63.参朝せよ
ムッとした蒼潤は峨鍈の手から自分の手を引き抜くと、柢恵の隣に駆け寄った。
「陽慧、どう思う?」
「天連、頼むから俺を巻き込むな」
わざと見せ付けるように蒼潤は柢恵の耳元に唇を寄せて話しかけている。その態度に峨鍈の方も、ムッとなった。
「あいつ、このまま勅旨を握り潰すつもりなんだ」
「天連、本当に離れて」
「あ、そういえば、楊慧。咳は止まったのか? 乾いた咳を長くしていただろう」
「いつの話だ。もうとっくに治まった。――っ‼ べたべた触るな。やめろって。白粉がつくだろう!」
「陽慧」
地の果てから響いて来たかのような低い声が室に響き渡った。
ぴやっと柢恵が体を竦ませ、蒼潤はじとりと峨鍈に視線を向ける。峨鍈は柢恵に向かって片手を払った。
「下がっていいぞ」
はいっ、と大きな声で返事をして柢恵は蒼潤の体を突き飛ばし、脱兎のごとく書室から逃げて行った。
ちっ、と蒼潤は舌打ちをする。それから、床に胡坐をかいて座り、尻の下敷きになった髪を掴んで引き抜き、後ろに流した。
峨鍈は蒼潤の正面に屈み込んで、その細い肩を掴むと、自分の方に引き寄せて顔を近付ける。蒼潤が素直に瞼を閉ざしたので、峨鍈は紅の塗られた唇に口づけた。
蒼潤が黒々とした瞳を開いて言う。
「お前の口に紅がついたぞ」
「構わない」
ほっそりとした体を床に押し倒して襟元を大きく開くと、蒼潤が峨鍈の胸に両手をついて体を遠ざけようと強く押した。
「一度でいい。朝議に参列してみたい」
一度だけ、と言って蒼潤は人差し指を自分の顔の前で立てて、ぎゅっと目を閉じる。
なるほど。どうやらこれが今回のおねだりの内容のようだ。参朝を促す勅旨が届いたと知って、出仕の真似事がしたくなったのだろう。
呆れたように長く息を吐いて、蒼潤の首筋に顔を埋める。
「おいっ」
焦ったように返事を促してくる蒼潤に、やけくそのように短く、ああ、と峨鍈は答えた。
「好奇な目で見られるぞ」
「べつに平気だ。見たければ見ればいい」
「次の朝議は、……明日か」
「連れて行ってくれるのか?」
頷けば、蒼潤が峨鍈の首に腕を回してきて、珍しく自分から口づけてくる。
誰の入れ知恵か。近頃、妙に強請るのがうまくなってきて困ると思いながらも、その口づけを受け入れた。
翌朝である。
邸の正門に馬車を用意させ、出仕の支度を整えた峨鍈が蒼潤を待っていると、黒地に蒼い龍の刺繍が華やかに施された絹の長袍を身に纏った蒼潤が奥院の門をくぐって現れたので、峨鍈は絶句する。
長袍は良い。非常によく蒼潤に似合っていた。
横髪と上部の髪をまとめて結い上げた髷に冠を被せ、残りの後ろ髪は背中を覆うように腰まで長く流している。
項の隠れるその髪型は、蒼潤の色気を多少なりとも抑えてくれるので、それも良い。
問題は、眉を描き、目尻に朱を挿していることだった。
「化粧をしているのか?」
「ああ、ほんの少しな。どうせ好奇な目に晒されるのなら、いっそその目を奪ってやれと玖姥に顔を弄られた」
余計なことをと吐き捨てるように言って、峨鍈は蒼潤を馬車に乗せた。
帝都の中を走るための狭い馬車なので通常ひとり乗りだが、蒼潤に続いて峨鍈も乗り込み、二人並んで牀に腰を下ろした。
大通りをまっすぐ北に向かい、皇城の大門の前で馬車を降りると、同じように参内してきた者たちが馬車から降りて来た蒼潤の姿を見て、言葉を失っているのが分かる。
蒼潤の侍女の目論見通り、彼らは蒼潤の容姿に目を奪われ、魂を抜かれたような表情でずっと蒼潤の姿を視線で追っていた。
だが、蒼潤はまったく頓着しておらず、峨鍈の隣を颯爽と歩き、まっすぐ朝堂に向かっていく。
早めに参内していた者たちが朝集殿から出て来て、蒼潤の姿を見て、はっと息を呑んだ。
――妖艶である。
とは言え、妓楼や後宮の女たちのような男を誘う格好をしているわけではない。むしろ、きちんと襟を締め、背筋を伸ばした姿は、凛々しくさえ見える。
それでも、何とも抗いがたい色気を纏っているように感じられた。しかも、それは女にはない色気であり、背徳的に男を魅了し、惑わす類のものだ。
あれが、と声を漏らした者がいた。その隣の者が頷いて惚けたように言う。
「あれなら、確かに抱ける」
「わたしは無理だ。畏れ多い」
「そうだ、畏れ多い。郡王だぞ」
「ああ、郡王だ。しかし、なんと美しい……」
「まるで人ではないようだ」
皆、感嘆のため息をついて蒼潤の姿に見惚れている。
可笑しなものだと峨鍈は思った。初めて出会った頃の蒼潤は小汚ない子供で、そんな子供相手に色気を感じていたのは、おそらく自分だけだっただろう。
それが今や、誰もが気付くほどの色気を振り撒いて、皆を魅了している。
