59.比翼の鳥
「天連?」
「伯旋、俺はお前が嫌いだ」
蒼潤が吐き出すように言うと、峨鍈は息を呑んだ。
「お前が妬ましいし、憎らしく思う。この身が、実に口惜しい。――あの時、あの厩でお前と出会わなければ良かった。たとえ、互斡国から出ることができなかったとしても、お前の妻になどならなければ良かった!」
峨鍈が眼を細める。
「そうすれば、お前とは敵として出会って、情を抱くことなく戦っただろう。それで、もし、お前に勝てなかったとしても、俺は無念だとだけ思って散れたんだ。そうしていたら、きっと、こんなにも心は痛まなかった。――悔しい。なぜ、俺は男になど生まれてきたのだろう。いっそ本当に女の身であれば良かった」
「天連、まだ玉座が欲しいのか?」
蒼潤は髪を左右に揺らすように頭を振る。
峨鍈の手を取って互斡国を発った時から髪を切ることを禁じられ、5年ほど伸ばし続けた髪は緩やかに流れる川のように背中を覆い、腰まで届きそうである。
元より髪が豊かな蒼潤は、男装をする時に長く伸びた髪をすべてまとめて髷をつくることが困難で、顔の左右の横髪のみをまとめて結い上げ、髷をつくっていた。
髷は巾で覆い、後ろ髪はそのまま流すように背中に垂らしている。
蒼潤は苦しげに表情を歪めて峨鍈を見つめた。
「己の野心を叶えることのできる力を持つお前が妬ましい」
「いつだったか言ったはずだ。俺とお前は比翼の鳥なのだと。俺がこの手に握っている力はすべてお前のものでもある。俺とお前は互いに翼を分け合って生きているのだから」
「違う。お前の野心はお前のものだ。それを叶える力も、お前のものだ」
互斡国で蒼潤を言いくるめたように、今も『比翼の鳥』だなどと言って、彼は蒼潤を丸め込もうとしている。
だけど、蒼潤は今度こそ騙されたりはしない。
「比翼の鳥だなんて、まっぴらだ! お前はお前で、俺は俺だ。第一、お前にはもう俺に流れる蒼家の血など不要だろう。俺の翼は折れた。もう飛べない!」
まるで駄々をこねる幼子のように蒼潤は体を震わせて叫んだ。すると、峨鍈は、天連、と呼んでその細く頼りなげな体を抱き締める。
「俺にとって、お前の価値はもはや血ではない。ただ、ただ、お前が愛しい」
「……っ」
「お前が何と言うおうと、お前は俺の片翼だ。俺と共にこの乱世の空を飛んでもらう」
「……」
できない、或いは、嫌だ、と答えようとした時、峨鍈が纏っている絹の長袍に気付いた。
彼のその姿は朝議に参列するためのもので、おそらく彼は朝議の途中で飛び出して、着替える間も惜しんで蒼潤を追ってきたのだろう。
「天連?」
峨鍈の腕の中でしばらく押し黙っていると、焦りを滲ませた声が頭上から聞こえてきて、蒼潤は、ぱっと顔を上げて峨鍈の顔を見上げた。
すると、驚いたように見開かれた彼の目と自分の目が、ぱちりと合う。
――この男をこんなにも慌てさせることができるのは、自分だけかもしれない。
そう思うと、胸の奥からじわりと温かいような、こそばゆいような、淡い嬉しさが込み上げてきて、蒼潤は強請るように薄く唇を開いた。
すぐに腰に回された腕に力が込められ、ぐっと体を引き寄せられると、口づけが降りてくる。
ほんの少しだけ許したつもりだったのに、執拗にされて蒼潤は眉を顰め、大きく顔を反らした。頬に手を添えられ、峨鍈が逃げた唇を追って来ようとしたので、蒼潤は彼を睨み付ける。
「やめろ」
蒼潤の濡れた唇を指先でなぞって彼は嬉しそうに微笑んだ。
「お前に玉座を捧げよう。ただし、青王朝の手垢にまみれた玉座ではなく、新しい玉座を」
「新しい? お前まさか――」
蒼潤はあまりにも驚愕してしまい、言葉を失った。
自分の目の前の男の野心はあまりにも大きく、不遜で、けして他の者には知られてはならないものだ。
峨鍈は身を屈めて蒼潤の耳元に唇を寄せて言った。
「お前以外の龍をすべて殺すことになる」
「……っ!?」
身の危険さえ感じるような恐怖を感じて彼の腕の中から逃げようとしたが、察した彼に強く抱き締められる。
「血や生まれなど、どうでも良いと思えるような国を、俺はつくる。その者自身の実力を重視し、努力すれば努力しただけの栄誉を得られるような国にする。――蒼家の龍であるお前には分からないだろうが、俺は宦官の孫だということで、腐った血だと後ろ指を指されて育ってきた。その悔しさは今でも度々思い出し、腸が煮えくり返る」
蒼潤は峨鍈が今どのような表情をしているのか見たいと思ったが、顔を彼の肩に押し付けられた姿勢で強く抱き締められ、身動きが取れなかった。
蒼潤とて青王朝がもはや立ち行かなくなっているのは分かっていた。朝廷には乱を平定する力がなく、代わって、群雄たちがどんどん力をつけていく。
帝都では汚職にまみれた官吏たちが政を好き放題にして、皇帝の声は細く小さく、民には届かなかった。そして、民たちもそのような皇帝には背を向けていく。
だけど、蒼潤には青王朝に代わる王朝をつくるという発想がなかった。なぜなら、蒼潤は青王朝の龍だからだ。
