42.董梨蓉
「誰?」
6つくらいだろうか。幼い男の子が大きく瞳を見開いて亜希を見る。
「君こそ、どこの子?」
男の子が亜希の方に駆け寄って来たので、亜希は腰を屈めて男の子と視線を合わせて尋ねた。
身なりの良い格好をしている。どこかの名家の息子といった風情だ。
幼いながら精悍な顔立ちをしていて賢そうだと思いながら目を合わせていると、ぽっと男の子の頬が赤く染まった。
(可愛い)
亜希はにっこりと微笑んだ。
「私は――ええっと、夏昂というんだ」
「ぼくは峨驕だよ」
「峨?」
亜希は体を起こして眉根を寄せた。もしかして、と再び男の子の顔をまじまじと見つめる。
すると、別の方向から遠慮がちな声が聞こえた。
「あのう……」
10歳くらいだろうか。髪を二つに分けてお団子を結った少女だ。
「驕の新しい遊び相手ですか?」
見たところ、この少女が子供たちの中で一番年上だろう。他の子供たちは、その少女の背中に隠れるようにして亜希の様子を窺っていた。
少女と驕という男の子は顔立ちがそっくりだ。おそらく姉弟だろう。
他にも3人ほど似たような顔立ちの子供がいる。それ以外の子供たちは、身なりからして遊び相手として連れて来られた使用人の子供だと思われる。
亜希は少女の問いに首を横に振った。
「違うけど、君たちは伯旋の子供? 君はなんて名前なの?」
「私は、琳。――貴方、父上と親しいの?」
親しい間柄でなければ字では呼ばない。だが、どう見ても夏昂と名乗った少年は、自分の父親とは年齢が離れすぎていると、少女は不審を抱いたようだった。
一方、亜希は峨鍈の子だと理解して改めて子供たちの顔を順に見やり、なるほど、みんなそれぞれどことなく峨鍈に似ているなと感慨深く思っていた。
「そうか。あいつ、子供がいたんだな」
考えてみれば、側室が5人いて、妾も20人いれば、子供がいないわけがない。
第一、跡取りに困っていないからこそ正室に男を迎えられるわけなのだ。
「ねぇ」
袖を引かれて、亜希は驕に振り向いた。
「父上の知り合いなら、悪い人じゃないよね? だったら、ぼくたちと遊ばない?」
思ってもみない申し出に亜希は目を瞬かせる。正直、こんなところで遊んでいて良いのだろうかと疑問だ。
峨鍈には私室に戻れと言われているし、側室が生んだ子供たちと遊んだと知られたら徐姥たちに呆れられそうだ。
亜希が答えに詰まっていると、驕が、こてんと可愛らしく小首を傾げた。
「だめ?」
「いいよ!」
つい、反射的に、しかも食い気味に応えてしまった。
早苗といい、可愛い相手からの頼み事には弱い亜希だ。驕のぷにぷにした頬を指先に突っついて笑った。
「じゃあ、鬼ごっこをしよう! 道具とかいらないし、ルールが簡単だからね」
「鬼ごっこ?」
「るーる?」
あちらこちらで疑問符が沸いたが、子供たちは瞳を輝かせて亜希の言葉に耳を傾ける。
突然現れた年上のお兄さんが遊んでくれると言っているのだ。何が始まるのだろうかと、子供たちがわくわくと期待に胸を膨らませている様子が見て取れた。
「私が鬼になって、みんなを捕まえようとするから、みんなは逃げるんだ。それで、私に捕まってしまった人は……ええっと……」
亜希は中庭にぐるりと視線を巡らせて、一番大きな木に歩み寄ると、その幹に触れながら言った。
「こうして、この木のところで待機。まだ捕まっていない人が助けに来てくれるまで、この木のところにいなきゃだめだよ。どうやって助けるかって言うと、こうして――」
説明しながら亜希は一番近くにいた驕の肩を、とんっと軽く叩いた。
「鬼の私に捕まってしまった人は、他の子に触れて貰えたら、また逃げることができるんだ。――いい? 全員、私に捕まってしまったら、遊びはおしまい。私の勝ちね。私が、もう疲れた、降参! ってなった時にひとりでも逃げ切っていたら、みんなの勝ちだよ」
わかった、と子供たちが口々に言うのを聞いて、亜希は手を打ち鳴らした。
「じゃあ、始めるよ。逃げて!」
わぁーっと子供たちが一斉に駆け出して散らばった。20人くらいいて、年齢はバラバラだが、みんな亜希より年下だ。
足の速さが自慢の亜希にとって、20人の子供を捕まえるくらい簡単だった。
とくに幼い子たちは即行で捕まえられてしまうので、捕まえた時にはギュッと抱き締めてやって、亜希が夏銚にやられているように、ぐるりと回転して小さな体を振り回してやった。
小さい子たちは、きゃっきゃっ言って喜んで、わざと捕まりに近付いてくる子までいる。
琳が既に捕まってしまった幼い子たちに歩み寄って、その肩に触れようとしているのが見えた。駆け寄って、琳を捕まえることは容易かったが、亜希は見て見ぬ振りをして、みんな逃がしてやった。
わぁっ、と再び中庭に散った子供たちに亜希は、あははははっと高らかに笑って、子供たちを追い駆けた。
――その時だ。凛とした声が響いた。
「とても楽しそうですね」
女性としては、やや低めの、とても落ち着いた声だ。
驚いて振り向くと、西宮の一室から柳色の深衣を纏った女性が、羽扇を顔の前にかざしながらゆっくりと姿を現した。
「母上!」
そう声を上げたのは驕だ。一目散に駆け寄っていく。琳もにこにこしてその女性に歩み寄った。
亜希は階の上に立つ女性を見上げて立ち尽くす。
(だれ……?)
