44.呪いの書って、どういうこと?
「――で、結局、ガバッとやったわけだ」
露出狂が冬用コートの前を広げるような仕草をして柢恵が言った。もちろん、この柢恵の中身は市川である。
孔芍が峨鍈の執務室に向かったのを見て亜希は孔芍の執務室に足を踏み入れると、柢恵が市川であることを確認し、彼に昨夜の夢の出来事を話した。
「なんかさ、言わずにはいられない気分だったんだよね。俺は男だぁーって」
きっと蒼潤は、峨鍈の妻たちと同列になるのが嫌だったのだ。
俺はお前たちとは違う。俺は男だと言わずにはいられなかった。
「まあ、いいんじゃないかな。小説通りだし。それより――」
亜希は、ぴくりと体を跳ねさせて市川の声に自分の声を重ねる。
「「律子さん!」」
「もう、びっくりしたよ。梨蓉が律子さんだなんて」
「でも、納得したかなぁ。律子さんって、何か知っていそうな雰囲気があったじゃないか。――月曜日の昼休み、司書室に集合な」
「うん、早苗にも伝えておくよ」
市川は文机に両肘をついて体重を文机にかけ、亜希の方に身を乗り出すと、そういえば、と言った。
「日岡さんの従兄には会えたのか?」
「ううん、まだ。明日は会えると思う天皇賞だから。でも、春の天皇賞って、京都競馬場なんだよね」
「なんで連絡先を聞いていないんだよ」
「だって、いつも約束なんかしなくとも会えたんだもん」
「天皇賞が京都競馬場なら、東京競馬場には来ないかもしれないじゃないか」
「あのね、天皇賞の他にもいっぱいレースがあるの。明日の目玉は確かに天皇賞だけど、東京競馬場で1つもレースを行わないわけじゃないんだから、たぶん来るよ。――そんなに心配なら、うちの母さんに連絡して貰う? 母さんは城戸さんの連絡先を知っているから」
「して貰って」
冷ややかな眼差しを亜希に向けながら市川が即答した。
そんな会話をして、孔芍が戻って来る前にと室を出たところで、亜希は急に辺りが暗くなっていくのを感じた。
そして、気が付けば、自分の部屋のベッドの上だった。
すぐに枕元に置いた本を手に取る。
その表紙に書かれた『蒼天の果てで君を待つ』というタイトルを目で追って、それからうつ伏せになって本のページをめくった。
3巻も半分を過ぎた。
昨夜読んだ内容は、蒼潤を含め、彼の妻達が功郁に囚われているところだ。
蒼潤が男子であると功郁に知られることを恐れて、側室たちが力を合わせる。とくに楓莉だ。
彼女は蒼潤の代わりに功郁に身を投げ出した。
峨鍈が『月季』に喩えた女性は、楊夫人と呼ばれる第六夫人だ。
気が強く、プライドも高い彼女が時々見せる瞳の弱さや憂いのある後ろ姿が、蒼潤の胸を鷲掴みにした。
賢い女だった。誰かが犠牲とならねばならぬことを、いち早く理解していた。
彼女は他の側室たちに守られることを許さず、自らが犠牲になることを選んで、皆を守ったのだ。
亜希は静かに本を閉じて枕元に戻すと、 ベッドから起き上がった。
日曜日の朝である。亜希は洗面所で顔をびしょびしょに洗うと、手早く着替えて階段を下りた。
リビングに入ると、家族が驚いた表情を浮かべて亜希を迎える。
「ええっ!? 亜希、朝ごはん食べるの?」
失礼な話である。どうせ昼近くまで起きてこないだろうと思われていて、朝ごはんを用意されていなかった。
「白いご飯だけでも良いので、ください」
日頃の行いが悪さが原因なので下手に出ると、お茶碗に白米を、お椀に味噌汁をよそって貰えた。
「母さん、私もスマホ欲しい」
食卓に着くなり亜希が言うと、久しぶりに顔を合わせた優紀が母より先に口を開いた。
「塾に行くの?」
「優紀は塾に通い始めたからスマホを買ったのよ」
姉の優紀は中3にしてようやくスマホを手に入れた。この分だと、亜希も中3までスマホは買って貰えなさそうである。
しかも、スマホを買う条件として、塾通いがついてくることは間違いない。
「うん、やっぱりいいや。競馬場にいる時に鬼電されても嫌だし」
「お母さん、亜希にGPSと通話機能しかないやつ持たせた方がいいと思う」
「そうね、そうしようかしら」
「なぜだ」
「亜希ちゃん、どんまい」
妹の美貴が憐れみの眼差しを向けてくる。
白米とみそ汁を口の中に掻き込むと、亜希は食卓を立って、食器を台所の流しに運んだ。
「お母さん、城戸さんに連絡してくれない? 今日、競馬場に来てって」
「今日も競馬場に行くの?」
昨日も行ったのに、と不服そうな表情を浮かべる。母としては、もっと勉強を頑張って欲しいのだ。
「パドックを眺めているから、何時になってもいいから来てって伝えて。――それと、姉ちゃん!」
母親がうるさく口を出してきそうな気配を感じて、無理やり話題を変えてしまえと、優紀に振り向いた。
優紀が怪訝そうに片眉を跳ねさせる。
「何よ?」
「高野先輩に陸上部をやめさせたって、ほんと?」
「はぁー!? 何それ? そんなことさせるわけがないじゃないの」
「あれ? 違うんだ?」
「私は続けて欲しかったの。なのに、とし君が勝手にやめちゃったのよ」
「としくん……っ!?」
(だれ!?)
