47.うそつき
峨鍈と会えない日々を送っていた蒼潤のもとに、突如、互斡国から蒼彰が蒼麗を伴って訪れた。
聞けば、峨鍈が皇帝に掛け合い、蒼潤たちの父である蒼昏に帰都の許しが出たのだという。
皇帝蒼絃は伯父である蒼昏に対して『太上皇』という本来ならば退位した存命の皇帝に送られる尊号を授ける。
これは呈夙によって兄弟を皆殺しにされた蒼絃の家族を求める思いの表れである。
その勅使が、蒼昏を帝都に迎え入れるために送られた護衛兵たちと共に互斡国にやって来たが、蒼昏は勅旨のみを受け、互斡国に留まった。
蒼昏は今さら帝都で権力闘争に身を投じる気持ちになれなかったのだ。
以後、蒼昏は『斡太上皇』と呼ばれるようになるが、彼が互斡国の外に出ることは二度となかった。
代わりに、蒼昏の娘たちが帝都に出て来た。
蒼彰と蒼麗は峨鍈の手配で帝都――葵陽の比較的治安の良い場所に邸を構えて暮らし始め、その暮らしが落ち着き始めた頃に蒼潤を訪ねたというわけだった。
「もっと早く訪ねて来てくれれば良かったのに」
そう、蒼潤が不満げに言えば、蒼彰は辺りに視線を向け、侍女たちを室から下げさせた。
5年ぶりに対面する姉と妹だ。どちらも蒼潤の記憶よりもずっと大人びた表情をしている。特に妹の蒼麗の美しさときたら、蒼潤でさえ思わず二度見してしまったほどだった。
「潤」
室の中に自分たち三人だけが残ると、蒼彰は声を潜めて言う。
「今が時です」
何の話かと、しばし蒼潤は戸惑ったが、やがて自分が置かれている状況のことだと思い至った。
峨鍈が帝都に入った理由は、天子奉戴のためである。
それを進言したのは孔芍であり、彼は峨鍈に大義名分を握らせたいと考えたのだ。
行動に制約が生じることや、朝廷内の煩わしさを抱えることになるが、皇帝の後見人という立場から得る効果はそれらを差し引いても大きなものであったため、峨鍈は孔芍の進言を受け入れた。
ところが、ここで蒼潤にとって困ったことが起きる。
峨鍈が現皇帝――蒼潤の従弟である蒼絃を懐に入れたということは、峨鍈にとって蒼潤の価値がなくなったということなのである。
そもそも、峨鍈は蒼家の名声を得たくて蒼潤を娶った。郡主を妻にすることで人心を得ようと考えたのである。
それは蒼絃を手に入れれば、より絶大に効果を得られるものだ。 皇帝を擁立した峨鍈にとって、今や蒼潤の存在は意味を為さないものとなってしまった。
(嘘つきめ)
蒼潤は姉妹たちを見送った後、ひとり私室に籠り、文机に向かって座って頬杖をついた。
蒼潤は峨鍈が帝都に構えた邸の西跨院を居所と定め、広々とした敷地をひとりで使っているため、室の内も外も、葉が擦れ合う音さえ聞こえてくるほどに静かだ。
(ほんと、嘘ばっかりだな)
文机の木目を眺めていると、峨鍈に対する苛立ちが募ってくる。
出会った頃から、蒼潤は峨鍈に玉座が欲しいと伝えていた。蒼絃を退けて己が玉座に着こうと考えている、と。
ならば、当然、峨鍈は蒼潤を擁立して帝位に着かせるべきではないかと思うのだ。
蒼絃ではなく、なぜ蒼潤を選ばないのかと憤る。
だが、その一方で、蒼潤は峨鍈の考えを理解することもできた。蒼潤を帝位に着けるためには、まず蒼絃を帝位から追い落とす必要があり、無益にも玉座簒奪の罪を負うことになってしまうからだ。
