の外だった。すぐに呈夙ていしゅくが現れて、朕は皇城に連れ戻された。それ故、朕の見知っている外とは、皇城からも眺められる範囲だけだ」


 蒼絃は薄く自嘲の笑みを浮かべて再び池の水面に向かって視線を伏せた。

 その時、ぴちゃんっと赤い鱗を持った大きな鯉が水の中で跳ねて、尾を水面に打ち付ける。鏡のようだった水面が乱れ、波打ち、幾重にも水紋が広がった。


 キイキイと鳥の鳴き声が聞こえて蒼潤は視線を上げる。

 池の周りに植えられた木々のどこかに声の主がいるのだろうと思うのだが、その小さな姿を見付けることができなかった。

 池の水面を見つめたまま蒼絃が息を呑んだ気配がして、蒼潤は蒼絃に振り向いた。

 すると、蒼絃がようやく顔を上げて、蒼潤と目を合わせる。


「――朕は深江郡王が羨ましい」


 蒼潤はハッとして目を大きく見開いた。


「郡王は乗馬が巧みだと聞いている。思うがままに馬を駆けさせることができるのだと。それに、郡王は帝都の外から来られた。さぞかし外の世界を知っているのだろう」

「わたしは――」

「待て」


 蒼潤が言葉を返そうとすると、蒼絃はそれを遮り、片手を上げて宦官と女官を自分たちから遠ざけた。

 峨鍈も彼らと共に遠ざかり、木橋には蒼潤と蒼絃のみが残る。


「郡王とは本音で語りたい」


 そう蒼絃は言ったが、おそらく蒼絃は、蒼潤が自分に対してまったく敬意を抱いていないことに気付いている。そのため、蒼潤が不敬だと問われるようなことを言い出す前に他の者たちを遠ざけたのだ。

 ならば、と蒼潤は心の内をぶちまけてやるつもりになった。


「わたしは、ずっと陛下を妬ましく思っていました」

「ほう」

「妬ましくて、もどかしくて、もし自分であったのなら、もっとうまくやっただろうに、と。――なぜなら、陛下が座る玉座は、本来ならば、わたしの座るべき玉座だと信じて、強く欲していたからです」

「お望みならば、差し上げよう」


 蒼絃はあっさりと言って、にっこりと微笑んだ。

 蒼潤もにっこりとして、風に悪戯された髪を肩の後ろへと払った。


「いえ、もはや不要です」

「もはや朕を妬ましいとは思わぬということか」

「はい、おそれながら。――もし、わたしの父が帝位についていて、その後をわたしが継いでいたとしても、わたしは今の陛下と何も変わりはなかったでしょう」


 きっと呈夙に傀儡され、その暴政を止めることもできない無力な皇帝になったことだろう。

 ただ、ただ、権力者の言いなりとなり、翻弄され、心を殺して玉座に座り続けるのだ。


「だが、郡王は龍だ。龍ではない皇帝は龍に玉座を譲らなければならない」

「龍は――、滅びます」


 ちらりと蒼潤は木橋を降りた場所で宦官や女官たちと待っている峨鍈に視線を送った。

 蒼潤以外の龍をすべて殺すという彼の言葉を思い出す。

 峨鍈がその言葉を口にした数日後、帝都に向かっていた寧山郡王がその手前で杜圻とぎんの投獄を知り、慌てて自領に引き返したが、その道中で急死した。

 長く患っていた病が悪化したということだが、そんなはずがないことを蒼潤は知っている。


 それから、夏になり、越山郡王が病死し、夏の終わりに互斡国から届いた文によると、蒼昏も原因不明の病を患っているのだという。


「龍は、滅びる前に大空を駆けようと思います。ですから、玉座は不要なのです。陛下の犯した罪ではございませんが、陛下の祖母上である恙太后が龍から玉座を奪ったのです。その奪った玉座で存分に苦しんでください。わたしも幼い頃に大層苦しみました。そして、今後も新たな苦しみにさいなまれることでしょう」


 蒼絃が皇城で皆からかしずかれ、皇太子として敬われていた頃、蒼潤は女の衣を身に纏い、いつ襲われるとも知れない刺客に怯えていた。

 そして、蒼絃が帝位を継ぎ、玉座に着いた2年後には、蒼潤は郡主として峨鍈に嫁いだ。


「わたしは、自分ばかりが屈辱にまみれた不運な人生を送っていると思っていましたが、そうではないと――今、分かったのです」

「人は、他人の表面しか知らない。分からないのだ。その表面の華やかさだけを見て羨ましく思ってしまうものだが、その内側には必ずその者の苦しみがあるものなのだな」

「ええ、そのように思います。ですから、どうか陛下もわたしを羨ましいとは思わないでください」


 蒼潤はこれから、自分の血族を滅ぼし、蒼潤の祖先が築いた王朝を滅ぼす男と共にあらねばならないのだ。

 そんな自分に向かって『貴方は自由で羨ましい』などと言って貰いたくはなかった。


「結局、人は、その者が手にしているものを武器として、がむしゃらに戦っていくしかないのです。そうやって生きて、楽しい、嬉しいを拾い集めていくことが幸せに繋がるのでしょう」


