55.ぜんぜん大丈夫ではないから!
「お前を殺すつもりはない。そして、お前を手放すつもりもない。お前は塀くらい簡単に乗り越えて邸を抜け出すではないか。今後もそうして抜け出していい。だが、俺はお前を奥に閉じ込めておきたいと思うし、そう思う気持ちをどうすることもできない」
「くそっ、放せ!」
「お前は朝廷に認められて郡王となった。俺もお前を男として扱おう」
「だったら、放せよ! 言っていることと、やっていることが違うんだよ!」
蒼潤は自分の体から峨鍈の腕を引き剝がそうと、その腕を引っ張ったり、足をばたつかせたりして暴れたが、峨鍈の力が強くてびくともしない。やがて息が上がって胸が苦しくなってきた。
蒼潤のその様子を見下して、峨鍈はその細い体を軽々と肩に担ぐ。
「なっ! ふざけんな! 下ろせ‼」
下ろせと言ったとたんに蒼潤は牀榻の布団の上に体を、すとんっと下ろされた。
ぞっとするような嫌な予感が過ぎる。
「お前の望み通り深江郡主との婚姻は無効とする。そして、深江郡王と婚姻を結ぶ。今夜は初夜だ」
「は!?」
さっと血の気が引いた。
蒼潤は峨鍈から逃れるように牀榻の奥へと体を退かせながら、彼を見上げる。
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか? 郡王は郡主ではない。男だ。男は男には嫁がない!」
「お前は例外だ。――潤、塀を越えるのは構わない。邸を抜け出してもいい。だが、俺の腕の中にいろ」
ギシリと臥牀を軋ませて、峨鍈が蒼潤の方に身を乗り出して距離を縮めてくる。
「嫌だ。お前なんか嫌いだ」
「俺はお前が好きだ。――愛してる」
はっと息を呑んだその瞬間、蒼潤は峨鍈に抱き締められる。そして、布団の上に押し倒された。
口いっぱいに溢れるような口付けと、いつものように触れ始めた大きな手。すぐに呼吸が乱れて、蒼潤の体は蒼潤の意思に反して峨鍈に委ね始める。
だが、次第にいつもと違うことに気が付き、戸惑いに瞳を大きく見開いた。
「嫌だ!」
必死に身を捩る。
だが、体重を掛けるように押さえ付けられ、動きを封じられた。 肺を圧迫され、息苦しい。
「くっ。はぁっ」
殴って逃げようとすると、察した峨鍈に大きな片手で両腕を頭の上で一つにまとめられた。
蹴り飛ばしてやろうと、脚を振れば、そのまま膝の裏に手を添えられ、股を開くような格好を強いられる。
「くそっ! 嫌だ! 放せ!」
「潤、暴れるな。酷くしたいわけではない」
「だったら、やめろよ!」
「子供だと思って、随分と待ったのだ。お前が一人前の男だと言うのなら、これ以上待つ道理はない」
「意味がわかんねぇーんだよ! ――痛っ‼」
蒼潤は大きく表情を歪めた。痛みと苦しさに激しく頭を左右に振る。
「お願いだ。許して! いっ、嫌だ‼」
「大丈夫だ。息をゆっくり吐け」
と峨鍈が蒼潤の体を抑え付けながら、その耳元に口を寄せて熱く甘く囁いたが、――大丈夫なわけがない!
(うん、ぜんぜん大丈夫なわけがない!)
ひどい!
本当にひどい! だって、『大丈夫』の解釈違いが過ぎる!
そして、なんでこんな展開になったのか。意味がわからん。
亜希が、ぱちりと瞼を開くと、部屋は朝陽に包まれていた。先に起きていた美貴が大きくカーテンを開いて、おはよう、と声を掛けて来る。
「亜希ちゃん、うなされていたよ。怖い夢を見ていたの?」
「怖い夢っていうか……」
亜希は二段ベッドの上段で体を起こすと、頭を抱え込んだ。
「こんなところで目が覚めるの!? ――っていう夢を見た。ほんとヤバい!」
「うーん。それは目覚めたくなかったってこと?」
「絶対に違う」
「あ、そうなんだ? とりあえず、うなされてたよ。目が覚めて良かったね」
「うん」
亜希は頷いてベッドから降りた。
金曜日の朝である。今日一日登校すると再び土日になってしまうので、今日こそ律子を捕まえて話をしたいところだ。
亜希は寝起きの顔を洗うために、部屋を出て洗面所に向かった。
△▼
朝の教室は、久しぶり、と言い合う声があちらこちらから聞こえてくる。そして、その次の言葉は、何してた? である。
みんな、ゴールデンウィーク中にいろんなところに遊びに行っているようで羨ましい。テーマパークに遊びに行った話や旅行をした話が漏れ聞こえてくる。
亜希は教室に入ると、自分の席にまっすぐに向かって鞄を机の横に掛けてから椅子に座った。
「亜希、おはよう」
すぐに早苗が声を掛けてくる。
「おはよう、早苗」
「――どう? 大丈夫?」
おそるおそる窺うような眼差しで早苗が聞いてきたのは、おそらく夢の話だ。
亜希はいろいろ大丈夫ではない夢の内容を思い出して、うんざりとした表情を浮かべた。
