43.5つの花
不満をぶつけるように言えば、律子は羽扇の陰で小首を傾げる。
「その方がびっくりしてくれると思ったの。びっくりして貰えたかしら?」
「はい! とってもびっくりしました!」
「それに、亜希ちゃんが気付くまで黙ってる約束なのよ」
「約束? いったい誰と?」
「それは内緒」
ふふふっと律子は肩を揺らして笑った。そして、ふっと真顔をつくって言う。
「こうして亜希ちゃんと会えたのだから、今の状況をどうにかしなきゃいけないわね。でないと、早苗ちゃんが大変だもの。亜希ちゃんは3巻のこの辺りの内容は読んでいるのかしら?」
「まだです。でも、市川から聞きました。蒼潤は側室たちの前で服を脱いだんですよね?」
「ええ、そうなの。夢の中でも、亜希ちゃん、脱いでみる? それで解決すると思うけれど」
亜希は、むうっと顔を顰めた。
「その前に梨蓉に聞きたいことがあるんです。梨蓉って、蒼潤のことが疎ましくないんですか?」
だって、梨蓉は峨鍈に最も愛されていた妻で、彼の子供だって何人も生んでいる。それなのに、蒼潤のせいで正妻の座を奪われてしまったのだ。
もし自分だったら、と想像してみるのだが、どろどろとした嫌な気持ちしか湧かない。
もちろん梨蓉は亜希とは比べ物にならないくらい、よくできた女性なのだろうけれど……。
亜希に問われて、律子の意識を持った梨蓉は、ふふふっ、と羽扇の陰で笑みを溢した。
「亜希ちゃん、私が亜希ちゃんを嫌っているように思う?」
「え?」
短く声を上げて梨蓉の顔を見やる。
瞬時に思い出したのは、図書室で初めて出会った時の律子だ。
初めから律子は亜希にも早苗にも気さくで、好意を向けてくれていたように思う。
会えばいつも笑顔で亜希たちの話を聞いてくれて、亜希たちと一緒になっておしゃべりしてくれる。彼女はまるで年の離れた友人のような存在だ。
亜希は梨蓉の顔を見つめながら、頭を左右に振った。
すると、梨蓉は、うん、と笑顔で頷いた。
「大好きよ、亜希ちゃん。だからね、梨蓉も天連殿が大好きなの」
嘘偽りのない笑顔で、はっきりと言われて、亜希はホッと胸を撫で下ろした。
「よかった。私も律子さんも梨蓉も大好きだから、嫌われていたり、憎まれていたら、嫌だなぁって思ってました」
「そうなのね。ありがとう。嬉しいわ。――だけどね、亜希ちゃん」
律子は僅かに悲しそうな表情を浮かべ、不穏な響きを含ませて言葉を続ける。
「梨蓉も女なの。何も感じていないわけではないわ。殿が、新しい妻を迎えに行くと言って出掛けたきり2年も帰って来ないとなると、さすがに不安だったわ。殿が後継は驕だと約束して下さっても、いつか蒼家の正室が殿の息子を産んでしまうのではないかと嫌な考えも抱いてしまったの。――でも、梨蓉は、殿の理解者のひとりで、戦友ですからね。殿の決断を信じて、ぐっと耐えるのよ」
「戦友?」
「ええ、運命共同体ですもの」
峨鍈が志半ばで倒れるようなら、梨蓉も梨蓉が産んだ子供たちも命さえ危ぶまれるような危機に陥るが、峨鍈が栄光を掴めば、梨蓉もその恩恵を受けることができ、彼女の息子が峨鍈の跡を継ぐ。
それを運命共同体だというのなら、そうなのだろう。
そして、この乱世を共に生き抜くための戦友なのだと言い切った律子は――いや、梨蓉は、輝くばかりの自信に満ちていて、その想いこそ梨蓉の自負なのだと分かった。
それなのに――。
亜希は蒼潤の胸が、さぁーっと冷えていくのを感じた。
蒼潤の意識が亜希を退けて前に出て、そして、すっと冷めた視線を梨蓉に向ける。その視線を受けて、梨蓉の表情も変わった。律子の気配が遠ざかり、そして、感じられなくなった。
「運命共同体? 夫婦は運命共同体だと貴女は言うが、妻が自ら何かを為しえることはなく、夫によって幸か不幸かを決められてしまうのが、女だ。女は男の為すことを黙って受け入れ、望まれた時にだけ寵を受け、また寵を拒絶することもできない」
それが、この世界で生きる女の姿だとしたら、蒼潤は女を哀れに思う。
男でありたい。早く男に戻りたい。このままずっと女として生き続けたくはない。
「一人の男の寵だけを頼りに、他の女たちと争い、奪い合う。子を授かれば、その子の将来を生き甲斐にする。女の幸せって何なのだ? 夫に尽くし、子に尽くし。自分は? 何のために生きている? 男を慰めるためか? 子を産むためか?」
「天連殿」
梨蓉が穏やかな声を室の中に響かせる。頭を左右に振って、そして、まっすぐに蒼潤を見つめる。
「女の幸せは、女にしか分かりません。男子である天連殿が知る必要がありますか? ――いえ、言葉を誤りました。幸せのかたちは、各々異なるのです。他人には理解し難いものであっても、その者は幸せなのです」
「……」
「少なくとも私は私の生き方の中に幸せを見出しています。とても生き甲斐を感じています」
