60.ネタバレしてもいい?
市川はブルーベリージャムのサンドイッチの最後のひとかけらを口の中に放り込むと、左手を広げ、右手の人差し指を立てる。
「6巻。峨鍈が瓊倶と戦って、勝ったとこ」
「へぇ、勝つんだ?」
「勝たなきゃ、蒼潤と約束した新しい国をつくれないだろ」
「そっか」
峨鍈がちゃんと蒼潤との約束を守ろうとしてくれていることが、亜希には嬉しかった。
(――けど、きっと、蒼潤との約束だからっていうより、自分の野心を叶えるためだと思うけどね!)
それで、と市川は言葉を続ける。
「瓊倶は倒したんだけど、瓊倶の息子たちが北方に逃げてしまって、逃げた先で瓊家の国をつくろうとするんだ。名門ってだけあって、敗北してもまだまだ力を持ってて、かなりやっかいなんだ」
「峨鍈は柢恵を連れて、瓊家を滅ぼしにどんどん北上するんだよ」
「蒼潤も一緒に行ったの?」
「ううん。その頃、蒼潤は峨驕と行動を共にすることが多かったみたい」
「えっ、なんで?」
峨驕と言えば、峨鍈と梨蓉の息子だ。
いつだったか、夢の中で会って、一緒に遊んだことがある。峨鍈とよく似た精悍な顔立ちをしていて、利発そうな物言いをする男の子だった。
「さっき話した蔀城でのピンチも、なぜ蒼潤が峨鍈の傍にいなかったかと言うと、峨驕と一緒にいたからなんだよ。峨驕は10歳で戦場に連れて行かれるんだけど――数えだと12歳ってことになるのかな――自分が初陣を果たした時よりも幼いって蒼潤が怒って、峨驕を護ってやるんだって、峨鍈の傍にいなかったの」
「なるほど。でも、蒼潤が怒るのも分かるかも」
蒼潤が戦場に連れて行けと言っても、なかなか連れて行ってくれなかった峨鍈だ。
それが、自分よりも幼い歳の峨驕を戦場に連れて行くなんて納得がいかないだろう。
「峨驕は初めて出会った時から蒼潤のことを慕っていて、戦場では傍にいて欲しいって、蒼潤に頼むの。蒼潤にとって、峨驕は立場上では息子なわけだけど、弟みたいな存在で、可愛いわけね。頼まれたら、うん、って言っちゃうのよ」
「なるほどね」
頼まれると、うん、と言ってしまうあたりは、亜希と蒼潤はよく似ている。気持ちは分かるぞと亜希は、うんうん頷いた。
「それで、瓊家は滅ぼせたんだよね?」
「うん。滅ぼして天下の北半分を統一したんだよ」
「すごい! じゃあ、あとは南下していくだけだね!」
まったくもって言うは易しである。『蒼天の果てで君を待つ』がパラレルワールドの三国志であるのなら、峨鍈の南下は失敗で終わるはずだからだ。
しかし、何が原因で失敗するのだろうか。
かなり先の展開なので、早苗にしか聞くことができないと、亜希は早苗に視線を向けた。
早苗は亜希が持ってきたポテチの袋をバリッと開けながら小首を傾げた。
「敗因はいろいろあったんだけど、でも、一番の理由は柢恵がいなかったからだと思う」
「えっ、なんで柢恵いないの?」
「だってぇー」
ポテチの袋を掴みながら早苗は瞳をうるうるさせる。
「いいの? ネタバレしても?」
「うわ、待って。俺、聞きたくないかも!」
市川が慌てて自分の耳を両手で塞ぐ。
亜希と志保はネタバレまったく構わない派なので、早苗が抱えているポテチの袋に手を突っ込んで、ポテチをバリバリ食べながら早苗の言葉を待つ。
あのね、と早苗は今にも泣きそうになりながら言った。
「柢恵ね、北から帰って来られなかったの。もともと体が丈夫な方じゃないのに、慣れない土地で無理をして病気になっちゃうんだよ」
「つまり、死んじゃうってこと? えー、ホントに!? うわー、ショックだわー!」
「俺の方がショックだしー!」
「市川、聞こえてるじゃん。ちゃんと耳を塞いどきなよ」
「安心して、市川君!」
うるうる目の早苗がポテチの袋を亜希の手に押し付けると、両手の指を組んで市川に顔をぐっと近付けて言う。
「柢恵の息子と奥さんは蒼潤が引き取ってくれたから」
「息子かぁ。柢恵が最後に春蘭と別れた時、まだお腹の中だっただろ? 柢恵は自分の息子と一度も会えないまま死んだんだよなぁ」
「あっ」
「えっ」
「ええっ? ――はぁああ!? 春蘭!?」
一瞬、聞き間違えかと思ったが、早苗が大きく瞳を見開いて市川の顔を凝視し、志保も引っ掛かりを覚えたような表情をしているので、聞き間違えなんかではないと分かる。
春蘭とは、蒼潤の侍女の芳華の字だ。
柢恵が芳華と別れた時、柢恵の息子は芳華のお腹の中だったと市川は言ったが、それはいったいどういう意味だろうか。
「……まさか」
亜希はひとつの答えにたどり着き、視線を早苗に、そして、市川に向けて、二人の顔が赤くなっていく様子を茫然と見つめた。
「柢恵と芳華って、結婚するの!?」
うわぁーっと大声を上げて亜希と志保が体を仰け反らす。
ちょっと声が大きい、と早苗が両腕を羽ばたく鳥のようにバタつかせて、亜希よりもさらに大きな声を上げた。
