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58.ただ愛されていればいい


 夫を戦で亡くし、幼い息子も病で亡くしている呂姥にとって、蒼潤は主であると同時に我が子同然の存在だ。

 蒼潤にとっても、生母よりも長い時を共に過ごしている姥たちは母親のような存在だ。

 乳母である徐姥はもちろん、どんな時も味方でいてくれる呂姥、文字を始め、書物の知識を教えてくれた久姥。3人とも育ての母なのである。

 そんな彼女たちの前で自分はなんて酷いことを言ってしまったのだろう。蒼潤は後悔に胸が苛まれ、ううっと嗚咽を漏らした。


「……でも……っ。……うっ……でもっ、……これから、どう、したら……」


 どうしたらいいのか分からない。

 どうやって生きていきていけばいいのだろう。


 その時だ。

 芳華が、すぅっと息を強く吸い込んで床に膝を着くと、牀榻の上の蒼潤の手をぎゅっと掴んだ。


「天連様は、ただ愛されていればいいと思いますっ!」

「……はぁ?」

「だって、生まれてからずっと命を狙われてて、ずっとずっと大変な目にあってきたじゃないですか。騙されたり、利用されたりして、自尊心はもうボロボロです」

「こら、春蘭しゅんらん。黙りなさい」

「だからっ!」


 母親である徐姥に諫められても芳華は黙らず、さらに大きな声を出して思いの丈をぶつけてくる。


「天連様は、これからはいっぱい愛されて、護って貰ったらいいんです!」


 芳華が瞳を潤ませながらギュッと唇を結ぶと、臥室の中は、しんと静まり返った。

 蒼潤は俯いて、自分の手を握り締める芳華の温かい手を見下ろす。背中には、それを支えてくれる呂姥の腕の温かさがあって、不安げに、そして、心配そうな玖姥の眼差しを感じた。


「……すまないが、少し休みたい」


 ひとりになりたいと言うと、徐姥が首を横に振った。


「その前に体を清めてください。布団も新しいものにえましょう」


 蒼潤が頷くと、すぐに久姥が湯を取りに走り、呂姥の手を借りながら蒼潤が牀榻を降りると、徐姥と芳華が布団を取り換える。

 臥室に大きな桶を運んで、その中に湯を溜めて蒼潤は沐浴した。

 新しいはだぎの袖に腕を通し、綺麗な布団の中に潜り込むと、さっぱりとした気分になってすぐに眠気が襲いかかってくる。

 芳華と姥たちが、そっと物音を立てないように臥室を出て行く気配を感じたのを最後に、蒼潤は意識を手放した。


 深い眠りの中、自分に触れてくる手があって、おそらく声を聞いた。

 瞼が重く、目を開けることさえ叶わなかったが、うーん、と何か唸るように答えたような気がする。


 衣擦れの音と、ギシリと牀榻が軋む音が聞こえ、自分を包んでいた温もりが離れていくのを感じた。

 ふっと瞼を開くと、臥室を出て行く峨鍈の背中がぼんやりと見えた。

 遠ざかっていく足音を聞いて蒼潤は上体をゆっくりと起こす。ぐっすりと眠った覚えがあるのに、辺りを見渡せば、へやの中は明るかった。


(たくさん寝たと思ったんだけど、それほど時間は経っていないのか?)