蒼絃が耐えがたい暗愚であったのなら、玉座簒奪も良いだろう。たとえ罪を負っても、多くの者たちの支持を得ながら帝位に着けるからだ。
ところが、蒼絃は無力ではあったが、愚者ではなかったため、退位を迫る理由がない。
だから、峨鍈は蒼潤を選べなかったのだ。
(だけど、俺は龍だ。蒼絃は龍ではなく、帝位に相応しくない。それが理由ではなぜいけないのだろう)
いけないのだということは、すぐに分かる。
龍の話は、世に広く知られていないことだからだ。
蒼絃は龍ではないと主張したところで、いったい何人が耳を貸すだろうか。せいぜい蒼家の郡王たちが味方になってくれるだけだ。
――今が時。
蒼彰が語気を強めて言った。
峨鍈にとって蒼潤の価値がなくなった今、峨鍈が蒼潤のために動くとは思えない。
だが、ここは帝都。――葵陽である。
蒼潤が郡主ではなく郡王だと認められれば、蒼潤は帝位継承者であり、正当な玉座の主である。
蒼潤のために力を差し出してくる者は大勢いることだろう。
玉座は、蒼潤さえ手を伸ばせば、掴み取れる場所にあるのだ。
しかし、蒼潤が名乗りを上げる時、それは彼との婚姻を白紙に戻す時だ。
場合によっては、彼と袂を分かち、敵対することになるだろう。
――力はある。
蒼彰は言った。
――蒼家の名で人は集まる。ここは帝都なのだから。
たとえ峨鍈を切り捨てても、代わりとなる者はいくらでもいて、たとえ彼と敵対することになっても、十分に戦えるだろうと蒼彰は言った。
(男として生きたい)
ずっと蒼潤が願い続けてきたことだ。
(玉座が欲しい)
郡王となるべく生まれたからには、当然、抱くべき野心だと漠然と思っていた。
しかし、その願いに、その野心に、ようやく手を伸ばせる時が来たというのに、何かが蒼潤の胸の内で疼いて苦しめてくる。
その何かの正体が分からなくて、蒼潤は一歩も動けなくなっていた。
△▼
亜希が蒼潤の私室から出ようとすると、ちょうどその入り口で梨蓉と鉢合わせした。
梨蓉の後ろに嫈霞と明雲、雪怜がいる。
嫈霞は峨鍈の第三夫人で、栄夫人と呼ばれる。
明雲は第四夫人で、怏夫人で、雪怜は第五夫人で、羅夫人だ。
側室が揃って何事だろうかと、亜希はまさに出ようとしていた室に再び戻った。
梨蓉に促されて、室の奥の上座に座る。
梨蓉がその手前に、梨蓉の正面に嫈霞が、梨蓉の隣に明雲が座り、嫈霞の隣には雪怜が座った。
面倒なことに、序列によって座る場所が決まっているのだ。
亜希は彼女たちがそれぞれ連れて来た侍女たちが室の隅で腰を落ち着かせたのを見てから、口を開いた。
「みんな揃って、どうしたんだ?」
「今日はお出掛けになられないように」
近頃、気晴らしに邸の外に出かけることが多かった。
蒼潤の愛馬である天狼に乗り、野を駆け、大門が閉じられてしまうギリギリの時刻にならないと戻らない。天狼の背に乗ることが楽しくて夢中になってしまい、甄燕に怒鳴られるまで駆けるのをやめられないのだ。
馬を駆けさせている時は、すべてを忘れられる。煩わしいことも、苦しくて投げ出したくなるようなことも。
そんな蒼潤の心を抱いて亜希は馬を駆けさせる。
亜希は現実世界で乗馬をしたことがなかったが、蒼潤の体が馬を知っていたため、夢の中限定かもしれないが、亜希もすぐに自在に乗れるようになった。
すぐと俄然、乗馬が楽しい!