「だって、天連様が柢恵に嫁げって言ったんだもの!」
「は? 蒼潤が命じたの?」
さっと顔色を変えれば、早苗は慌てたように亜希の顔の前で手を横に振った。
「違うの! 命令されたから嫁いだわけじゃなくて、ええっと、その……。すごく恥ずかしいんだけど、芳華はね、蒼潤のお使いで何度か柢恵に会いにいくことがあって、その時に素敵だなぁって柢恵のことを思うわけなのね。そのことを察した徐姥が蒼潤に言ったのよ。娘が年頃になりました、非常に奥手な娘なので、このままだと行き遅れてしまいます、って。――それで、蒼潤が柢恵に掛け合ってくれて」
うーんっと亜希は低く唸るように声を出して、早苗に確認する。
「じゃあ、命令されて嫌々っていうことじゃないんだね?」
「うん、結婚が決まって嫌じゃなかったよ。すごく嬉しかったよ」
「そっか。それならいいかぁ。――って、ダメじゃん! 柢恵がめちゃくちゃ早死にすぎるし! そんなすぐに芳華が出戻ってきたら困るよ!」
いったい何歳で死んだんだ、と市川に詰めよれば、早苗の言葉で、27とか、28とか、そんな答えが返ってきた。
早い! 早すぎるーっ‼
「柢恵も死にたくて死んだわけじゃないからな。きっと会いたかったはずだ。春蘭に。それから、自分の息子と、親友の天連に。会いたいって思いながら、きっと死んだんだ」
「市川……」
胸元を抑えながら、苦しげに、悲しげに、眉を歪めながら言った市川の姿が、亜希の目には柢恵の姿と重なって見えた。
会いたい、会いたい、と病床で涙を浮かべながら、柢恵が胸を抑えて苦しむ姿が、不意に脳裏に浮かぶ。
蒼潤は柢恵のその姿を目にしていないはずなのに、まるで見ていたかのようにその光景が亜希の頭の中に映し出されるのだ。
――会いたい。もう一度。ひと目だけでも。声が聞きたい。お前と、また話がしたい。
「……っ‼」
亜希は堪らず身を乗り出して、市川の肩をガシッと掴んだ。
「会えたから! ちゃんと会えたから! また会えて、こうやって話をしているから!」
市川が亜希を見やり、驚きに瞳を大きく開く。構わず亜希は続けて言った。
「もし本当に蒼潤が私の前世で、柢恵が市川の前世なら、私たちはこうやって今また会えたんだから、柢恵は会えたんだよ。蒼潤にも、芳華にも。会えたから、だから――」
だから――の後に続けるべき言葉が亜希には思い浮かばなくて、だから、だから、と無暗に繰り返す。
もどかしい。こういう時に上手な言葉ひとつ言えなくて。
蒼潤と柢恵は、出会った頃のお互いの印象は最悪で、真逆とも言える育ちと性格で、気が合うわけがないとお互いに思っていた。
ところが、柢恵は蒼潤がじつは峨鍈の正室で、郡主として育った郡王だと知っても、ひどく驚いたもののそれまでの態度を改めたりせず、代わらず接し続けてくれた。蒼潤の掛け替えのない親友だ。
蒼潤が柢恵を大切に想う気持ちが亜希には鮮やかなほど明確に感じられていたが、それを市川にどのように伝えたら良いのか、その術が分からなかった。
えーっと、と亜希が再び言葉を繰り返そうとした時、市川が自分の肩を掴む亜希の手を掴み返して、首を横に振った。
「ありがとう。大丈夫だ。ちゃんと伝わったから。――また会えて嬉しい」
「うん」
うまく伝えられたという実感はないが、市川が満足そうな表情でそう言ってくれたから、それで良しとしようと亜希は思う。
早苗のサンドイッチも、亜希と市川が持って来たお菓子も食べ終わってしまうと、早苗はリュックの中から紙の束を取り出した。亜希の家から持って来た『蒼天の果てで君を待つ』の原稿だ。
こんなところで読むのかと呆れていると、市川まで自分の鞄から本を取り出して読み始める。
(うわー。似た者夫婦だ)
ちらりと志保に視線を向けると、志保も呆れたように肩を竦めた。
せっかく競馬場に来ているのに馬を見ないでどうするのだ!
憤りを感じるが、本こそ何よりも勝る娯楽だという早苗や市川に馬の美しさを説いても仕方がないので、亜希は志保と馬場を眺めてレースを楽しむことにした。
「毎週競馬場に通ったり、テレビ中継を見るほど好きっていうわけじゃないけど、馬って、かっこいいと思うよ」
毎週競馬場に通ったり、競馬のテレビ中継を録画して見ている亜希は、志保のそんな言葉に感激して、うんうん頷く。
「ありがとう、志保!」
「いや、亜希にお礼を言われることじゃないから。――けど、亜希が馬に乗りたいっていう気持ちは、なんとなく分かるかな。騎手になって、自分が乗った馬が一番でゴールできたら、すごく気持ちがいいと思う」
「うん!」
「亜希はさ、ずっと自分の中に明確に好きだと思うものを持っていて、それがすごくいいなぁって思うんだ」
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