53.深江郡王
「深江郡主を改めて、深江郡王に封じる」
それは蒼潤が長く長く望んでいた言葉だった。これでようやく蒼潤は男だと認めて貰えたことになる。
嬉しさに胸を突かれて言葉を失っていた蒼潤だったが、すぐに我に返り深く拱手して答えた。
「有難く存じます」
深江郡王、と蒼絃が朗らかに蒼潤を呼んで、続けて言う。
「朕には兄弟も子もない。貴方という家族を得られて嬉しく思う。どうか今後は度々、顔を見せに来て欲しい」
「承りました」
にこっと笑みを浮かべて蒼潤は蒼絃を見上げた。そして、ちらりと杜圻に視線を向け、ここまではうまく事が進んでいると互いに目配せを交わす。
閉朝となり、官吏たちが朝殿から退室していく中、蒼潤は峨鍈に捕まらないように人混みに紛れて先に朝殿を出た。
峨鍈邸に戻るつもりはない。杜圻が用意してくれた邸に杜圻の護衛と共に移動した。
邸の周りを、杜圻が信用できる人物だと紹介してくれた岳協という者が千の兵を率いて守ってくれているので、蒼潤はその邸の門をくぐって、ようやく息がつけた心地がした。
「天連様!」
芳詔が駆けて来て、飛びついて来る。その体を受け止めて、芳詔の後ろから駆け寄って来た姥たちに目を細めた。
蒼潤が大切に想う者たちは皆、無事に峨鍈邸を抜け出せたようだ。
甄燕が蒼潤の兵を率いて邸の警備にあたっている。互斡国からずっと共にしてきた兵たちは、蒼潤が深江郡主ではなく、深江郡王であったことに驚愕したが、すぐに受け入れて歓喜に沸き立っていた。
郡主の兵ではなく、今後は郡王の兵なのだ。後々は皇帝に即位されるかもしれない、そんな風に囁き合い、宴のような盛り上がりである。
――そう。ここまではすべてがうまく運んでいて、蒼潤自身も浮き立つ思いだったのだ。
△▼
日暮れから降り始めた雨が、激しさを増して降り続いているようだった。
その音で蒼潤は目を覚まし、ぼんやりとする意識の中で、雨音に紛れた衣擦れの音を拾った。
姥の誰かだろうかと思ったが、甘い香りが漂ってきて、それが嗅ぎ慣れぬ香だと気付く。
(誰だ?)
男が使う香ではないので、女であることには間違いないようだ。
こんな夜更けにいったい何者だろうかと蒼潤は上体を起こして、足を牀牀から足を降ろした。
衣擦れの音と足音が蒼潤の私室の中まで入ってくる。
「誰だ?」
静かに声を放つと、女が片手に燭台を掲げて、蜜蝋の甘い香りと共に臥室に現れた。
蒼潤は橙色の炎に照らされた女の顔を見て息を呑む。現れたのは、苓姚だった。
彼女は芳華たちと共に峨鍈邸を抜け出しており、彼女の父親から出された条件を果たすために蒼潤は同じ邸に彼女の室を用意していた。
「こんな夜更けにどうされたのですか?」
「雨音が恐ろしくて」
「人を呼べばいい。侍女も一緒に連れてきたのでしょう?」
「……」
黙ってしまった彼女を見て、雨音が恐ろしいなど嘘だと分かった。
恐ろしい中、ここまで忍んで来られるわけがない。
――では、いったい、なんのために彼女は蒼潤の臥室にやって来たのだろうか。
その答えはすぐに出た。
「父親に何か言われたのか?」
押し黙ったその様子に肯定なのだと蒼潤は察する。
「ご自分の室に戻られよ。このようなことをなさって良いはずがない」
苓姚は頭を左右に振って、牀榻の下に跪いて蒼潤の足にしがみ付いた。
「今夜、私を郡王様の妃にしてください。どうかお願いします。父との約束を守って頂きたいのです」
苓姚の父親とは、彼女を側妃に迎える約束をしている。
もちろん杜圻との約束は守るつもりであったし、苓姚が峨鍈に側室として嫁いでいても、彼女が生娘であることは知っていた。
なので、特に抵抗もなく、いずれその時がくると漠然と思っていたが、それを急に今夜だと言われて蒼潤は戸惑う。
「今夜でなくとも。きちんと貴女をお迎えして、それからでも……」
「いいえ、今夜でなくてはなりません。今夜でなくては」
なぜ頑なに言うのだろうかと眉根を寄せたが、すぐに気付いた。明日になれば、冰睡郡主を連れた寧山郡王が帝都に入るからだ。
冰睡郡主が帝都にやって来た後に、蒼潤は彼女を正妃に迎えることになっていた。その前に苓姚は蒼潤からの寵を得たいと考えているのだろう。
「郡王様、どうか私の父との約束を守ってください」
同じ言葉を繰り返した苓姚に蒼潤は手を差し伸べて、彼女を立たせた。
杜圻の功績は大きい。彼がいなければ、蒼潤は何も成せず、郡王だと認められることもなかっただろう。
その恩に報いたいという気持ちに圧されて、蒼潤は苓姚を牀牀に座らせた。