いったいなぜこうなった、と思う一方で、このように蒼潤を育ててしまったのは、自分に違いないとも思った。
扉を大きく開かれた朝堂に蒼潤が足を踏み入れる。とたんに、ざわめきがぱたりと止んで、視線が蒼潤に集まった。
左右に立ち並んだ官吏たちの間を歩き、玉座の前まで来ると、蒼潤は戸惑ったような表情を浮かべて峨鍈に振り向いた。
「お前は俺の隣でよかろう」
訊かれる前に言ってやれば、うん、と蒼潤は答える。
そして、峨鍈は司空として官吏たちの最前列に立つと、蒼潤をその隣に立たせ、皇帝が朝堂にやって来るのを待った。
やがて先触れがあり、揃って叩頭すると、玉座の辺りで衣擦れの音が響く。
皇帝――蒼絃は玉座に着いてすぐに蒼潤の姿を見付け、一同が姿勢を戻したとたんに、蒼絃自ら言葉を放った。
「今日は随分と朝堂が華やいでいる。――やっと来てくれたのか、深江郡王」
蒼潤は蒼絃に向かって拱手し、にっこりと笑みを浮かべる。
「ご無沙汰いたしております」
「まったくだ。度々、顔を見せに来て欲しいとお願いはずだが、以前会った時から……」
そこで蒼絃は言葉を切り、脇に控えた宦官に視線を向ける。
視線を受けた宦官は蒼絃に耳打ちし、蒼絃は、そうそう、と頷いた。
「なんと4ヵ月も経っている。その間、病だったと聞いているが、長く患っていたのだな。大丈夫なのか?」
「病……」
今度は蒼潤が、ちらりと峨鍈に視線を向ける。
自分は病だということになっていたのか。しかも四ヶ月も! と、その目は呆れを含んで問いかけていた。
蒼潤は再び蒼絃に向かって笑顔を向けると、明るく声を響かせる。
「はい、完治致しました」
「それは上々だ」
蒼絃が笑みを浮かべて片手を上げた。開会の言葉があり、朝議が始まった。
△▼
青王朝において朝議は、通常、ひと月に数回、決められた日に行われる。急を要する事案がある場合は、その都度、招集されて臨時に朝議が行われた。
大抵、午前中には終わり、午後は各々の職場に向かい、勤務時間まで働く。
参列しているのは高官のみで、まず、三公、及び、九卿から報告があり、話合うべき議案があればそれについて意見を出し合うようにして朝議は進んだ。
蒼潤は郡王という爵位はあっても無官なので、口を挟むことなく、大人しく朝議の進行を見守っていた。
報告、または、意見がある者が前に進み出てくると、そちらに視線を向ける。
なぜか、すぐにその者と目が合って、皆そこで顔を赤らめ、言葉を詰まらせた。
しどろもどろに、やっとの思いで言うべきことを言い終え、元の場所まで下がっていく男の姿を目で追っていると、おいっと言って峨鍈が額を小突いてくる。
「あまり見つめてやるな」
「は?」
「見過ぎだと言っている」
耳元に口を寄せて小声で言ってきたので、蒼潤は不満げに眉を寄せた。
「そんなつもりはない」
「お前はそこにいるだけで、人を惑わす」
「はぁ?」
いったい何の話だと蒼潤は憤慨する。
だが、自分よりもむしろ峨鍈の方が苛立っているように感じられて、蒼潤は、さーっと肝が冷えていく思いがした。
蒼絃が、ふっと笑みを零して玉座から立ち上がる。
「今日は皆が浮足立っているな。ここまでにしよう」
閉会の言葉があり、皆、揃って叩頭すると、蒼絃が玉座から立ち上がった気配がした。
そのまま立ち去るのかと思いきや、蒼絃は蒼潤に向かって声を掛ける。
「郡王、庭院を歩こう」
思わず顔を上げ、蒼潤は蒼絃を見て目を瞬いた。
「心配なら、峨司空も共に来ていい」
「はっ」
蒼潤の隣で峨鍈が短く言葉を放って、蒼絃に向かって拱手する。
蒼絃が出て行くと、朝堂の後ろの扉が大きく左右に開かれた。高官たちは、ちらりと蒼潤に視線を向けてから朝堂を出て行く。
峨鍈と蒼潤のもとに若い宦官が駆け寄って来て、こちらにと言って蒼絃が待つ庭院へと案内をした。
蒼潤が邸に籠っている間に夏が終わり、葉が赤く色づく季節になっている。
庭院の池の鏡のような水面に、空の蒼と木の葉の赤が混ざり合うように映っていた。
池は舟遊びができそうなほどに大きく、長い長い木橋が架かっている。その中ほどのところで、蒼絃が宦官や女官を従えて蒼潤を待っていた。
蒼潤が峨鍈と共に木橋を渡り始めると、池の中を泳ぐ魚を眺めていた蒼絃が視線を上げて蒼潤に振り向く。
そして、蒼潤が近くまでやって来るのを待って、ぽつりと寂しそうに言った。
「朕は馬に乗ったことがない」
唐突な言葉に蒼潤はその意図を捉え切れず、蒼絃の顔を見やる。
「この皇城から出たことなど、一度しかないのだ。その一度が12歳の頃だった」
蒼潤と蒼絃は同じ年に生まれた。
だから、蒼潤は自分が12歳の頃に天下で何が起きたのかを思い出した。