4.日曜日の来客
本の文字を懸命に目で追っていると、突然、けたたましい音が響いて亜希はベッドの上で、びくっと両肩を跳ねさせた。
ドアが大きく開いてズカズカと部屋の中に入ってきたのは、姉の優紀だ。
二つ年上の姉は、髪を背中まで真っ直ぐに伸ばして、心なしかいつもよりオシャレな格好をしていた。
「あれ? まだ寝ていると思っていたのに起きてたの? ――えっ、あんた、そんな分厚い本、読めるの?」
心底驚いたというような声を出して、明らかに亜希をバカにしている。
言い返そうかと思ったが、自分でもこんな分厚い本を最後まで読み切ることができるのか分からなかったので何も言わずにいると、優紀は続けて言い放った。
「あんた、今日一日ずっと部屋にいてね。そのまま寝てていいから」
「えっ。今日、皐月賞!」
日曜日の朝である。――いや、朝というよりも、ほとんど昼である。そして、待ちに待った皐月賞である。
亜希は姉からの思いがけない言葉に、飛び跳ねるように上体を起こして布団の上に座った。
「今、お客さんが来ているの。もし部屋から出るのなら、ちゃんと着替えて、顔を洗って、髪の毛を梳かしてから下に降りて来なさいね。でなければ、その人が帰るまで、ここに籠もっていなさい!」
「えー。競馬場に行けないじゃん」
「行けばいいじゃないの。むしろ、行きなさいよ。ただし、ちゃんと着替えて、顔を洗って、髪の毛を梳かしてからね」
パジャマ姿でボサボサ頭の妹をじろりと睨み付けて優紀が言う。見苦しい妹の姿を来客の目に触れさせたくないのだ。
その気持ちは理解できる。そして、おそらく母も同じ気持ちだろう。姉は母の代弁者として亜希のもとにやって来たのだ。
「お客さんって、姉ちゃんの?」
「ううん。お父さんの」
亜希は怪訝な顔をする。非社交的な父が客を家に連れてくるなど初めてだった。
亜希の表情を読んで、姉も負けじと怪訝な表情を浮かべて言った。
「なんでも、居酒屋で知り合ったとか言うの」
「はあ? 居酒屋? 本当に?」
「なんかね。偶々、隣の席に座って、お酒飲んで、なんとなく話していたら、気が合っちゃったらしいの」
それはずいぶんと父らしくない。父は酒が入ると、まず無口になるタイプだ。酒を飲んで、見知らぬ誰かと話し込むことなど考えられない。
まして、そんな風に知り合った者をひょいひょい自宅に招待するなど、 自分が知っている父らしからぬことだった。
「その人、大丈夫なの? 父さん、騙されてるんじゃない? 口がうまい人って、悪い人が多いじゃん」
「私も最初そう思ったんだけど、お酒が入ってなくても、なんだかお父さんと気が合っているみたいなのよね。楽しそうに話してる」
「ふ~ん。なんの話? まさか保険金?」
まさか、と優紀は苦笑した。
「そういうわけだから、その格好で絶対に部屋から出ちゃダメだからね!」
念を押すように人差し指を突き付けてくる優紀に亜希は、はいはいと適当に首を縦に振って返事をした。
とりあえず姉は満足したらしく、やって来た同様に嵐のごとく去っていく。客が来ているらしいのに、そんなバタバタやっていても良いのだろうか。そう思ったが、怒った姉は面倒臭いので、そんなこと口にはしない。
とにかく自分は部屋から出なければいいのだ。顔を出して、客に挨拶をしろと言われるよりもずっと良い。
今日は皐月賞なので、中山競馬場からの中継を東京競馬場の大きなモニターで見る予定だ。
気合を入れて時間前から競馬場に向かい、他のレースを観戦しながら開始時間を待っているつもりだったが、来客の存在に一気に気怠くなって、午後2時くらいになったら出掛ければいいやと、亜希は枕元に転がしておいた例の本に手を伸ばして続きを読み始めた。
そして、どのくらいの時間が経っただろうか。
ぐわっ‼ と妙な声を上げて亜希はベッドから飛び起きた。いつの間にか眠ってしまったらしい。つくづく、自分は読書に向かない。
ガリガリと頭の後ろを掻いて読んだところを見返してみる。
ちなみに、今日は朝食も昼食も食べ損ねている。だが、寝てばかりいるせいで空腹を感じていないので問題はない。
(ええっと、たしか峨鍈が梨蓉と大恋愛の末に結婚したところまで読んだ気がする)
大恋愛というのは、峨鍈と知り合った時、梨蓉にはすでに決められた相手がいて、しかも、その相手という男は四代に渡って三公を輩出した名門瓊家の御曹司だった。
親の出世のダシに瓊家のお坊ちゃん――瓊倶の妾にされるはずだった梨蓉に、峨鍈はひと目で恋に落ちてしまったらしい。
あらゆる手を尽くし、結果的に瓊倶から彼女を奪い取ったのだが、そのための苦労がつらつらと書かれ、1巻の最初の章が終わる。
ちなみに、三公というのは官制における最高位で、太尉、司徒、司空の3つを指す。
パフッと空気を鳴らせて、亜希は本を閉じた。
この世界ではこんなものなのかもしれないが、峨鍈は13歳で初めての妾を囲い、16歳の時には、すでにその数は7人になっていたらしい。
梨蓉とのことがあったのは、20歳の時だ。北部尉という官職を受けた直後の話である。
はたして彼女は結婚前から存在した妾たちのことを、どう思っていたのだろう? 嫌じゃなかったのだろうか?
