48.お前なんか嫌いだ!
女たちの格闘の末、完成した作品の出来は、梨蓉に『殿にお見せしたいわ』と言わしめたほどだ。梨蓉を始め、その場にいた側室と彼女たちの侍女全員が満足して各々の私室に戻って行った。
取り残された亜希は、深藍色の裙に白藍色の深衣の上に天色の深衣を重ねた格好で、不貞腐れたように文机に頬杖をついている。
(頭が重い)
なぜなら、髪を頭頂部で大きなお団子をつくり、ぐさぐさと簪を挿しているからだ。
白粉をはたかれ、眉を描かれ、唇には紅を塗られている。目尻にも朱を差し、頬紅をつけた顔を鏡で見せられて、妹の蒼麗に似ていると思った。
しばらくして徐姥に声を掛けらえて、杜司徒の娘が脇門から邸に入ったことを告げられる。
側室も婚礼を挙げるが、婚礼時に正門から邸に入れるのは正室のみだ。
苓姚は侍女をふたりだけ連れて、僅かな嫁荷と共に嫁いできたという。
再び徐姥が蒼潤を呼んだ。急かされるように室の奥に座り、苓姚を迎える支度を整える。
衣擦れの音と共に蒼潤の私室に入って来た苓姚に、蒼潤は目を見張った。
――若い。
おそらく20歳にもなっていないだろう。蒼潤とさほど変わらない年齢に見える。ひどく可憐で、儚げな容姿をしている。
「杜蝉と申します。岺姚とお呼びください」
深々と頭を下げた少女を見やり、蒼潤は、おそらく、と思う。
この少女は峨鍈の好みではないだろう。だから、きっと明雲たちが不安がるようなことにはならないはずだ。
蒼潤の体の中で亜希もどこかホッとしたような想いがして、蒼潤が自分の胸を両手で押さえて首を傾げた。
蒼潤に代わって徐姥が口を開く。
「こちらが第一夫人の深江郡主様です。くれぐれも郡主様に礼を欠くことのないように、お気をつけください」
苓姚が再び頭を下げた。 そして、ゆっくりと顔を上げて蒼潤を見やった。
目が合うと、視線を逸らさぬまま苓姚が瞳を細めて、ふわりと微笑んできた。
その笑みに何か含むものを感じて蒼潤は瞬く。何か言いたいことでもあるのだろうか。
怪訝顔をしていると、後ろに控えていた呂姥が口を開いた。
「苓姚様の室は、西跨院にご用意させて頂きました。ご案内します」
そう言って呂姥が立ち上がり、苓姚に退出を促す。
梨蓉たちが子供たちと共に暮らしている東跨院には室に余分がないとのことで、苓姚は蒼潤が暮らす西跨院の一室に住まわせることになっていた。
蒼潤の秘密を守らなければならないので、可能な限り遠くの室が選ばれたが、秘密を隠さなければならない者が近くにいると思うと、なにやら気が休まらない。
それに、と蒼潤は姥たちや芳華に気が付かれないように、そっとため息を漏らした。
(今夜、伯旋は苓姚の部屋で眠るのだろうか)
初夜なのだ。当然そうするだろう。
東跨院くらい遠ければ、もはや別邸の出来事だと思えるような遠さなので、気にならないものを――。
(ああっ、くそっ!)
蒼潤は床を踏み抜くような勢いで足音を立てて立ち上がる。
(関係ない!)
蒼潤にも、亜希にも、関係がないことだ!
(伯旋が誰と寝ようと、そんなこと、どうでもいい! 第一、今までだって、あいつはいろんな女と寝ていたじゃないか)
遠かったら良くて、近くだからダメっていう話でもないだろう。そう思い、蒼潤は文机の前に座り直して瞼を閉ざした。
不意に蒼彰の言葉を思い出す。
――時は今。
蒼彰の話を聞く限り、可能性は十分にあるように思った。玉座が手に入る。手を伸ばせば届く場所に、今、蒼潤は立っているのだ。
それなのに、どうしてこんなにも躊躇しているのだろうか。
――手を伸ばせ。今がその時だ!
蒼潤は己の手を見下ろす。それを一度大きく開き、力強く握りしめる。
(男として生きたい。せっかく男として生まれたのだから。自分は郡王なのだと広く知ってもらいたい。もう郡主であることも、誰かの妻であることも我慢ならない!)
手に入れる。自分に相応しい場所を。
奪われた場所を奪い返す。男としての人生も。きっと。
「――天連」
気が付くと、すっかり室の中は闇に包まれていた。徐姥だけが室の隅に座っていて、松明を掲げている。
名前を呼ばれたのだということを思い出して、蒼潤は室の入口に視線を向けた。室の外は更に暗い。衝立を避けるように暗闇から室の中に峨鍈が入って来た。
彼は着飾った蒼潤の姿に僅かに瞳を見開く。そして、柔らかく微笑むと、座り込んでいる蒼潤に向かって手を差し伸べた。
「よく見せてくれ」
「……」
蒼潤は峨鍈の手を取って立ち上がると、下から彼の顔を睨め付ける。
「なぜ来たんだ」
「梨蓉から渾身の出来だと聞いたからだ」
ちっ、と蒼潤は舌打ちをした。
葵陽で暮らすようになって以来、蒼潤は長らく峨鍈に放置されていたが、彼は梨蓉や他の側室たちのもとには通っていたらしい。
今夜は新しい側室との初夜なので、まず梨蓉のご機嫌伺いをしてきたのだろう。――まあ、それはいい。
ならば、何が自分の気持ちを逆なでしているのか考えてみるが、うまく頭が回らなかった。
蒼潤は、ぎゅっと下唇を嚙みしめる。
自分が梨蓉たち側室と同じようにご機嫌伺いの対象にされたことが不快だったのか。
それとも、ご機嫌伺いに来るかもしれないと思って、こんな気合の入った格好のまま彼を待っていたように見えることが恥ずかしかったのだろうか。
もちろん、そんなつもりなどなかった。ただ着替えるのを忘れて、ぼーっと物思いにふけっていただけだ。
それなのに、誰がどう見ても、こんな格好をしていたら蒼潤の本当の想いなどとは関係なく、勘違いさせてしまう!