「お前になら、できるかもしれない」
けして自分にはできないことだが、峨鍈にはそれができるかもしれない。
――峨鍈が新しい国を興す。
それは途方もなく凄いことだ。きっとその道のりは平坦なものではなく、困難も多いはずだ。まだまだ彼が打ち破るべき敵は多いのだから。
「違うぞ、天連。俺とお前でつくるんだ。俺の座る玉座にお前も座らせたい。俺の隣にお前も座るんだ」
それでは皇帝が2人になってしまう。しかも、1人は前王朝の龍だ。大きな混乱のもととなるだろう。ちっとも現実的ではなく、おそらく実現しない絵空事だろうと思ったが、それでも蒼潤は嬉しかった。
「伯旋」
「なんだ?」
「お前が俺を殺すまで、お前の傍にいてやる」
峨鍈の腕の力が僅かに緩んだので、蒼潤はゆっくりと顔を上げて彼を見上げた。すると、峨鍈は複雑そうな表情を浮かべて蒼潤を見下ろす。そして、何を思ったか、ニヤリと笑みを浮かべて答えた。
「違うな、潤。お前はたとえ死んでも俺のものだ」
△▼
「両想い!?」
「――って思うでしょ? ところが、ところがなのよ‼」
悶えるように早苗は芝生に両膝をついて、地面を両手でバシバシと叩いた。
よく晴れた土曜日である。
亜希は早苗と志保、そして、市川と一緒に競馬場に来ている。
10時に亜希の家で待ち合わせて、自転車で東門まで行くと、先に着いていた市川と合流して、東門から中に入った。
目的は、城戸に会って、あれこれ問い詰めることだったが、ほとんどピクニック気分だ。
亜希が芝生にレジャーシートを広げると、早苗が大量に作ってきたサンドイッチをみんなに配る。
「早苗がそうくると思ったから、私は飲み物を持って来たよ。お茶とオレンジジュースね」
言って、志保が2Lのペットボトルと紙コップをドンッとレジャーシートの上に置いた。
「俺もお菓子を持って来た」
「なに系?」
「チョコ系」
「良かった、被ってない。私、しょっぱい系のお菓子を持って来たよ」
亜希もリュックからお菓子を次々に出してレジャーシートの上に広げた。
それらを食べながらする話となると、このメンバーなので、自然と『蒼天の果てで君を待つ』の話になる。
峨鍈が蒼潤に初めて己が抱く野心を明かした時のことを夢に見たのだと亜希が言えば、早苗がうんうんと何度も頷いて、それから、しくしくと泣き真似を始める。
「その後のズッコケ展開があってね。蒼潤ったら、やっぱり伴侶とかじゃなくて、臣下になりたいとか言い出すのよ」
「えー」
「えーでしょ? 本当にもうっ!」
「じゃあ、まだ片想いが続くの? いつまで?」
「あと1年くらい? 峨鍈が蔀城で帷緒に奇襲を受けて、絶体絶命のピンチになるのね。その時、蒼潤は蔀城にはいなくて、近くの野営地にいたの。峨鍈の危機を知って駆け付けて、 危ういところで峨鍈を救うんだけど――それでようやくって感じかなぁ」
「きっとそのピンチがなかったら、もっと長い片思いになったんじゃないかな」
市川がサンドイッチに齧りつきながら付け加えるように言った。
「やばいね、蒼潤」
「やばいのよ、蒼潤。どんだけ愛しているって伝えても、めちゃくちゃ塩対応で、夜にいろいろあるじゃん? ベッドの上でいろいろやってるんだけど、その時に、これって意味あるのか? って聞いちゃうのよ」
キェーッと奇妙な叫び声を上げながら早苗がばんばん地面を叩く。
ぶっちゃけ、と志保が冷ややかな眼差しで早苗をチラ見して言った。
「意味なんかないよね」
「そんなことないよぉ! ちゃんと意味はあるよぉ!」
「いや、ないって。生産性がない」
亜希も志保に同意だったので、片手を顔の前で左右に振って言えば、早苗が絶望したような表情をして声を荒げた。
「うわっ、蒼潤とまるっきり同じこと言った! 蒼潤も、こんなことしても子はできないのに意味があるのか? って峨鍈に言うのよ! ひどくない!?」
「ぜんぜん?」
「もうっ、亜希ったら! 貸した漫画ちゃんと読んでよ。少女漫画いっぱい貸すから」
「BLじゃなくて?」
「BLはもういいの。山は越えたから。これからは亜希に恋愛のドキドキを知って貰えるような少女漫画を貸すの」
早苗が言う『山』とは、蒼潤が峨鍈に無理やり初夜を決行されたことだろうな、と亜希は察する。
たしかに衝撃的だったけれど、即座に夢から覚めたので、大慌てでBL本を読まされるほどのことじゃなかったように思う。
「――ところで、市川は今、何巻を読んでいるんだっけ?」
さっさと話題を変えてしまおうと、亜希は市川に視線を向けた。
【メモ】
瓊倶
字は供甫。四代に渡って三公を輩出した名門瓊家の御曹司。
峨鍈の最大のライバルであるが、幼少期では峨鍈が一方的に彼を嫌っており、
瓊倶は峨鍈のことを弟分だと思っていた。残念な片思い。
梨蓉は初め瓊倶の妾にされるところだった。
峨鍈が略奪したのだが、そのことを瓊倶はとくに気にしていない。弟にくれてやったと思っている。