 牀榻から足を下ろして立ち上がると、眠る前よりは体の痛みが減っていると気付く。これなら動けそうだ。

 帘幕カーテンをくぐって臥室を出ると、次の間で芳華が控えていた。芳華は蒼潤の姿を見るなり、瞳を大きく見開いて声を上げる。


「天連様! 起きて大丈夫なのですか!?」

「春蘭、声が大きい」

「申し訳ございません。でもっ」

「水が飲みたい」


 何か言いたげな芳華の顔の前に片手を掲げると、芳華はぐっと唇を結んで、蒼潤に水を注いだ器を差し出した。


「丸1日、お目覚めにならなかったのです」

「なんだって?」

「ですから、昨日の朝、沐浴した後にお眠りになったじゃないですか。それから、ずっと眠っていらしたんです」

「どうりで、腹が減っていると思った」

「すぐにご用意します!」


 芳華はぴょんっと跳ねるようにへやの入口に向かうと、回廊に飛び出してくりやに向かって大慌てで駆けて行った。

 いすに腰を下ろすと、蒼潤は両足をぶらぶらさせて芳華が戻って来るのを待つ。

 眠り過ぎた頭を重く、考え事をするには鈍くなりすぎていた。なので、蒼潤は頭の中を空っぽにして、ぼんやりと室の外で囀る鳥の声に耳を澄ませていた。


 しばらくして、芳華が両手に膳を抱えた徐姥と共に室に戻ってきた。

 徐姥は膳を榻の上に乗せて、あつものの入った器を蒼潤に差し出す。


「温かいうちにお召し上がりください」

「うん」


 さっそく汁を啜ると、熱が喉の奥へと流れていき、胸の辺りがホッと温まる。

 和らいだ蒼潤の表情を見て、徐姥は静かに言葉を放った。


「少しだけお話をしてもよろしいでしょうか?」

「うん、何?」

「昨日、殿は皇城に参内なされて、陛下の前で杜圻とぎんの一派を断罪なさったそうです」


 杜圻と聞いて蒼潤はさっと表情を曇らせ、体を強張らせる。


「――それで?」

「杜圻は深江郡王を担ぎ上げ、陛下に対する謀叛を企てた罪で、爵位と財産を没収の上、斬首と決まりました」

「……」

「そして、朝廷で問題視されたのは、深江郡王の関与です」


 うん、と蒼潤はぎこちなく頷く。

 深江郡王の承諾なく、杜圻たちが深江郡王を担ぐわけがない。当然、関与しているだろうと誰もが思う。


「俺も斬首か、或いは、父上のように帝都を追放されるのだろうか」

「いいえ、天連様。殿が朝廷で宣言なさってくださったそうです。深江郡王はご自分の伴侶である故、謀叛に関与しているはずがない、と」

「な……っ」


 皇帝はもちろん、大勢の官吏たちが立ち並んだ場で、そんなことを公言したのかと、蒼潤は愕然とする。

 さぞかし、場が騒然となったことだろう。想像するだけで、ゾッとした。


「あいつ、馬鹿なのか? 男を妻のように扱っていると公言したというのか」

「伴侶です、天連様」


 ぐっと拳を握って芳華が真剣な表情を蒼潤に向けてくる。


「殿は天連様を妻とはおっしゃらなかったそうです」

「じゃあ、なんだ! あいつが妻だっていうのか?」


 それはそれでゾッとするようなことを口走ってしまい、蒼潤は苦々しく顔を顰めた。

 どちらにせよ、世間の者たちは『伴侶』も『妻』も同じものとして捉えるだろう。そして、峨鍈は男を妻にしている頭のおかしいやつだと嗤われるのだ。

 宦官の孫が男色に走ったと蔑まれるに違いない。


「あいつ、馬鹿だな」


 蒼潤は吐き捨てるように言った。


「しかし、天連様。殿のおかげで天連様は罪に問われません。郡王と認められながら、今までと同じ暮らしを送れるのです」


 果たして今までと同じ暮らしが自分にとって本当に幸せなのかどうかは、まだよく分からなかった。

 食事を終えると、蒼潤は甄燕を呼んで共に塀を越える。

 西跨院の門はどうせ外からかんぬきが差されている。甄燕の話によると、門の前に見張りが立っていて、甄燕が中に入る時だけ門を開けてくれたのだという。

 邸の塀を越えた二人は、甄燕の配下の者が待つ場所に急いだ。甄燕は蒼潤に呼び付けられてすぐに配下に、邸の厩から馬を連れ出してくるようにと命じていたのだ。


「天狼!」


 蒼潤は自分の愛馬の姿を見つけると、両腕を上げて笑顔を溢れさせた。


「お前は本当に良い子だ。大好きだぞ」


 天狼の長い首を両腕で抱き締めて、黒々とした毛並みを撫でる。

 そうして天狼の背に跨ると、同じように自分の馬に騎乗した甄燕と共に葵陽きようの外郭門を出た。

 甄燕と2人、ずっと南に向かって馬を走らせる。しばらく埃っぽい砂地が続いていたが、やがて草地が増えてきた。

 更にひたすら駆け続けると、互斡国を思い出すような草原に行き着く。

 見渡す限りの蒼。澄み渡った空が蒼潤の視界に延々と広がっていた。薄く流れた雲は、白い鳥が翼を広げたように風にたなびいている。

 蒼い空の下に広がる青々とした草原を見渡して、蒼潤は天狼の足を止め、その背から降りた。


安琦あんき、天狼の手綱を頼む」


 しばらく独りになりたいと言うと、甄燕は自分の馬に跨ったまま天狼の手綱を曳いて、馬たちをゆっくりと歩かせて蒼潤から離れていく。 

 蒼潤は草地に仰向けに寝転んだ。

 瞼を閉じると、風が青く茂った草を順繰りに揺らしながら草原を吹き抜けていく音が聞こえる。その風は、蒼潤の黒髪をくしゃりと混ぜて、耳のすぐ横を掠めるように駆け抜けていった。


 さらさらと右に左に大きく揺れ動きながら草花が蒼潤に囁きかけてくる。

 呼び声が響いた。空耳かと思ったが、すぐに馬が駆け寄って来る振動が地面から蒼潤の体に伝わってきて、蒼潤は上体を起こす。

 葵陽の外郭門の方を振り返ると、草原の端の方に小さく姿が見えて、それが次第にこちらに向かって近付いて来ていることに気が付いた。


 ――峨鍈だ。馬を駆けさせてやって来る。


「天連!」


 峨鍈は蒼潤の前で馬の足を止めると、ひらりと馬の背から降りた。


「どうした? 何があった?」


 よほど慌てて来たのか息を乱している。その狼狽えぶりに蒼潤は怪訝顔をして立ち上がった。


「何が?」

「馬から落ちたのか?」

「はぁ? 俺が落馬なんかするかよ」

「ならば、なぜ倒れていたんだ?」

「寝転んでいただけだ。それより、お前はなんでこんなところに?」

「お前がいなくなるからだ」


 蒼潤は、ムッと顔を顰めて峨鍈を見上げる。


「お前、俺を見張らせているだろう」


 そうでなければ、こんなにも早く峨鍈が駆けつけてくるはずがない。

 峨鍈は悪びれる様子もなく頷いた。


「お前に何かあったらと、気が気ではないからな。――馬はどうした?」

「安琦に預けてある」

「なら、俺の馬に乗れ。――帰ろう」


 峨鍈が蒼潤の腕を取って自分の方に引き寄せようとしたので、蒼潤は峨鍈の手を退けて、一歩後ろに下がって彼と距離を取った。

 峨鍈が、さっと顔色を変える。











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