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49.紙には『杜』の一字だけ

 

「会ってどうする?」

「話をする」

「話だと? いったい何の話だ?」

「他愛もない話だ。従弟なら誰でもするような。ああ、そうだ。お互いの苦労話とかするかもな」


 暗い笑みを浮かべる蒼潤を峨鍈は探るような目つきで見つめてくる。


「一度でいい。会わせてくれたら、お前のこと、きっと好きになるよ」


 心にもないことを言って、それに耐えきれず、つと視線を逸らした。

 嘘つきは、蒼潤も同じだ。


(一度でいい。蒼絃にさえ会えれば、お前とはもう終わりだ!)


 もう二度と女のころもは着ない。

 化粧だってしないし、簪も挿さない。峨鍈を待つ夜なんて二度と来ないし、口づけも受けない。 

 しばらくの間があり、峨鍈が重たく息を吐き出した。


「――良いだろう」


 蒼潤は肩を揺らして峨鍈に振り向く。驚きに大きくなった瞳は、ぴたりと涙を止めている。


「本当に?」

「ただし、蒼姓を名乗ることは許さん。万が一、名を聞かれたら夏昂かこうと答えろ。約束できるのなら、俺の側仕えとして皇城に連れて行ってやろう」

「約束する」


 嘘つきな蒼潤はにっこりと笑みを浮かべて言った。


「いつ連れて行ってくれる?」

「少し待て。明日すぐにというわけにはいかない」

「あまり待てない」


 ようやく笑顔を見せた蒼潤が再び気落ちしたような表情を浮かべたので、峨鍈は焦ったように蒼潤の体を抱き締めてくる。

 顔を寄せられて、口づけされると思って蒼潤はぎゅっと瞼を閉ざした。


 ――きっと、これが最後の口づけだ。


 彼が自分を妻扱いするのも、もうすぐ終わる。そう自分を励まして耐えた。

 口づけを受けながら臥牀しんだいの上に寝かせられ、体の上に覆い被さってきた彼の好きなようにさせる。いつものように触れられて、だけど、それ以上のことはせずに彼は蒼潤の隣に寝転んだ。


「もう眠れ」


 暗闇に響いた声に、うん、と答えて蒼潤は猫のように体を丸めた。

 気持ちが高揚としていてしばらく寝付けなさそうだったが、峨鍈が蒼潤の肩まで掛布を引っ張って、背中を撫でてくれたので、ウトウトとし始める。たくさん泣いた疲れもあったのかもしれない。

 やがて、すうっと沈むように眠りに落ちた。



 △▼



「天連殿、なりません!」


 翌朝、一番に梨蓉が蒼潤の私室に現れて、珍しくきつい言葉で蒼潤を叱った。


「正室が側室の初夜を妨害するなど、あってはならないことです」


 蒼潤は梨蓉の前で正座をして項垂れる。

 そんなつもりはなかったのだ、と喉元まで出掛かったが、昨夜、峨鍈は蒼潤の臥室に留まり、苓姚れいようの初夜を台無しにしてしまったのは事実だ。


「苓姚にお詫びする」

「そうなさってください」


 ぴしゃりと言ってから、梨蓉は眉を下げて表情を和らげた。


「私も悪かったのです。天連殿があまりにも綺麗だったので、殿にもお見せしたいと思って、ついつい話してしまったのですから」


 確かに、と蒼潤は思う。梨蓉が余計な話をしなければ、峨鍈が蒼潤の室を訪れることはなかったのではないかと。

 だが、それは、蒼潤が言うべきことではない。反省していますという顔で蒼潤は黙って俯いていた。


「今夜こそ苓姚さんのへやに行かれるようにと殿を促しますから、天連殿はくれぐれも殿を引き留めてはなりませんよ」

「引き留めません。むしろ、追い払います。誓います」


 指を三本立てて誓うと、梨蓉は苦笑を漏らす。

 その後すぐに嫈霞おうかあつものをつくって持って来てくれて、明雲めいうんは果物を持って蒼潤の私室に現れた。

 そして、少し遅れてやって来た雪怜せつれいは蒼潤ににじり寄って、その耳元で、よくやったわ、と囁くように褒めてくれた。

 まったくそんなつもりはなかったが、側室たちが溜飲を下げた様子に、まあいいかと蒼潤は思う。


 梨蓉たちが東跨院に戻っていき、ひとりになると、蒼潤は文机に向かって絵を一枚描き、玖姥を呼んだ。


「これを姉上に届けて欲しい」

天幸てんこう様にですね」


 天幸とは、蒼彰のあざなだ。

 玖姥は蒼潤が描いた絵を眺め、僅かに首を傾げた。


「こちらは竜胆リンドウでしょうか?」

「うん」


 文字は書かず、ただ竜胆の花の絵だけを描いたが、蒼彰ならば蒼潤の意図を分かってくれるはずだ。

 竜胆には『正義』、そして、『勝利』の意味がある。

 そして、蒼潤はよく好んで竜胆の花の刺繍がされた衣を身に着け、或いは、竜胆の花を模した簪を挿していた。


「承りました。すぐに向かいます」


 蒼潤から受け取った紙を懐にしまうと、玖姥は室を出て行った。

 夕刻になり、蒼彰からの返事が届く。玖姥が持ち帰って来た紙には『杜』の一字だけが書かれていた。


……?)


