57.持っているもので勝負するしかない
亜希はゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「夢を見始めた頃は、正直、蒼潤の体が羨ましかったよ。馬にも乗れるし」
「そこだよね、亜希の場合」
「うん、馬しか勝たん! でもさ、蒼潤の夢を、まるで蒼潤の人生を追体験するみたいに見ていくうちにさ、蒼潤って、ちっとも自由じゃないなぁって思った」
「自由じゃない?」
「せっかく男に生まれたのに、女の子の格好をさせられて、その上、男に嫁いでさ。思うようには生きていないよね。私は、たぶん、男として生まれていたら、女より自由で、今の自分よりもずっと思い通りに生きられると思っていたんだ。実際、男の子だったら許されることでも、女の子が同じことをやると怒られたり、顔をしかめられたりすることってあるじゃん?」
具体例は、すぐには浮かばないけど、なんとなく女であることによって、損だと思うことがこの世界には溢れているように思うのだ。
そうそう、と亜希は思い出して言った。
「毎月の生理、ほんと嫌だよね。将来、絶対に子供なんか生まないから、子宮を取っちゃってください、って叫びたくなる」
うん、と志保が頷いたのを見て、亜希は続けた。
「よく、容疑者が『誰でもいいから殺ろうと思った』と言うけど、でも、襲うのは自分よりも弱そうに見える女なわけだよ。誰でも良いなら、筋肉ムキムキの男でもいいよね? なのに、なんで男を襲わないのか。本当は誰でもいいわけじゃないんだよ。ちゃんと自分よりも弱い相手を選んでる。そんで、選ばれるのは女で、弱そうな女を狙って襲ってくるんだ。女に生まれたってだけで、弱そうに見えるのも嫌だよね。夜遅くに出歩いてると、『女の子がこんな遅くに』って言われるよね。男だったら、そんなこと言われないのに……。あと、知らないおっさんがいきなりタメ口で話し掛けてくるのも、なんなの? って思うよ。女ってだけで、たぶん下に見てるんだよ」
「亜希は相手に舐められたくないから、女っていうことが嫌なんだね。トランスジェンダーなのかなぁって思ってた時期もあったんだけど、そうじゃないよね?」
「とらんすじぇんだぁー?」
聞き慣れない言葉に首を傾げて聞き返せば、志保は苦笑を浮かべる。
「身体的な性別と自分自身に対する性の認識が違うっていうことなんだけど」
「たぶん、それじゃないと思う。私は私が女だってことをめちゃくちゃよく知っているし、認識しているから。だから、たぶん自分が女だってことが嫌って言うよりも、女ってことで不利益がある社会で、自分が女なのが嫌なんだ」
「へぇ」
「女だってことで舐められたくないし、損したくない。だからって、べつに誰かの優位に立ちたいわけじゃないけど、ただ、女だからダメだって言われない生き方をしたい」
蒼潤もきっと思うままに生きたいと思っていたはずだ。そして、『俺は男だ!』と叫ぶことで、思うままに生きられると信じていた。
ところが、郡王だと認めて貰えても、蒼潤は峨鍈の腕の中から出ることができなかった。
「蒼潤が本当に私の前世だとしたら、私って男でダメだったから、女になったのかなぁ。女に生まれても、やっぱり男が良かったって思うのは、本当は性別なんて関係がなくて、私自身がダメなのかなぁ」
もしくは、蒼潤も亜希も、性別関係なく思うままに生きられない定めなのだろうか。
分からないけど、と前振りをして志保は言う。
「亜希はまだダメっていう段階ではないと思う。これから、いくらでも思うままに生きていけると思う。そのためには、亜希は今の亜希が持っているもので勝負するしかないんだ」
「勝負って……」
「人生の勝負? よく分からないけどさ」
「いや、分かるよ。たぶん……」
蒼潤の『自分らしく生きたい』という願いの象徴は、玉座だった。
幼い頃から玉座が欲しいと一心に願ったのは、男として生きたいという想いの表れであって、きっと彼は玉座そのものに対する執着はさほどないのだと思う。
そして、亜希にとっての玉座は、『もしも男として生まれていたら』の自分だ。
もしも自分が男だったら、今とは違う結果になったかもしれない。もっと自分らしく生きられたかもしれない。もっと祖父に可愛がって貰えたかもしれない。
だけど、もう祖父は亡いし、蒼潤も玉座を手に入れられなかった。
亜希も蒼潤も、手に入れられなかった過去を振り返ってばかりいないで、手に入れられなかった現在をスタート地点として前に進まなければならない。
その先どうやって生きるのかは、まだ定められていないのだから。
だったら、と亜希は思う。
「とりあえず、人生の勝負を始めてみようかな」
「具体的には?」
「馬に乗る仕事をしている人って、なんだと思う?」
質問に唐突すぎる質問を返されて、志保は言葉を失う。だが、すぐに正気に戻って低く唸った。
「競馬騎手とか?」
「だよね。私もそれしか浮かばなかった!」
「なりたいの? ――っていうか、それが人生の勝負?」
「勝負だよ! だって、たぶん普通に生きていたらなれないと思う!」
「たしかに!」
志保は激しく同意してくれる。亜希も志保も身の回りで競馬騎手になった人を知らない。
多くの人がたどるように、中学卒業後は高校に進学して、そのあとは大学に進学して、っていう進路を進んでいては、きっと競馬騎手にはなれないはずだ。
「陸上は完全にやめるわけね。そんで、競馬騎手を目指すわけか。本気なら、どうすればなれるか調べてみなよ」
「笑わないの? 止めたりしないわけ?」
「止める? なんで私が? ――笑わないし、亜希の好きなようにすれば良いと思っているよ」
それに、と志保は微笑んだ。
「亜希は小さい頃から馬が好きだし、蒼潤の時も乗馬が上手い。案外、向いているかも」
うん、と亜希は大きく頷いて、志保に感謝しながら笑顔を浮かべた。
△▼
――体が軋む。
体を動かす度に腰や背中、それから、とても口にはできない場所に痛みが走り、蒼潤は低く呻いた。
隣で寝ていた男が気付いて、蒼潤の背中に大きな手を這わせる。
(ちくしょう!)
