41.正室として治めてみせろ?
峨鍈が亜希に向かって手を伸ばしてきて、指先で亜希の左耳の縁をなぞるように触れてくる。
「男も女と同じだ。男の中にも争いはある」
「それはあるだろうさ。だから、戦が起きる」
亜希は身を捩って峨鍈の手を振り払った。
峨鍈が苦笑し、懲りずに手を伸ばして亜希の頬に触れる。
「戦にもならない陰惨な争いもある」
「インサン?」
すぐには漢字が思い浮かばなかった。その意味も。
だけど、きっと、陰気で惨いという意味だろう。早苗に言わせれば『どろどろ』といったところだろうか。
「女の戦いは女に任せておけと言いたいところだが、お前の場合、そういうわけにはいかないだろう。今、お前が前にしているものは、女の戦いではなく、お前の戦いだ。此度は相手が女だというだけだ」
峨鍈の手が頬を撫でて、それから首筋に触れて、その手が頭の後ろに移動していったと思った次の瞬間、彼の顔が近付いて来たので、亜希は咄嗟に思いっ切り顔を反らした。
(――っ!?)
息が止まるかと思うくらいに驚いて、胸が跳ね上がった。
それから、しばらくドキドキが止まらず、胸元を拳で押さえつけて、亜希は体を強張らせる。
(避けなかったら、絶対にキスされてた!)
亜希は、ひいいいいいーっと心の中で悲鳴を上げる。
峨鍈はくちづけを避けられたことを気にする様子はなく、平然とした顔で話を続ける。
「王宮の人間関係は、更に陰惨なものだぞ。これくらいどうにかできないで、玉座に着けるものか」
峨鍈の声が亜希の耳元で静かに響く。先程まで二人とも床に座していたのだが、峨鍈の体はほとんど亜希に覆いかぶさっていた。
「女さえ御すことができずに、男を制することなど適うまい。郡城ごときで手に余るようなら、皇城では話にもならんな」
煽るような言い方に亜希は顔を青ざめる。ふっと峨鍈の体温が遠ざかって、峨鍈が蒼潤の私室を出て行った。
亜希は蒼潤の両手で拳を握り、だんっと床に叩き付ける。何も言い返せなかった悔しさが、行き場を求めて暴れていた。
「天連様……」
ずっとそこで見守っていた徐姥が、そっと口を開いて呼び掛けてくる。
「徐姥、俺は――」
亜希の意識を押し退けて、蒼潤が再び拳を床に打ち付ける。何度も。何度も。
床に穴が空くのではないか、さもなければ、蒼潤の拳が砕けてしまうのではないかという強さで。
「――俺は、女であらねばならぬ、この身が憎い!」
そんな蒼潤の姿を心の中の一歩後ろに引いた場所から眺めて、亜希の胸はひどく痛んで、苦しくて、悲しくて、目を背けたくなる。
だけど、亜希の目は蒼潤の悲痛な姿に縫い留められてしまったかのように、けして逸らすことができなかった。
△▼
亜希は宮城を抜け出して、郡城の孔芍の執務室を目指して歩いていた。柢恵が孔芍の執務室を間借りして仕事をしているからだ。
そのうち峨鍈の頭脳と言われた天才軍師になる柢恵も、今はまだ未成年の子供で、自分の執務室は貰えず、孔芍の補佐として彼の保護下に置かれていた。
「市川?」
孔芍が不在なのを確認して、入口の衝立の外から声をかけた。
市川ではなかったら、どうしようかと思ったが、文机から顔を上げた柢恵は、よう、と亜希に向かって片手を上げた。
「この辺りは3巻の内容だから、いろいろ大変だろう?」
「私より早苗の方が大変そう」
「だろうな」
亜希は文机を挟むように市川の正面に座った。それを見て、市川が敷布を文机の下から滑らせて寄越して来たので、それに尻の下に敷く。
「今朝も壁に落書きされてて、読めなかったけど、どっかの人が作った詩なんだって」
徐姥たちは隠そうとしたが、そう易々と消えるような落書きではなかったらしい。蒼潤への嫌がらせを目の当たりにして、亜希はどんよりとした気分になっていた。
市川は思い出したものがあったらしく、ああ、あれな、と頷いた。
「人を馬鹿にするような内容なんだってな」
「そうみたい。玖姥がすごく怒ってた」
「嫌な時の夢見たよな。俺は、戦がなくて気楽だよ」
「これって、いつまで続くわけ? うんざりなんだけど。本ではどうやって解決したの?」
「どうだったかな?」
確か……と市川は首を傾げて親指の腹で唇をなぞる。
「蒼潤が梨蓉の部屋に乗り込んだんだよ。自分は男だから、お前達と争うつもりはない、って」
そう言い、市川は襟の合わせ目を握り、それを広げる仕草をした。露出狂がコートの前が広げるような仕草だ。
「蒼潤、脱いだの!? 梨蓉の前で?」
「ガバッとな」
「なるほど。それ、私もやろうかな。――でも、それって、峨鍈が望んだ解決法じゃないよね。彼は蒼潤に、自分の正室として治めてみせろ、って言ってたじゃん。でも、男だから関係ない、争う気はない、って。それは違うよね?」
「そうだな。蒼潤は殿の考えが分かっていないんだ」
「だけど、峨鍈も蒼潤の気持ちが分かっていない。蒼潤は男でありたいのに、正室として解決しろだなんて無理だ。女じゃないのに、女の争いになんか首を突っ込みたくないよ」
夢の中では、蒼潤の想いが伝わってくる。本を読んでいる時には感じられない想いだ。
本は、峨鍈の都合ばかりが書いてある。どうして蒼潤を妻にしたのか。なぜ、蒼潤を女のままにしておきたいのか。それらはすべて峨鍈が天下を取るために必要だからだ。
蒼潤は峨鍈の企みなど知らない。
蒼潤は、女のままで生を終えたくないから峨鍈に従ったのだ。
男として生きたいから、峨鍈に身を任せたのに、どうして峨鍈はそんなことを命じられるのだろう?