「ぜんぜん大丈夫じゃない。ひどい」
「うん、だよね。だから、そうなると思って、大急ぎでBL漫画を読ませたの。もし亜希が何も知識がない状態だったら、もっと衝撃的だったと思うよ」
「そうかもしれないけどさ。でも、ぶっちゃけ! 部屋が暗すぎて何をされたのかよく分からなかった」
「ええっ!? 嘘でしょ!?」
「痛いっと思ったら、すぐに目が覚めたし」
「そ、そ、そうなんだ。よ、よかったね。――けど、そんなに痛かったの? 目が覚めちゃうくらいに痛いだなんて。てっきり、ずっと以前から慣れさせられているんだと思ってた。だから、もっとすんなり入ったのかなぁ、って」
「え?」
「あっ、ごめん、私の妄想の話だから気にしないで。――って言うかね、そこんとこ、もうちょっと詳しく本に書いてくれたらいいのにーっ!」
両手で拳を握り、もどかしそうにジタバタ暴れだした早苗に唖然としていると、おはよう、と声が掛かった。志保だ。
呆れたような顔をして、亜希と早苗に歩み寄って来る。
「朝イチでするような会話じゃないよね? とくに早苗。自重してください」
「はーい」
志保に向かって両手を上げて神妙な表情で返事をした早苗だったが、亜希には、てへっと笑みを浮かべて、ぺろって舌を出した。
それで、と志保は早苗の頭をコツンと小突きながら言う。
「昼休み、図書室に行くでしょ? 私も一緒に行くね」
「志保は3巻のどのへんまで読んだの? 志保の方が私より読むのが速いから、あの時は、ええーっと思ったけど、水谷さんから全巻渡されて良かったかも……」
「羨ましーい!」
大声を上げたのは早苗だ。日岡の秘書の水谷という美形から『蒼天の果てで君を待つ』の全巻を押し付けられた話をしたら、事あるごとに早苗が羨ましがってくる。
そんなに羨ましがるのなら、早苗に譲ってやりたいが、それにはまず日岡の許可が必要だろう。
日岡が水谷経由で亜希にプレゼントしてくれた物を勝手に早苗にあげてしまったら、さすがにひどいと思う。
亜希よりも早苗の方が『蒼天の果てで君を待つ』のファンで、きっと大切にするだろうからと説明をすれば、日岡の心証を損ねることなく早苗に本を譲れるのではと考えている。
(それには日岡さんと会う必要があるんだけど……)
本当かどうか分からないが、水谷の話によると、日岡は失踪中だという。しかも、そのせいで小説の続きを書けという無茶ぶりもされている。
(書くつもり、まったくないけどねっ!)
つもりも何も、そもそも亜希には小説を書く技量がない。
そんなことを考えているうちに担任が教室にやって来て朝のホームルームが始まった。
午前の授業を淡々とこなし、いよいよ昼休みになると、亜希は早苗と志保と連れ添って図書室に向かった。
図書室のカウンターに律子の姿はなく、亜希と志保は図書委員の少年に本を渡して、返却と――志保は貸し出しの手続きを行う。
早苗は月曜日に7巻を借りており、ゴールデンウィーク中にそれを読み終えてしまい、返却の手続きをしていた。
「もう一回、1巻から読み直そうかなぁ。次は年表を作りながら読もうかなぁ」
「えっ、年表!?」
「葵歴なん年に何が起きたか、その時の天連様の年齢を書いた表があったら、分かりやすくない?」
「分かりやすいと思うけど……」
そこまでやったら、ファンの中のファン。ガチ勢だ。
「うちに、日岡さんが途中まで書いた8巻の原稿があるよ。読みに来る? 貸せないけど、うちで早苗が読む分には構わないと思う。たぶん……」
自信はないが、ガチ勢である早苗が読む分には許してくれるのではないかと思う。
早苗は、ぱぁっと顔を輝かせて大きく頷いた。
「行く! 今日さっそく亜希の家に行ってもいい? ついでにBL本を持って行くねっ!」
「いいけど、BL本はいらない」
ぶるぶると亜希が頭を横に振った時、司書室の扉がガチャリと開いて、中から市川が顔を覗かせた。
「やっぱり藤堂さんたちか。律子さん、中にいるよ」
司書室の扉はカウンターの中にあるため市川が、カウンターにいる図書委員の少年に断って、亜希たちをカウンターの中に入れてくれる。
亜希が司書室に入ると、待っていたかのように律子が微笑みを浮かべて迎えてくれた。
「どうぞ、座って座って」
勧められて亜希たちはそれぞれテーブルを囲むように椅子に座り、律子に視線を注ぐ。
律子は少し困ったように眉を下げた。
「何から話したらいいのかしらね」
「律子さん、夢で会いましたよね?」
亜希が問うと、律子は、ええ、と頷いた。
「律子さんが梨蓉で、城戸さんが夏銚だった」
「彬さんのことも分かったのね」
彬とは、城戸の下の名前だ。亜希は瞳を大きくして律子を見やる。