「それは、いったい……」
「私の幸せのかたちを知ってどうするのです。天連殿は天連殿の生き方の中に天連殿の幸せを見出すべきです。与えられた人生をどのように生きるかは、自分次第なのですから」
さあ、と言って梨蓉は手のひらを打ち鳴らし、侍女を呼んだ。この話題はここまでだと言うかのように。
「他の側室たちを呼びましょう。挨拶を受けてください」
梨蓉は侍女に命じて側室たちを呼びに行かせる。
無言で側室たちの訪れを待つ間、蒼潤は拳をぐっと握り締め、両膝に押し付ける。
蒼潤は、何ひとつ納得することができず、梨蓉の言葉を呑み込むことができなかった。
おそらく蒼潤は思いたいのだ。女は男の道具として生きることしかできず、哀れだ。
女としての生き方を捨てることができれば、もっと自由に生きられるのに、と。
――もっと自由に。もっと自分らしく。
男にさえ戻れば、自分はもっと大きな幸福を手に入れられる、と。
回廊から衣擦れの音が聞こえ、その音が梨蓉の私室の前までやって来ると、凛とした声が響いた。
「大姐さま」
蒼潤が室の入口に視線を向けると、衣擦れの音と共に華やかに着飾った女たちが室の中に入ってきた。
蒼潤は上座に座ったまま目を見張る。春の景色が室の中で広がったかのように艶やかな4人の女たちが蒼潤の前に並んで、頭を垂れた。
「よく来てくださいました。貴女方を、こちらの方にご紹介させてください」
梨蓉が4人の女たちに告げると、彼女たちはちらりと蒼潤に視線を向けた。
なぜ、少年がこんなところに、しかも、この室の主である梨蓉よりも上座に座っているのだろうか。そんな疑問を浮かべた様子が見て取れる。
それにしても、美しい女たちだ。
以前、峨鍈は梨蓉を蝋梅に喩えて詩を贈ったことがある。2人がかなり若かった頃の話である。
どういった経由か、その話を伝え聞いた楊夫人が、自分にも詩を詠んで欲しいと峨鍈にねだった。こちらの話も蒼潤が峨鍈と出会う以前の話した。
そして、峨鍈は5人の妻たちにそれぞれ、花に喩えた詩を贈ったのだという。
梨蓉は蝋梅。
嫈霞は茉莉花。
明雲は梔子。
雪怜は山茶花。
楓莉は月季。
その5つの花が今まさに蒼潤の目の前に並んでいた。
見惚れたようになっている蒼潤に向かって、梨蓉がひとりひとり名を呼んで紹介する。
「こちらが第3夫人の栄夫人。その隣が第4夫人の怏夫人。そして、第5夫人の羅夫人。第6夫人の楊夫人」
名を呼ばれ、彼女たちは流れる動作で蒼潤に向かって礼をした。
――ただ、頭を下げるだけの動作だ。それなのに、どうしてと思うほど、その流れは美しい。
梨蓉もそうだが、峨鍈の選ぶ女は皆、気高い。 きっと芯のある女性が彼の好みなのだろう。
彼女たちの挨拶が終わり、視線が自分に集まったことを感じて蒼潤はゆっくりと口を開いた。
「先日はわざわざ訪ねて来られたのに無礼申し上げた。許して頂きたい。――私が深江郡主だ」
男の為りをしていて、どう見ても少年である。側室たちは驚愕して目を見張り、蒼潤の姿を見つめた。
蒼潤は言葉を続ける。
「先に無礼を働いたのは、わたしだが、わたしは郡主で、正室だ」
言いたいことが分かるか、と蒼潤は側室たちを順に見渡した。
「よもや、侍女が独断でやったことだとは言うまいな。もしそうであるなら、侍女の管理をしっかりしろ」
側室たちの頭が下へ下へと下がっていく。
おそらくこれで蒼潤に対する嫌がらせはなくなるだろう。そして、きっとこれが峨鍈が望んだ通りの解決だ。
蒼潤は正室という立場を側室たちに知らしめて、釘を刺したのだから。
だが、蒼潤はこれで解決だとはしたくなかった。蒼潤も、そして、亜希も少しも納得できていない。
「お前たちは伯旋の妻だ。彼の寵を失えば、存在意義を失う。だから、俺を恐れた。郡主である俺を。伯旋が焦がれ、欲した血を持っている俺を恐れたんだ。俺に対する嫌がらせは不安の表れなのだろう。寵を失うかもしれない、生きている意味を失うかもしれないという」
――高い塀の中に一生閉じ込められ、ただ息をして生きているだけの忘れられた存在になるかもしれない。
彼女たちにとって、夫の寵を失うということは、そういうことだ。
「だが、俺はお前たちの脅威にはなり得ない」
蒼潤は己の襟元に両手を添えると、思いっ切り襟を左右に開いた。
バサリ、と衣が落ちて、息を呑む音が響いた。
「俺を恐れる必要なんてない」
「天連殿……」
梨蓉が色を失った顔で蒼潤を見上げている。 他の側室たちも言葉なく、蒼潤を見上げていた。
「俺はお前達と伯旋の寵を争う気はない。――俺は男だ」
【メモ】
峨鍈の妻たち
第一夫人(正室)…蒼夫人。蒼潤。
第二夫人…董夫人。梨蓉。蝋梅。
第三夫人…栄夫人。嫈霞。茉莉花。
第四夫人…怏夫人。明雲。梔子。
第五夫人…羅夫人。雪怜。山茶花。
第六夫人…楊夫人。楓莉。月季。