――と思ったが、すぐに高野の下の名前が俊弘だったことを思い出した。
「でも、それならなんで高野先輩は陸上部をやめちゃったの?」
「それが分からないの」
優紀は眉を下げて、どこかしょんぼりとしているように見えた。
この表情を見る限り、姉の言葉に嘘はなさそうであり、彼女はドリームキラ―ではなかったのだ。
亜希は、どこかホッとした心地で姉を見やる。
「姉ちゃん、まったく思い当たることはないの?」
「ちょっと前まで、どうして亜希は陸上部に入らないのかって聞いてきたくらいで、まさか、とし君自身が陸上部をやめちゃうなんて思いもしなかったくらいだったの」
「私の話をしてたってこと?」
「陸上部に入らないで何をしているの? って聞かれたから、亜希は本ばかりを読んでいるわって言ったら、どういう本って聞かれて、日岡さんの小説の話をしたのよ」
へぇ、と答えてから、亜希は、もしかして、と優紀に聞き返す。
「高野先輩、日岡さんの小説を読んだの?」
「さぁ。――亜希が、日岡さんの小説が図書室に置いてあるって言ってたから、一度だけ一緒に図書室に行ったことはあるわ。この本だよ、って教えて、……でも、その時は借りていなかったから、読んでいないと思うけど」
「読んでいない……? そっか、それならいいけど」
「亜希ちゃん、どうかしたの?」
言い淀んだ亜希に美貴が怪訝顔で見上げてくる。
亜希は、なんでもない、と首を横に振った。
「姉ちゃんも、美貴も、絶対に日岡さんの小説は読んじゃだめだからね。あの本は、呪いの書だよ」
いつだったか、城戸が言っていた言葉を思い出して真似して言えば、案の定、優紀も美貴もきょとんとする。
あの時、亜希は冗談だと思って聞き逃してしまったが、城戸は冗談ではなく、本当にそう思ってその言葉を口にしたのではないだろうか。
(呪いの書)
きっと、きっかけは日岡さんのあの本にあるのだ。
それを確かめるために亜希は自転車に乗ると、競馬場へと走った。
駐輪場に自転車をとめて東門から中に入ると、まっすぐパドックに向かう。
時刻は、午前10時を過ぎた頃だ。
最初のレースが始まって、スタンドから歓声が上がっていた。
いつもなら城戸がやって来るのは昼を過ぎた辺りだ。13時か、14時か。ついつい意気込んで早く来すぎてしまったが、家にいても『勉強しろー』と言われるだけなので、良しとする。
パドックを回る馬たちを眺めていると、やっぱり馬好きだ―っと思って、胸がドキドキと高鳴ってしまう。
青鹿毛馬がカツカツと蹄を鳴らして亜希の前にやって来た。艶やかな黒い毛並みが美しく、胸がきゅんっとなる。
(かっこいい‼)
触りたい。撫で回したい。抱き着きたい!
弾むようなリズムで歩く度に大きく揺れる長い尾が、亜希の目を釘付けにした。
(めちゃくちゃ握りたい! いや、ブラッシングさせて欲しい!)
馬の名前が知りたくなって、入口で手に入れた競馬新聞に視線を落とした時だった。
肩をとんっと叩かれる。亜希は、はっとして振り向くと、目の前の顔が別の顔と重なって見えた気がして思わず大声を上げた。
「爸爸!」
「ぐはっ‼」
見上げるほど背の高い男が体を仰け反らせて、両手で顔面を覆った。
「亜希ちゃんから先制攻撃を喰らった!」
「城戸さん、爸爸でしょ! なんですぐに気が付かなかったんだろう。ずっと会っていたのに!」
まるで不意打ちのように気が付いて、そして気付いてしまったのなら、そうとしか思えなくなるから、なぜ今まで気付かなかったのだろうかと悔しく思う。
地団太を踏んで悔しがる亜希に城戸は破顔して、顔を覆っていた手で亜希の頭をわしゃわしゃと撫でた。
亜希は恨めしげに城戸を上目遣いに見やる。
「城戸さんも日岡さんの本を読んだの?」
「ざっとな」
「あの本のこと、呪いの書だって言ってたよね? どういう意味? 夢を見るようになるから?」
「あー」
城戸は低く唸り、亜希から視線を逸らした。パドックを回る馬たちに視線を向けて、柵に体重を預けるように寄り掛かる。
「呪いは、本と言うよりも、あいつにかけられているんだ」
「あいつ?」
城戸がそう呼ぶ相手は、きっと日岡のことだ。
(日岡さんに呪いがかけられている? ……さっぱり分からない)
呪いだの言われて、急にオカルトチックになってしまったことにも、かなり戸惑う。