まるで自分の体の一部のように馬が亜希を乗せて野を駆けるのだ。その爽快さを一度味わってしまったら、亜希にはもう忘れることができなかった。
この日も鬱々とした気持ちを晴らそうと、天狼に乗ることを考えていた亜希は、梨蓉の言葉に眉を寄せた。
「何かあったのか?」
「これからあるのですよ。――本日、殿の新しい側室が来られます」
「……へぇ」
一瞬、言葉に詰まり、妙に重くどろりとした想いが胸に沸く。
そのことに戸惑いを感じて亜希はそれ以上の言葉が出て来なかった。
「岺姚さんとおっしゃる方だそうですよ」
「杜司徒の御息女ですって」
嫈霞と明雲がどことなく面白くなさそうに言った。
司徒とは、司空や太尉と共に三公の一つである官位だ。そして、杜司徒という人物は、寧山郡王と深い繋がりを持った人物である。
(寧山郡王と越山郡王も帰都を許されて、近々都に戻って来ると聞く。伯旋は郡王の派閥を味方に付けようとしているのか?)
峨鍈の婚姻は――梨蓉を例外として――思惑あってのものだということに、この頃、気が付いた。
もちろん、彼女たちのことはそれなりに気に入っているから、ずっと側室として側に置いているのだが、訪れた場所の有力者が気を利かせて峨鍈に娘を贈ってくることが、とにかく多いのだ。
そういった女たちはとりあえず妾として迎え、それなりに月日が経った後に峨鍈が後ろ盾となって、他所に嫁がせているのだそうだ。
――天連殿に多すぎると言われて、かなりの数を嫁がせたのですよ。
いつだったか、梨蓉にそんなことを言われた覚えがある。
雪怜には現代風に言えば『グッジョブ』的なことを言われ、嫈霞にも明雲にも喜ばれた。
――これからも折を見て、天連様から殿におっしゃってくださいね。
明雲に両手を握られながら言われて、わかったわかった、と適当に返事をしたのを覚えている。
だが、しかし。側室として迎えるとなれば、妾のように容易には他所に嫁がせるわけにはいかないだろう。
「杜司徒の娘なら、なにも好んでジジイの側室にならなくとも、もっと良い嫁ぎ先があるだろうに」
「天連殿」
「ああ、好んで嫁いでくるんじゃないのか。父親の都合で致し方なく、ジジイに嫁いでくるんだな」
こほん、と梨蓉が咳払いをして亜希の口を閉ざさせる。
ちなみに、この梨蓉には律子の意識は入っていないようだ。
「新しい側室はまず正室に挨拶をする習わしがありますので、天連殿、くれぐれもお出掛けになられぬように」
「それから、思いっ切り着飾って下さいね。天連様が正室なのだと知らしめてやりましょう」
言うや否や嫈霞が手を打ち鳴らして侍女を呼ぶ。室の隅で控えていた侍女たちが前に進み出てきて、亜希の前に衣を広げた。
華やかな牡丹の刺繍が綺麗だと思わず見入ってしまったが、これを自分が着るのだろうか。ピンと来ない。
亜希が顔を顰めると、明雲も手を打ち鳴らす。それを合図に、廊下で控えていた侍女たちがわらわらと室に入ってきて、亜希を取り囲んだ。
「ぜひ私にお任せ下さい。岺姚がどのような女であろうと、天連様を見て気後れするようにして差し上げますわ」
化粧道具をずらりと並べて、明雲の目がキラリと輝いたように見えた。はっとして振り返ると、呂姥と玖姥が怖いほどの笑みを浮かべている。
嫈霞に衣を頼んだのは呂姥かもしれない。明雲に化粧を頼んだのは玖姥かもしれない。いや、その逆ということも考えられる。
亜希は後退り、それから両手を上げた。
ぎゃああああああああああーっ! という絶叫が西跨院に響き渡ったのは、そのすぐ後のことだ。
【メモ】
四合院…中庭を『ロ』の字に囲った造りの家。これを基本に、建築を縦に伸ばす「進」、横に並べる「跨」
『ロ→』一進 『日』→二進 『目』→三進 四進、五進もある。
二進四合院からは前庭がつく。前庭までの建物は応接や客室。
中央が母屋で、主人が住む。東の建物には息子が住み、西の建物には主の母親や妻、娘が住む。
帝都の峨鍈邸…南跨院、東跨院、西跨院がある。南跨院の東側は園林《庭園》