5.大好きな本の作者は、神に等しい存在
整った眉に、すっと通った鼻筋。彫りの深い顔立ちは雑誌モデルのようだ。
再びポロリと涙が亜希の瞳から零れ落ちて頬を伝う。
男は目を細めて、にこにこと笑みを浮かべながら亜希を見つめている。亜希が男の手を取って握手をしなければ場が収まらない、そんな空気が漂っていた。
亜希の家族はおろおろと、或いは、イライラしながら無言で亜希を急かし、その圧力に負けて亜希は泣きながら男の手を握った。
大きな手だ。すべてを掴み取れそうで羨ましいと亜希は思った。
「……初めまして。亜希です」
ぼそりと、ほとんど独り言のように言うと、男はにっこりと微笑んだ。
「亜希ちゃん。次はゆっくり話そうね。それでは、また伺わせて頂きます。今日は長い時間お邪魔させて頂き、ありがとうございました」
やっと男の視線が亜希から反らされて、同時に手も離される。亜希はホッとして優紀の後ろに隠れるようにリビングの中に逃げ込んだ。そして、手の平で目元を擦るようにして涙を拭う。
亜希と入れ替わるように家族がリビングから廊下に出る。
「こちらこそ、お引き留めして申し訳ない。また是非お会いしたいものです」
父がそう言いながら玄関を下り、扉を開いて最後まで男を見送った。
男が帰った後、亜希はリビングの床に胡坐をかいて座り、母親と姉の双方から散々に小言を聞かされていた。
「部屋から出て来るなって言ったでしょ? ホント恥ずかしいんだから」
「あんな格好で人前に出るなんて、あんたって子は」
「しかも、泣いたし! ほんと信じられない! あんたが泣いたら私とお母さんが悪いみたいじゃん!」
「だって、もうとっくに帰ったかと思っていたんだもん」
最初は申し訳ないと思って聞いていたが、だんだん腹が立ってきて、少しだけ言い返してみた。
「だいたいあの人、誰だよ? 亜希ちゃんだなんて馴れ馴れしくて、ぞわっとしちゃった。どこの誰で、いったい何をしにうちに来たわけ?」
「……日岡隆哉」
ボソリと呟くように妹の美貴が言い放つ。
この妹は、亜希より二つ年下なのだが、騒々しい姉が二人もいるせいで滅多に口を開かなければ、表情の変化も乏しい女の子に育ってしまった。
ずっと人形のように黙っていた妹が突然口を開いたので、亜希も優紀も母でさえ、虚を衝かれたようになって美貴に振り向く。
「え? 何? だれ?」
「その人の名前……。日岡隆哉っていうの」
「美貴、目上の人を呼び捨てにしないの!」
我に返った母親が素早く美貴に注意を入れる。
「――で? その人、何しに来たの?」
この問いには、客を招いた父親の方に振り返りながら尋ねた。
ところが、答えたのは父親ではなく姉だった。
「なんかね、お父さんの研究の話を聞きに来たんだって。ずっと、ひたすらお父さんの話を聞いていたわよ」
ね? と確認の意を込めて優紀も父親に振り向く。
「研究の話?」
亜希の父は、歴史家というものをやっている。大学で学生たちに向けて講義も行っているので、世間体の肩書きは『大学教授』である。
そんな父の研究の話と言えば、歴史の話なのだろう。そんな話が目的でわざわざ我が家までやって来るなんて、亜希からしてみれば、奇妙で仕方がない。
もっと別の目的があったのではないかと疑ってしまう。例えば、詐欺とか、詐欺とか、詐欺とか。
亜希以外の家族全員が、あの男に絆されているように感じて、亜希はもっと詳しく男について尋ねるべきだと感じた。
「父さんの専門って、中国史だよね。特に三国志あたりを研究しているんだよね?」
「えっ。亜希って、三国志を知ってたの!?」
「ええっ!? バカにしてる? 知ってるよ。うちにこれだけ三国志グッズがあれば、知らない方がおかしいって。それに今、三国志っぽいものを読んでいるもん」
信じられないという顔をする家族一同を見回し、早苗からお薦めされて読み始めた『蒼天の果てで君を待つ』という本のことを話した。
ちなみに、三国志グッズとは父親が集めた三国志の漫画や、その漫画に登場する英雄のフィギュア、さらにそれを可愛くデフォルメしたぬいぐるみとかである。それらが父親の部屋を中心に家のあちらこちらに点在している。
優紀が尚も疑わしそうな表情を浮かべながら亜希に尋ねてきた。
「その本、本当に読んだの?」
「読んだよ。1巻の100ページくらいまで。今日かなり進んだ」
「少なっ‼」
「えっ。結構読んだよ! ――でも、この本どのへんが三国志っぽいのか、よく分からないんだよね。早苗がそう言うから、そうなんだろうなぁって感じなんだけど」
「やっぱり読んでないでしょ。挿絵を見ているだけじゃないの?」
「挿絵なんて1枚もないから!」
「じゃあさ、なんでその本の作者を知らないの?」
「へ?」
亜希は面食らったように口を閉ざした。だって、作者なんていちいち気にしながら読むもの?