――正室として治めてみせろ、だなんて。
蒼潤には、峨鍈がなぜそんなことを言うのか全く分からないのだ。
「私、男に生まれたかったから、蒼潤の気持ちが何となく分かるんだ。蒼潤はせっかく男として生まれたのに、女として生きなきゃいけないなんて、なんか、すごく哀れだ」
男であれば得られたはずのチャンスを、蒼潤も亜希も掴めないでいる。
手を伸ばすことさえ許されず、チャンスは次から次へと目の前を去っていく。
振り返れば、掴み損なったものがいくつも転がっていて、でも、それを取りに戻ることは許されない。いつだって人生は前に進むことしかできないからだ。
そんな自分たちに与えられるものは、女としての苦悩だけ。
なぜ自分はこうなのだろう?
いったい自分は何をしているのだろう?
ここは本当に自分のいるべき場所なのだろうか?
男である本来の自分は、こんなものではないはずだ。そう思って、空を仰いでしまう。
届くはずのない雲に手を伸ばしてしまう。
空を飛べる気がして、自分を地上に縛り付けている全てが憎らしくなる。
こんなものではないはずだ。自分は、もっと、きっと、もっと……。
「ここで、何をしている?」
不意に響いた声に顔を上げると、入口の衝立を避けるように峨鍈と孔芍が室の中に入ってくるところだった。
峨鍈の視線は亜希だけに注がれていて、大股で歩み寄ってくると、亜希のすぐ近くで腰を下ろす。
「調練には参加しないのか?」
「今日はそういう気分じゃなくて」
「何? 体調でも悪いのか?」
気遣わし気な表情で峨鍈が亜希の額に手を伸ばしてきた。その手を避けて亜希は、違う、と短く言って、尻を床に擦るように後ずさって峨鍈と距離を取る。
「今日は、柢恵と話がしたい気分だっただけだ」
「……ほう?」
目を細められ、めちゃくちゃ低い声で言われる。意味が分からないが、ぞっと背筋が冷えた。
「それで話は済んだのか? 調練に参加しないのなら室に戻っていろ」
疑問形で言ったくせに、柢恵との話はお終いだという圧をかけてくる。
(なんなんだ、いったい。勝手だな! ――っていうか、まだ終わってなかったんだけど!)
話まだ終わってないよねっ、と市川に振り向けば、市川が無表情でバイバイと手を振っていた。
くっ、と亜希は顔を歪めてから立ち上がる。不貞腐れたように足音を響かせて室から出て行こうとすると、その背を負うように峨鍈が声を掛けてきた。
「後で様子を見に行く」
「いいよ。来なくて!」
振り向いて亜希は舌を、べぇー、と出してから孔芍の執務室を飛び出した。
階をおりて履に足を通して、宮城に向かって駆ける。
郡城と宮城を繋ぐ門を抜けると、正面に北宮の門があり、左右に東宮と西宮に通じる道があった。
北宮の門は、以前、蒼潤を閉じ込めておくための――或いは、彼の身を守るための閂が差してあったが、今は開け放たれている。
北宮の門をくぐろうとして、亜希はふと足を止めた。
北宮を使用しているのは蒼潤のみで、梨蓉や他の側室たちは西宮の宮殿で暮らしていると聞いている。
なるほど。北宮の静けさに比べて、西宮からは賑やかな生活音が響いて来る。
その音の明るさに引き寄せられるように亜希は足を進めると、擦れ違う使用人の数が随分と多いことに気が付いた。
蒼潤の身の回りには、幼い頃から最低限の人間しかいなかった。それはもちろん蒼潤の秘密を守るためであり、信用できない者を遠ざけていった結果である。
なので北宮にはない賑わいに珍しさを覚えて、亜希は西宮の門をくぐって中庭に入った。
季節の花々が咲き乱れた庭は美しく、手入れがよく行き届いている。
それらを眺めていると、突然、あはははは、と子供たちの笑い声が響いた。甲高く響いたそれに子供たちが駆け回っている足音が重なる。
(えっ、子供? どうして子供が?)
疑問に思いながら一歩前に踏み込むと、転げるように遊ぶ子供たちの中のひとりが亜希の気配に気づいて、ぱっと振り向いた。
【メモ】
徐姥
徐彩。徐氏と呼ばれる蒼潤の乳母。芳華の実母。
母娘はあまり似ておらず、芳華が春の陽射しのような柔らかで暖かい雰囲気を纏っているのに対し、徐氏は常に凛として冬の早朝のような厳しさを抱いている。
3人の姥たちの中で一番年長。
蒼潤に従って互斡国を発つときに、夫と離縁している。元夫は蒼昏の従者。