驕や琳が峨鍈の子で、その2人が母と呼ぶ女性ならば、彼女は峨鍈の妻の誰かだ。
(誰だ?)
蒼潤の侍女たちが争っているのは、主に楊夫人の侍女たちだ。
楊楓莉。第五夫人で、夫人の中で蒼潤と一番年が近く、20代前半の年齢だ。
だが、目の前の女性は――若くは見えるが――30は越えていそうだ。すると、楊夫人だとは考えにくい。
驕や琳に微笑みかけ、言葉を交わしている彼女の顔をじっと見つめていると、亜希の視線に気付いた彼女がゆっくりと振り向いた。
そして、瞳を大きく見開く。
「まあ!」
ゴトンっと羽扇を手から落とし、履も履かずに庭に下りて亜希に駆け寄った。
まるで逃すまいとするかのように、がしっと亜希の腕を掴んで言う。
「やっとお会いできましたね」
目が合うと、彼女の茶色を帯びた澄んだ瞳に蒼潤の驚いた顔が映って見えた。その瞬間、亜希は、あっと短く声を上がる。
まったく似ても似つかぬ顔が、目の前の女性に重なって見えた。
似ても似つかぬとは言え、どちらも美人で、落ち着いた雰囲気を纏った女性だ。賢そうではあるが、それを鼻にかけた様子はなく、むしろ口を開けば、親しみを抱かせる言葉だけが飛び出てくる。そんな女性を、亜希は現実世界でも出会っていた。
(――律子さんだ!)
叫びそうになった口を、ぐっと閉じたため、亜希はおかしな表情になる。
すると、律子と同じ雰囲気を纏った目の前の女性がくすくすと笑い声を立てて、亜希の腕を引いた。
「わたしの私室にいらして。話をしましょう」
亜希は、こくんと頷いて腕を引かれるままに身を任せる。履を脱いで階を上がると、室の中に入る。
後ろの方で驕をはじめ、子供たちが不満げな声を上げたが、彼女は亜希を室の一番奥に座らせた。
「あの……。貴女は?」
司書教諭の律子だ、と思いながらも亜希は彼女に向かって名前を尋ねた。
すると、彼女はにっこりと微笑んで亜希の正面に腰を下ろしてから答える。
「董蓮と申します」
「えっ、董蓮?」
聞き覚えのない名前に驚くと、彼女は先程落とした羽扇を侍女から受け取って、それで微笑みを浮かべた口元を覆い隠した。
「字は、梨蓉です」
「梨蓉!?」
ばっと腰を浮かせ、思わず大声を上げる。
「梨蓉って、字だったの!?」
峨鍈が『梨蓉』と呼ぶし、小説では地の文でも『梨蓉』と記されている。
そんな彼女は、峨鍈が大恋愛をして迎えた妻だ。
どういう人なのだろうかと、ずっと思っていた。会ってみたいと。
だけど、タイミングが悪くて梨蓉からの最初の挨拶を受けることができなかったために、そのまま会うことさえできずにいたのだ。
その後、蒼潤の侍女と側室たちの侍女の間で争いが始まってしまい、ますます会いづらい状況になっていたのだが、こんな思いがけないタイミングで、梨蓉と会えるなんて!
亜希は腰を浮かせた状態で梨蓉を見つめ、そのまま身動きが取れなくなった。
30半ばくらいの年齢だろうか。峨鍈と年齢が近いように思う。
すらりと伸びた細身の体はしなやかで、ひとつひとつの仕草がとても美しい。これが峨鍈の好みなのかと思った。
梨蓉が片手を上げて、室の中から侍女たちを全員下がらせる。ふたりきりになると、梨蓉は相好を崩して亜希の名前を呼んだ。亜希ちゃん、と。
亜希は思わず立ち上がって、梨蓉を見下した。
「やっぱり律子さんだ!」
「ふふふっ。やっと会えたわね」
「えっ、えっ!? どうして、律子さん!?」
亜希は再び床に膝を着くと、両手も床について梨蓉の方に身を乗り出す。
「長かったわ。ずっと、ずっと、亜希ちゃんのことを待っていたのよ?」
「どういうことですか!? 私、ほんと、さっぱり分からないです! ――っていうか、どうして黙っていたんですか!? 私と早苗で夢の話をしましたよね? なんであの時に教えてくれなかったんですか!」
自分だって同じ夢を見ていたくせに黙っていたなんて!
【メモ】
呂姥
蒼潤の姥。
普段はおっとりしているが、蒼潤に対する想いが深いので、覚醒したかのように熱くなる時がある。
夫を戦で亡くした年に、幼い息子も病で亡くしている。茫然自失となって互斡城の大通りをふらふらと歩いていたところ、蒼昏に拾われた。
呂姥にとって蒼潤は、己が生きる理由であり、生き甲斐。
玖姥
3人の姥の中で一番年若い。30手前の年齢で、17の時に一度商家に嫁いでいた。
とても自立した女性で、その賢さを夫から疎まれて一方的に離縁される。
実家に出戻ってきた娘を恥じた両親からも絶縁され、家を追い出された彼女は、その足で蒼昏を訪ね、仕えさせて欲しいと願い出た。
元夫も、実家の両親も、とにかく世の中すべてを見返してやりたいと蒼昏に訴え、雇い入れて貰った強者。
姥…本来は『年配の女性』、要するに『おばあちゃん』という意味である。
まだ若い姥たちだが、この先、誰にも嫁ぐつもりはなく、生涯をかけて蒼潤に仕え続けるという意思を持って、『姥』と蒼潤に呼ばせている。