布団の上にうつ伏せに横たわった蒼潤は奥歯を嚙みしめて、敷布をぎゅっと握り締めた。
目元がヒリヒリと痛い。
喉がカラカラで、水を飲みたいと床帳の外に視線を向けると、臥室が仄かに明るい光に包まれていた。
(――朝か)
最悪の長い夜がようやく明けたのだと知る。
そして、最悪の余生の始まりだ。
殺してくれと何度も請い、泣きすがったのに、死は与えられず、自分は朝を迎えてしまった。
なぜ生きているのか。何のために生かされているのか、まったく分からなかった。
「潤」
呼び掛けられて、びくりと蒼潤は体を震わせる。そして、ひどく掠れた声で答えた。
「話し掛けるな……っ」
「また泣いているのか?」
敷布に顔を押し付けたまま蒼潤は無言で首を横に振る。
峨鍈の硬い手が蒼潤の頭を優しく撫でた。彼は顔を蒼潤の耳元に近付け、低めた声で甘く囁いた。
「できれば、もう一回したい」
「……っ!?」
ぶちっ、と蒼潤の中で何かが切れる音が響いたような気がした。
ドンッと拳を敷布に叩き付けて声を荒げる。
「できないっ!!」
くくくっと笑い声が頭上で響いて担がれたのだと気付いた。くそっ、と毒づく。
頭を撫でていた手が首筋をたどって肩を撫でる。そして、ぐっと肩を押しやると、蒼潤の体をくるりとひっくり返した。
ぱちっと瞼を大きく開いて、蒼潤は牀榻の天井と峨鍈の顔を見上げる。目と目が合い、彼は淡く微笑んだ。
顔がゆっくりと近付いてきて――避けるには十分な時間があったというのに――蒼潤は大人しく口づけを受ける。
「寝ていろ。あとでまた来る」
言って、峨鍈は牀榻を降りた。昨夜、脱ぎ捨てた褝を床から拾って羽織ると、臥室を出て行く。
取り残された蒼潤は牀榻に仰向けに横たわったまま動けずにいた。
しばらくそうしていると、回廊から足音がぱたぱたと聞こえてくる。聞き慣れたその足音は芳華のものだと気付いて、体を起こそうとしたが、どうにもならなかった。
「天連様!」
臥室に芳華が駆け込んで来る。そして、乱れた牀榻と蒼潤の有様を見て、息を呑んだ。
ああ、と蒼潤はため息をつく。
(そんな顔、させたくなかったな)
だが、昨夜の出来事を芳華や姥たちに隠すことなど不可能だ。芳華に続いて臥室に入って来た徐姥、呂姥、玖姥に順に視線を向けて蒼潤は情けない想いで胸が潰れそうになりながら、ぽつりぽつりと言葉を零した。
「――ごめんっ。俺、負けたんだ」
「天連様……」
「伯旋に勝てなかった。玉座は得られない。………死にたい」
蒼潤の最後のひと言で、さっと臥室の空気が冷え切った。芳華も姥たちも言葉を失って立ち尽くし、牀榻に横たわる蒼潤を見つめる。
最初に我に返ったのは、呂姥だった。
彼女は衣擦れの音を高く響かせると、つかつかと蒼潤に歩み寄り、その肩を掴んで無理やり上体を起こさせる。
「……っ‼」
体が痛みを訴えて、蒼潤は顔を顰めた。
その顔に向かって呂姥は大きく手を振り上げると、ぱしんっと頬を打った。蒼潤は驚愕して呂姥を見上げる。
「天連様、いけません!」
呂姥はボロボロと涙を流して両腕で蒼潤の体を抱き締めた。
「死にたいだなんて、そんなこと口にしてはいけません! 天連様、玉座なんか要りません! 生きてください。どのような姿になられても天連様は天連様です。私の大切な大切な天連様なのです。死んではなりません!」
「呂姥……」
【メモ】※『蒼天の果てで君を待つ』の設定です。
牀…布団を敷けばベッド。布団を退けて長椅子としても使える。
榻…囲いのつい長椅子。
臥牀…寝台
牀榻…床帳と天蓋をそなえた臥牀