「……っ‼」
悔しさと苦しさと、怒りと、羞恥心が、頭と心の中でぐちゃぐちゃになって、亜希も蒼潤も激しく混乱した。
混乱の中、亜希の意識は蒼潤に完全に呑まれて消える。
蒼潤が、嫌だ、嫌だ、と頭を左右に強く振りながら、両手を頭に伸ばして次々に簪を引き抜き、投げ捨てた。
耳飾りも、腕輪も、指輪も、すべての装飾品を取って投げ捨てると、深衣の襟に大きく左右に開いて脱ぎ捨てた。
「天連!」
おそらくそれは何度目かの呼び掛けだった。ようやく蒼潤の耳に峨鍈の声が届いて、蒼潤は彼を見上げて声を荒げる。
「もうっ、嫌だっ!」
「天連!」
くしゃくしゃになった髪に、衵服姿になった蒼潤の肩を峨鍈の大きな手が掴んで、体を抑え付けてきた。
「どうしたんだ」
「だから、もう嫌だ! お前なんか嫌いだーっ!」
うっ、と蒼潤の紅を差した唇から嗚咽が漏れて、瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
そして、蒼潤は堰が切れたように感情を溢れさせ、わぁーっと泣き出す。
「天連様っ」
室の隅で松明を掲げていた徐姥が慌てたように駆け寄って来ようとしたのを、峨鍈が片手で制した。
「お前は下がっていい」
「しかし……っ」
「下がれ!」
わぁんわぁんと幼子のように泣き続ける蒼潤を心配げに見つめ、徐姥は室に居続けようとしたが、峨鍈が蒼潤の体を軽々と抱き上げて攫うように臥室に移動してしまったため、無力感を抱きつつ徐姥は蒼潤の室を去って行った。
牀榻の上に座らされてもなお、蒼潤はしゃくりあげる。
頬を伝う涙を拭おうと伸びて来る峨鍈の手を何度も払い除けて、自分の手のひらで目元をごしごしと擦るように拭ったが、涙は一向に止まる気配がなかった。
呆れたような、それでいて、心配げな声を響かせて、峨鍈が蒼潤の傍らに座ってしつこく手を伸ばして来る。
「泣くな」
「黙れ。うるさい。どっか行け」
「機嫌が悪いな」
「もう、お前なんか要らない」
――要らないと告げるべきは、お前の方かもしれないが。
峨鍈にとって、蒼絃がいれば、蒼潤は不要だ。
真実はそちらの方が正しい。そう思うと、ううっと嗚咽が蒼潤の唇から漏れた。
「お前なんか嫌いだ!」
――嘘つき。玉座をくれると言ったのに。裏切らないと誓ったのに。
峨鍈は蒼潤に帝位を与えてはくれない。
比翼の鳥だなんて、ただ、その場で調子の良いことを言っただけだ。――それらすべてを理解して、蒼潤は心が引き裂かれるように悲しかった。
泣きすぎて、蒼潤の顔に掛かった髪が濡れて青く色を変えている。
窓から差した月明かりに、その青が輝いて、峨鍈の目を惹き付けていた。
「潤。――俺はお前が好きだ」
もう一度、峨鍈の手が伸びてきて蒼潤の頬に触れてくる。振り払う気力が尽きて、蒼潤は大人しく峨鍈に涙を拭わせた。
「どうすれば泣き止む?」
「……」
「お前を手放したくない」
「……」
「新しい馬を贈ろうか?」
「いらない」
思わず即答した。
馬さえ贈っておけば機嫌が直ると思いやがって、という怒りが胸に沸き起こり、今なら何を言ったとしても彼は自分を許して貰えるのではないだろうかと暗い気持ちが心に影を差す。
蒼潤は涙で潤んだ瞳のまま峨鍈を上目遣いに見やった。
「何だ?」
視線が合い、彼はホッとしたように表情を弛める。
――ああ、間違いない。言うなら、今だ。
そう決意して、蒼潤は口を開いた。
「皇帝に会いたい」
「何だと?」
「従弟に会いたいと言っている」
「従弟だと?」
峨鍈は明らかに顔色を変えた。
ここで怯んではいけないと、蒼潤は睨むように峨鍈を見つめる。
「俺にとっては従弟だ。絃に会いたい」
恐れ多くも皇帝の名を呼んだ蒼潤に峨鍈は表情を険しくした。
【メモ】
蒼潤の下着事情
褝…ひとえ。男装時には、特鼻褌をつけて、袴を穿いて、こちらを着ている。
衵服…足首丈の白い薄衣。女装時には、特鼻褌をつけて、腹抱をつけて、こちらを着ている。特鼻褌をつけていない時もある。