一夫一妻制が当たり前の社会で育った亜希には、彼女の気持ちが分からない。
亜希は大きく伸び上がると、ベッドから足を降ろし、カーテンを引き開けた。
窓の外が橙色に染まっている。――ということは、もうすぐ日が落ちて日曜日が終わってしまう。
ほとんど寝て過ごして終わった一日だったなぁと再びカーテンを閉めた。
(――っていうか、皐月賞!)
慌てて時計を見れば、とっくにレースが終わっている時刻だ。
(うわっ、信じられない! 皐月賞、見逃した‼ あんだけ楽しみにしていたのに寝過ごすとか、意味わかんないし! 私のバカっ! ――でも、大丈夫。こういうこともあろうかと予約録画しているから! 私、えらい!)
GⅠレースは競馬場で観戦したとしても家でもテレビ中継を録画するようにしている。もちろんレースを繰り返し見るための録画だが、今日のようにうっかりしてしまった時には、すごく救われる!
さっそく録画した皐月賞を見ようと、亜希は胸を弾ませながら部屋から出た。
ぺた、ぺた、と廊下を裸足で歩く。
姉妹はそれぞれ二階に自室を持っており、亜希の部屋は真ん中に位置していた。左が姉の部屋で、右が妹の部屋だ。――亜希は三姉妹の真ん中である。
階段をゆっくりと降りる。折り返し階段の踊り場まで降りたところで下から声が聞こえて嫌な予感がした。
さらに、ガチャリという不吉な音が響き、声は間近なものとなる。あっと思った時には、既に遅い。
「亜希!?」
驚きの声が上がったが、本気で驚いたのは亜希の方だ。
(しまった! まだいたのか)
亜希は舌打ちをしたい気分だった。
亜希の家の階段は、玄関からすぐの場所にある。玄関の正面にリビングの扉。その扉に向かって立った時の左手に階段がある。
つまり、リビングの扉を開ければ、短い廊下で、階段を下りてきた者と鉢合わせしてしまう構造だ。
「あー」
亜希が気まずく声を漏らすと、見知らぬ男が亜希の姿を見て、目を大きく大きく開いた。そして、そのまま、じーっと亜希を見つめてくる。
外出用のいつもよりオシャレな服を着ている姉や妹とは違って、よれよれパジャマを着ている亜希を、ひでぇ格好だと思って、ドン引きしているに違いない。
そちらが無遠慮に見てくるのなら、亜希だって負けるものかと、男の顔や格好をジロジロと遠慮なく観察してやった。
果たして、いくつくらいだろうか。父親が居酒屋で意気投合したと聞いた時、父親と同じくらいの年齢のおじさんだろうと勝手に想像したが、見たところ、おじさんという年齢ではなさそうだ。
とは言え、学生という見た目でもない。既に社会に出て働いていそうな雰囲気があるので、20代半ばくらいだろうか。
白いTシャツの上に着慣れた感じに紺色のジャケットを羽織っている。シルエットがスッキリとしているベージュ色のパンツは、足が長く見えるし、どことなくオシャレだ。
ちょうど帰るところなのか、小さな革製の鞄を手にしている。彼を見送るために、亜希の家族も総出でリビングから廊下に出ようとしている途中だ。
扉を開いたのは父で、そのすぐ隣に彼、二人の後ろに姉がいて、その顔は亜希を凝視したまま強張っていた。
――言ったのに! あんなに言ったのに!
姉の心の声が聞こえるような気がして、亜希はガリガリと頭を掻いた。梳かしていない髪が絡まって指に引っ掛かる。
「亜希。あんた、そんな格好で……っ」
目を吊り上げた母と、無言で怒る姉。
亜希は逃げてしまおうかと後ろ向きに階段を一段上がった。だが、その時、ぽたりと水滴が亜希の足元に落っこちてきて、体を固くする。
瞳を見開いて母と姉の顔を順に見やると、一瞬前まで怒りを露わにしていた二人は、さっと顔色を変えて驚いた。
「どうしたの!?」
「え…、あ……っ。……わかんない…」
ぼたぼたと次から次に亜希の目から涙が零れ落ちてくる。
「二人の物言いがきつすぎるからだぞ」
母と姉を諫めるように言葉を放ったのは、亜希の父だった。とはいえ、亜希の格好がとても客人に見せられたものではないのは事実なので、亜希の肩を持つようなことも言わない。
父は眉を下げて客人に振り向くと、申し訳なさそうに言った。
「この子が次女の亜希です。お見苦しいところをお見せして申し訳ない」
「いえ……」
男は苦笑を浮かべた。
「お話に聞いていた三姉妹、全員と会えて嬉しいです。――亜希ちゃん……だよね? 部屋から出て来てくれて、ありがとう。会いたかったよ」
亜希は、はっとして男を見やった。男の声にひどく聞き覚えがあったのだ。
どこで聞いた声だろうかと思いを巡らせて、すぐに気付いた。いつも空耳のように亜希を呼ぶ、あの声だ。
(なんで……?)
戸惑う亜希に向かって男は、初めまして、と右手を差し出してきた。握手を求められているのだとすぐに察したが、亜希はその手を一瞥してから、不審げに男の顔を見上げる。
【メモ】
峨旦ー(夏家から養子)峨威ー(子)峨鍈
峨鍈
字は伯旋。『蒼天の果てで君を待つ』の主人公。
宦官の孫。後に『堯』という国を興す。
財力に恵まれた家で不自由なく育ったが、血筋に対して劣等感を持っている。
大恋愛の末に梨蓉を妻にしたが、覇を唱えるために蒼家の血を必要とし、蒼潤を正室に迎える。
整った眉に、鼻筋が通った端正で品のある顔つきをしている。
背丈は特段高くはないが、低いわけではない。174センチ。
家柄に拘らず、能力主義の人材登用を行う。政策は合理的で、また、処罰も家柄関係なく公平に行う。