そりゃあ、すごく気に入った本だったら、誰が書いたのかなぁ、と気になったりするかもしれない。そして、その作者が書いた別の本を読みたいなと思って探してみるかもしれない。
だけど、たぶん亜希はそこまでその本に思い入れを持てていない。
亜希が首を横に振ると、美貴がぱっちりと大きい瞳を瞬かせて言った。
「――その本、日岡さんが書いたんだよ」
母親に言われて『さん』付けをすることにした美貴の言葉を聞いて亜希は、こてんと首を傾げた。
「日岡さん?」
一瞬。誰だっけ? と思ったが、すぐに思い出す。さっきの父の客だ!
「えぇーっ!? うそでしょっ! そんなことある!?」
亜希は思わず大声で叫んで、それから、体を大きく仰け反らせた。
▽▼
「どうして! なんで! もったいない‼」
珍しく声を荒げたのは、早苗だった。
ぐっと両手で拳を握り、全身の力を込めてその拳を上下に振っている。
「サインくらい貰えば良かったのにぃ!」
月曜の朝である。日曜日に起きた出来事を話して聞かせれば、とたん、早苗は喚いた。
そんな彼女は3巻を読み終え、今日の放課後に4巻を借りるのだと言っている。
亜希の方もそろそろ1巻が半分くらい読み終わりそうだ。あの後、昼間に寝過ぎたせいで夜に眠れず、読んでいたら眠くなるかもと、せっせと頑張って読み進めたからだ。
しかも、この本を読んでいると、母が『勉強しろ』と言って来ないから大変ありがたい。
いつものように『勉強しろ』と言いかけても、本を読んでいる姿を見せると『あら、日岡さんの本を読んでいたのね。それなら仕方ないわ』と亜希の部屋を出て行ってくれたのだ。しめしめである。
亜希は早苗の口からサインと聞くと、日岡のことを思い出して眉を顰めた。
「なんかさ、変な人だったよ。めちゃくちゃ馴れ馴れしいし。初めましてって、握手する人と初めて出会った」
「べつにいいんじゃないの? 初めましてって握手しても」
志保が口を挟む。何が変なのか分からないと怪訝な顔をするので、亜希は言った。
「だって、気障っぽくない?」
「そんなことないよぉ。それに気障でもいいよぉ。いいなぁ、話したなんて。どんな顔してた? かっこいい? ねぇ、今度いつ会うの? 私も会いたいなぁ。次に会う時、絶対に連絡してね。駆け付けるからっ!」
早苗にとって大好きな本の作者は神に等しい存在らしい。指を組み、キラキラした大きな瞳で亜希を圧倒してくる。
「駆け付けるって言ったって、早苗の家ちょっと距離があるじゃん」
「自転車、飛ばす!」
亜希と志保の家は是政だが、早苗だけ清水が丘に家がある。その距離は、徒歩で30分、自転車を飛ばして10分くらいだ。
運動が苦手で、反射神経も鈍い早苗が自転車を飛ばしてくる姿を想像して、亜希はゾッとした。
途中にかなり急な坂もあるし、自動車の通りが多い大きな道路もある。
「絶対に連絡しない。危ないから」
ぷるぷると震えるようにして首を左右に振ると、早苗が、ひどい! と拳を上下に振って大声を上げた。
そして、その日は早苗が何度もしつこく日岡について尋ねて来る度に、適当な返事で交わして一日が終わった。
正直なことを言えば、一日に何度も日岡のことを思い出したくはなかった。日岡のことを思い出すと、彼の前で泣いてしまったことを思い出すからだ。
なぜ自分は、あの時、泣いてしまったのだろう。
初めましての握手が気障だとか言う以前に、初対面の相手を前にして泣いてしまう自分の方が相当ヤバくて、日岡を前にして泣いたなんて口が裂けても志保と早苗には言えなかった。
(泣く要素なんてなかったんだけどなぁ)
母や姉にガミガミ言われるのは日常的なことだ。あの程度で泣くなんてあり得ない。
だから、あの涙は悲しいとか悔しいとか、そういった感情で溢れ出てきた涙ではないと思うのだ。
――では、いったい何だったのか?
そんなこと亜希にだって分からない。よく分からないが、ボタボタと涙が零れ落ちてしまったのは事実だ。
帰りのホームルームが終わり、担任が教室を出て行く。
放課後に早苗と図書室に行く約束をしていたので、彼女を呼ぼうとしたのだが、その前に別の所から自分の名前が呼ばれ、亜希は怪訝な顔で振り返った。
すると、教室の後ろの扉を開け放ち、姉の優紀が仁王立ちしている姿が目に入る。
「姉ちゃん!?」
手招きで亜希を呼んでいるその姿が途轍もなく恐ろしく思えて、亜希は一歩退く。
嫌な予感しかしない。
【メモ】
蒔井 志保
亜希の友人。小学校からの付き合い。12歳。中1。
長身で、髪型はショートカット。少々きつく見える顔立ち。
少年のような雰囲気を纏った凛とした少女。スポーツ万能。学習面ではどの科目も卒なくこなせるタイプ。
基本、単独行動が好きなタイプなので、常に亜希にべったりな早苗とは違って行動を共にしていない時もある。
亜希の姉が怒っている姿を見ると、なぜか動悸が起こる。なんだかんだ言っても、亜希のことが放っておけない。
是政駅のすぐ目の前のマンションに住んでいる。