 はっとして蒼潤はすぐさま私室を飛び出した。

 西跨院の一室に許しも得ずに飛び込むと、室の中で寛いでいた苓姚が驚いて、手にしていた椀を落として中身を零した。

 苓姚の侍女がさっと立ち上がって、床に零れた水を麻布で拭う。苓姚は侍女の仕事が済むのを待って、侍女を室から下がらせた。


「どうぞお座りください」


 苓姚が蒼潤に場所を譲って上座を勧めてきたので、促されるままに蒼潤は室の奥に座った。

 蒼潤は、さっと苓姚の私室に視線を巡らせて調度品に不足がなさそうなのを確認すると、苓姚に視線を戻して尋ねる。


「父親に何と言われて嫁いできた?」


 苓姚の父親は、杜司徒だ。峨鍈が司空なので、ともに官制における最高位にある。

 なので、二人が手を取り合うか、それとも、対立するかは、今後の朝廷を大きく左右する。

 苓姚が峨鍈の側室として嫁ぐことで、一見すると、峨鍈と杜司徒は手を組んだように見えた。当然、蒼潤も二人は手を携えて皇帝である蒼絃そうげんを支えていくのだと思った。

 だが、蒼彰が送ってきた文字は『杜』だ。もしやと蒼潤は苓姚を鋭く見据えた。


「私は……」


 苓姚が、小さな珠を転がすように、言葉を放つ。


「深江郡王様にお仕えせよと、父に命じられて参りました」

「深江……郡王……?」


 蒼潤は、はっと瞳を見開いて、信じられないといった面持ちで苓姚を凝視した。


「お前の父は、姉上と通じているのだな」


 苓姚は答えない。

 その沈黙は肯定を意味しているのだと蒼潤は理解する。


河環かかん郡主様は仰せでした。郡王様がお心を決められたのなら対面は控えるべきだと」

「分かっている」


 だから、蒼彰に竜胆の花の絵を送ったのだ。


「郡主様とのやり取りは、私を通して行ってください。杜家からの文だと申せば、中を改められることはないかと思います。――それと、私の父と会って下さい」


 頷くと、苓姚は腰を上げた。


「長居は無用です。私たちは、殿の寵愛を巡り不仲です。明日、口の堅い侍女ひとりのみに事情を話し、私のもとに寄越してください。郡王様が父と会える手はずを整えておきます」

「――分かった」


 蒼潤は辺りに視線を巡らせてから苓姚の室を出て私室に戻った。

 既に陽が落ちて、室の中は暗い。松明の灯りで夕餉ゆうげを取ると、湯を使って体を清めて臥室に移動した。


「もう休むから下がっていい」


 松明を掲げていた呂姥を下がらせようとした時、徐姥が峨鍈の訪れを告げた。

 蒼潤は思いっきり顔を顰めて、臥室の入口で立ち塞がる。


「なぜ来るんだ?」

「なぜ来ないと思ったんだ?」

「俺は三本の指を立てて、天と地と人に誓ったんだ。今夜はここから先には入れない」 


 梨蓉に言われて苓姚の室を訪れるはずの峨鍈が、いったいなぜ蒼潤の室にやって来たのか、蒼潤には理解できない。


「その誓いは守れそうにないな。今夜もお前のところで休む」


 言うや否や、峨鍈が蒼潤の体をひょいっと担ぎ上げて、つかつかと臥室の奥に移動した。

 牀榻ベッドに体を下ろされて蒼潤は唖然とする。そうして蒼潤が呆けている間にも彼は牀榻を覆う床帳たれまくの中に入ってきて、ギシリと臥牀しんだいきしませながら体を寄せてきた。

 とんっと肩を押されて蒼潤は柔らかな布団の上に仰向けに倒される。

 ふと峨鍈が呂姥に振り返って、片手で払うようにして下がらせると、松明の灯りを失って、室の中はほとんど何も見えないくらいの闇に包まれた。

 再び、ギシリと臥牀が軋む。


「五日後に皇城に連れて行ってやる」

「本当に?」


 暗闇の中で聞こえてきた声に蒼潤は浮き立つ。

 前に手を伸ばして自分の体に覆い被さっている男の肩に触れた。


「絶対だぞ。約束だからな」

「ああ」


 吐息交じりの声を耳元で受け止めて蒼潤が頭を傾けると、晒された首筋に峨鍈が唇を這わせてきて、そういえば、と言う。


「お前の姉君がそう珪林けいりん県令と婚約したぞ」

「……はぁ?」

「やはり聞いていなかったか。婚礼は半年後らしい」

「はあああああああああああああああーっ!? どこのどいつだ、その男!?」


 牀榻の中の空気を一変させて蒼潤は大声を上げた。びっくりし過ぎて、両手で峨鍈の体を突き飛ばして飛び起きる。

 わなわなと体を震わせて、蒼潤は口元に拳を押し当てて言った。


「ど、どういうことだ。お、おれ、なにも聞いてない……っ!」

「お前に話したら邪魔されるとでも思ったのではないのか?」

「邪魔するかどうかは、まずその男に会って、とりあえず剣を交えてからだ」

「確実に邪魔になるな、お前」


 峨鍈が布団の上に横たわり、肘枕をついて呆れたように言いながら、蒼潤の顔を下から見つめてきたので、蒼潤はムッとしながら言った。


「――で、そいつ、誰? 何者なんだ?」

蒼邦そうほう。今は珪林けいりんの県令で、陸成りくせい郡王の末裔だと名乗って人を集め、戦場を渡り歩いている。何度か会ったことがあるが、じつに奇妙な男だ」












【メモ】


そうほう

 字は昊邑こうゆう。後に冏の国を興す。蒼彰の夫。

 陸成郡王の末裔。

 人を惹きつける不思議な魅力を持った男。

 情に厚く、そのことが良い方に向かう時もあるが、良くない事態に陥る原因になることもある。

 魏壬ぎじん莫尚ばくしょうという二人の豪傑と義兄弟の契りを結んでいる。

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