「初めてお会いした時から、お慕い申し上げておりました。貴方が郡主ではなく、郡王だと知って、どれほど嬉しく思ったことか……。そして、同時に胸が裂ける想いでした。幾夜も枕を涙で濡らし、郡王様のことを想ったことでしょう」
「……」
「郡王様は、私がお嫌いですか?」
蒼潤は答えることができなかった。苓姚が臥室まで運んできて床に置いた燭台の炎が、チラチラと揺らめいて苓姚の顔を照らしている。
嫌いだと思うほど蒼潤は苓姚を知らない。顔立ちは美しく整っていて好ましく思うけれど、ただそれだけで、それ以上に思うことはなかった。
だけど、約束は約束だ。
果たすべき務めだと思って、蒼潤は苓姚の腕を引いてその体を抱き締めた。
(柔らかい……)
苓姚も蒼潤の背に腕を回してくる。そして、そのまま蒼潤は体を強張らせた。
(ど、どうしたら……)
おそらく峨鍈が蒼潤に触れてくるようにすればいいのだ。まず頬に触れて、耳をくすぐって、露わになった首筋に顔を埋めればいい。
峨鍈にされていることを思い出しながら蒼潤は苓姚に触れていった。
あの大きくて骨張った手が、蒼潤の肩から背中を撫でたように、蒼潤は岺姚の肩から背中に手を滑らせ、撫でる。
それから、脇腹をなぞって胸に手を這わせて――。
瞼を閉ざすと、彼の熱を帯びた顔を思い出す。薄闇の中で彼はいつも、潤、と蒼潤を呼んで頭を撫でてくれた。
そうして頬を寄せ合ったら、その次は顎を取られて口付けをされるのだ。
彼の口付けを思い出して蒼潤は、かぁっと顔を赤くする。まるで噛み付くようにされたこともあったし、ゆっくりと舐めるようにされたこともあった。
あの時の彼の吐息を思い出すと、体が熱くなる。
蒼潤の口いっぱいに彼が捩じ込んできた舌の感触を思い出して、あれをまた感じたいと思って、胸が切なくなった。
(――俺は伯旋を切り捨てたんだ。だから、もう二度と、あいつから口づけを受けることはない)
蒼潤は自分がおかれている現状を確認するように瞼を開いた。
そして、岺姚の赤く熟れたような唇を見て、さっと胸が冷え込んでくるのを感じた。
(無理だ)
唇と唇を押し付け合うだけなら、やれるかもしれない。だけど、それさえもやりたいとも思えなかった。
口付けは避けて、再び岺姚の肌に手を滑らせる。あちらこちらを撫で回しながら、蒼潤はどんどん気が滅入ってきた。
(こんなの、何が楽しいんだろう)
ついに蒼潤は手を止めて、岺姚から体を離した。
「郡王様?」
「すまない。気が乗らない」
「郡王様、お願いです」
「無理だ。できない」
「……っ!!」
岺姚の表情が大きく歪む。今にも泣き出しそうなその顔に申し訳なく思ったが、蒼潤にはどうすることもできなかった。
すると、岺姚はキッと目をいからせると、体当たりするように蒼潤を布団の上に押し倒してきた。
(なっ‼)
何をするんだ! と声を荒げて彼女を突き飛ばそうとしたが、蒼潤の両肩を押さえつけ、その体に跨った苓姚の鬼気迫る表情が蜜蝋の炎に照らされて見える。
苓姚は自ら衵服を脱ぐと、腹抱の紐を解いた。ぱらりと落ちた腹抱に覆われていた白い胸が露わになって、蒼潤は息を呑んだ。
苓姚の手が蒼潤の褝の襟元から中に潜り込んできて、胸元を大きく開く。
「やめろっ」
「大丈夫です。私がすべて致します。郡王様は私に身を委ねてください」
嫌だ、やめろ、と繰り返して苓姚の体を自分の上から退けようとしたが、なぜか手にも足にも力が入らず、苓姚の手が蒼潤の体を弄る感覚が生々しく襲ってきた。
(――違う!)
あの大きくて骨ばった手と比べて、蒼潤は不快感に表情を歪める。柔らかい手、細い指が蒼潤の体に触れて、まるで虫が這うような不快感と恐れを蒼潤に抱かせた。
苓姚の顔がゆっくりと近付いて来て、赤い唇が蒼潤の唇に押し当てられた。ぺろっと生暖かい舌で、ぎゅっと閉じた唇を舐められて蒼潤は体を強張らせる。
苓姚の手が蒼潤の太腿に伸び、目的を持って弄り始めた時、俄かに室の外が騒がしくなった。
雨音を打ち消すように、門を打ち壊したような大きな物音と足音が幾重にも響いて聞こえ、その足音が次第にこちらに向かってくる。
異様な雰囲気が蒼潤の臥室にまで襲って来て、苓姚は蒼潤の体の上で身動きを止めた。
ドタドタと回廊を足早に進む音が邸の奥まで迫ってきて、躊躇することなく蒼潤の私室の中に入って来る。
そして、帘幕を払って男が臥室に姿を現した。
雷が光って、臥室の中が一瞬だけ明るくなると、蒼潤は、はっと息を呑んだ。
「……は、はくせん…」
さっと体が冷えて震え出す。その熱を補おうとするかのように、胸が早鐘を打ち始めた。