 気持ちの有様ありようなのだと蒼彰は言っていた。

 どのような相手に嫁ごうと、子を儲けるだけの夫婦になるのか、それとも、敬い合う夫婦になるかは、自分次第なのだと。

 つまり、蒼彰が言いたかったことは、どのような環境にあろうと自分次第で幸せになれるということなのだろう。


 もちろん、そんなことを思う余裕さえ与えられない環境や状況の時もあるだろう。

 足掻いても、足掻いても、どうすることもできないくらいに、どん詰まりで、どん底な時だ。

 そんな時はすべて投げ出して逃げたって良いのだと芳華は言う。

 握り締めている武器を投げ捨てて、がむしゃらに戦うことをやめていい。そうして逃げた先に、きっと別の道があるはずだからだ。


 さぁーっと木々が風に揺れて、木の葉が擦れ合う音が響く。直前までキイキイと鳴いていた鳥の声が止んで、ぴちゃんと池の水面で鯉が急に身を翻した。

 優雅に泳いでいく鯉の行方を視線で追っていた蒼絃は、不意に顔を上げて蒼潤を見やる。


「郡王の楽しいが何か教えて欲しい」


 それはもちろん、と蒼潤はニヤリと笑みを浮かべて即座に答えた。


「馬ですよ、陛下。馬の背に乗って駆ければ、嫌なことがすべて吹き飛びます」

「それは羨ましい。では、郡王の嬉しいこととは?」


 問われて蒼潤は目を細める。そっと声を潜めて、ちらりと視線を峨鍈に向けて答えた。


「あそこにいるあの男に認めて貰えた時でしょうね」

「なるほど」

「陛下の楽しいは何ですか?」


 聞き返されて蒼絃は、ふっと顔を曇らせ、再び池の鯉に視線を落とした。


「朕は――」


 すぐには思い付かないのだろう。蒼絃は難しそうな表情を浮かべて押し黙った。

 木の葉のざわめきが聞こえ、まるでそれが蒼絃に言葉の続きを催促しているように感じられた。

 鳥が囀る。そして、パタパタと羽音を響かせて、木々の間からその姿を現した。

 スズメよりは僅かに大きいだろうか。橙色の美しい羽根を持った小さな鳥だ。


(――モズか)


 モズは、その可愛らしい姿には似合わず、黒く鋭い嘴と頑丈な爪を持っている。小さいが、鷹や隼と同じ猛禽類なのだ。

 蒼潤は空を羽ばたいていくモズの姿を目で追って、やがて見えなくなると、答えを見付けられそうにない蒼絃に視線を戻した。


「これから探していけば良いのです。陛下が許してくださるのなら、わたしがその手伝いを致しましょう」


 ぱっと蒼絃が顔を上げて蒼潤に振り向いた。


「郡王」

「はい、陛下」

「嬉しいは見付けたように思う。こうして郡王と過ごせる時が朕は嬉しい。郡王、朕の後宮で暮らすつもりはないだろうか?」


 蒼潤は不意を突かれたような心地になり、蒼絃の顔を見つめたまま目を瞬かせる。

 それから、ニヤリと笑って言った。


「わたしも陛下とお話でき、長年のつかえがようやく取れた思いがして嬉しいです。ですが、住処すみかを変えるつもりはないですね。枕を変えると、寝つきが悪くなりますので」


 はははっと蒼絃が声を上げて笑う。


「どうやら朕は振られたようだ」

「あそこにわたしたちを睨んでいる男がいるのに、よくもまあ、そのような冗談が言えたものですね。――そろそろ下がらせて頂いてもよろしいでしょうか。あの男の苛立ちが伝わってくるので、少々、恐ろしいのです」

「たしかに恐ろしいな。また朕が呼んだら参内して欲しい」


 はい、と答えて蒼潤は拱手し、蒼絃のもとを離れた。

 木橋を歩き、峨鍈の待つ場所へと向かうと、蒼潤と入れ代わるように宦官と女官たちが木橋に上がって蒼絃に駆け寄る。

 蒼潤は峨鍈の前に立つと、小首を傾げて彼を見上げた。


「お前、午後の仕事は?」

「休む」

「なら、一緒にやしきに帰るのか?」

「そのつもりだ。帰るぞ」


 峨鍈に腕を掴まれて蒼潤は庭院を去る。皇城の大門まで戻ると、峨家の馬車がすぐに用意されて、その中に蒼潤は峨鍈と共に乗り込んだ。

 馬車に馬が繋がれて、やがてカラカラと車輪が回して馬車が動き始める。

 蒼潤は規則正しい馬の蹄の音と車輪の音を聞きながら、隣に座る峨鍈の肩に後頭部を押し付け、もたれ掛かった。


「ずっと立ちっぱなしで疲れた。歩こうって言ったくせに、結局、立ち話だし。朝議の間、あいつは座ってたからいいんだろうけど、俺は立ってたんだぞ。――腹減ったなぁ」


 こんなに時間が掛かるのなら朝餉をもっとしっかり食べておくんだったとぼやいて、蒼潤は口を閉じる。

 先ほどから峨鍈が無言だ。あんまり機嫌が良くなさそうだということは感じるが、原因がよく分からない。

 よく分からないが、――と言うか、まったく身に覚えはないが、原因は、おそらく自分なのだろう。









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