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40.女たちの戦い


「なんということでしょう!」


 亜希はビクリと肩を揺らして玖姥くぼに振り返った。

 調練を終えて私室へやに戻ったとたん徐姥じょぼに捕まり、『今日は大人しく』と言われたにも関わらず私室を抜け出したことで長々と説教を喰らう。

 それがようやく終わり、徐姥がへやを出て行ったのと入れ代わるように、玖姥くぼがぷんぷん怒りながら蒼潤の私室に入ってきた。


「何? どうかした?」

「ええ。どうかしましたとも!」


 玖姥の拳がブルブルと震えている。


「これもすべて天連てんれん様がいけないのですよ。とう夫人が挨拶にいらした時、いらっしゃらなかったんですからっ!」


 玖姥は細い眉をきつく吊り上げて、悔しそうに言い放った。

 彼女は蒼潤に仕える3人のうばの中で一番年若い。30手前の年齢で、17の時に一度商家に嫁いだが、彼女はとても賢く自立した女性だったため、その賢さを夫から疎まれて一方的に離縁されてしまう。

 実家に出戻ってきた娘を恥じた両親からも絶縁されて家を追い出された彼女は、その足で蒼昏を訪ね、仕えさせて欲しいと願い出た。元夫も、実家の両親も、とにかく世の中すべてを見返してやりたいと蒼昏に訴え、雇い入れて貰った強者である。


「まさか不在の理由を、そのまま伝えるわけにはいかないではないですか。男のりで、調練に参加しているだなんて! なので、気分が優れないから挨拶は控えて欲しいとお願いしたのです」


 それはもう、下手したてに下手に、お願いしたのだと言う。

 だが、先方は蒼潤に悪意があると捉えたようだった。


「天連様が大変我が儘な方で、側室たちが気に入らないから挨拶を断ったと思われています!」

「悪意なんてないけど?」

「挨拶をしにわざわざ出向いたのに門前払いされたら、誰だって嫌われていると感じます。しかも、天連様は殿とのの正室です。正室が側室の挨拶を断れば、側室に嫉妬していて、嫌がらせをしていると思われてしまっても仕方がありません」

「嫉妬で嫌がらせ……ええっ、なんでそうなるの!?」

「なんでって、天連様はこの2年間ずっと殿を独り占めにしてきたのですよ。そこに、正室よりも先にお側にはべっていた側室たちが押し掛けてきたら、普通の正室は面白くありません」

「そういうもんなのかなぁ」


 よく分からないと呟いた時、ガタンッと私室の入口の方で物音が響いた。振り返ると、呂姥りょぼが衝立に両手を着いて、それに縋るようにしながらズルズルとその場に蹲っていく。


「どうしたの!?」


 亜希は驚いて呂姥に駆け寄ろうと腰を浮かせると、その前に呂姥が足を踏ん張るようにして立ち上がった。


「天連様……」

「ど、どうしたの……?」

「私、悔しいですっ‼」


 呂姥は両手で拳を握って、普段の彼女からは想像できない程の大声で叫んだ。

 呂姥は、普段はおっとりとした女性なのだが、蒼潤に対する想いが深いので、時々、覚醒したかのように熱くなる時がある。

 彼女にとって蒼潤は、主であると同時に我が子同然の存在だった。


 彼女は夫を戦で亡くした年に、幼い息子も病で亡くしている。茫然自失となって互斡城の大通りをふらふらと歩いていたところ、蒼昏に拾われた女性である。

 蒼潤がまだ首も座っていない赤子だった頃から仕えている呂姥にとって、蒼潤は彼女が生きる理由であり、生き甲斐なのだ。

 そんな呂姥が血走った目を亜希や早苗、玖姥に向けると、低めた声を腹の底から響かせて言った。


「先ほど、よう夫人の侍女が参りまして、明日、天連様の方から挨拶にいらしてくださいと伝えてきたのです」

「なんですって!?」


 亜希が呂姥の言葉を理解する前だった。ガッ、と玖姥が立ち上がった。


「え? 何?」

「天連様、呆けている場合ではございません! これは許し難い事態です!」


 玖姥の剣幕に驚いて早苗に視線を向けると、早苗もほんのりと頬に朱を走らせて怒ったような顔をしている。


「え、え、何事!?」


 訳が分からないと玖姥を見上げると、彼女は、いいですか? と人差し指を立てた。


「なぜ、正室が側室の私室へやに挨拶に出向かなければならないのですか。側室は正室の許しを得られるまで通い続けるものなのです。身の程をわきまえるべきです。――呂姥、すぐに楊夫人に断りを」

「抜かりありませんわ。すでに断っております。とんでもないことですもの! ――天連様は龍です。世が世ならば、このような場所に収まっている方ではございません! 今は甘んじて峨様の正室ですが、そうだとしても、ご身分は郡主です。深江郡主様なのです。無礼にも程があります!」


 めちゃくちゃ熱く語る呂姥に気後れを感じて早苗に目配せをすると、彼女はコクコクと何度も頷いた。

 早苗が身を寄せてきて、亜希の耳元で小声で囁く。


「女の戦いが始まるわよ。どろどろの」

「どろどろ……?」

「たしか、寝室に蛇を投げ込まれたり、猫の頭を入口に置かれたり」

「猫の頭? 頭だけ? 体どうした!?」

「そこ聞いちゃダメ!」

「そ、そうなんだ。――いや、でも、蒼潤はそれくらいじゃあ動じない人でしょ? 矢で脳天をつらぬかれたウサギだって平気で持てるじゃん」

「うん、天連様わね。だけど、普通は猫の頭なんて置かれたら恐いじゃない? 亜希はどうだか知らないけど、少なくとも私は怖いわ」

「怖いっていうか、猫が可愛そう……」

「とにかく呂姥も玖姥も怒っちゃって怒っちゃって。――で、やり返して、またやられて、やり返して……のエンドレス」

「やだなぁ、そういうの」


 良い時期の夢を見たと思っていたのに、ぜんぜん良い時期ではなかった。そんなどろどろに巻き込まれたくはない。

 不意に凛とした声が響いた。


「何を騒いでいるのですか?」


 どこに行っていたのか、徐姥が蒼潤の私室に戻ってきた。彼女は手を打ち鳴らして言う。


「殿のお越しですよ」


 まさかと思って亜希が私室の入り口に振り返れば、衝立の外に峨鍈が立っている。すぐに峨鍈がへやの奥まで入ってきて、場所を入れ代わるように呂姥たちは室を出て行った。

 すでに陽が落ちた室内は薄暗く、徐姥だけが残って室の隅で松明を掲げている。


「今夜は来ないかと思った」

「なぜだ? 調練に参加したのだろう? 怪我は?」

「ないよ」

「見せてみろ」


 峨鍈も引かないが、亜希だって必死に抵抗する。

 本物の蒼潤ならば、諦めて自ら衣を脱ぎ捨てるところだが、今の蒼潤は亜希である。衣を脱いで肌を晒すなんてできない。それがたとえ自分の本当の体ではないとしてもだ。

 しばらく睨み合っていると、不意に腕が伸びてきた。襟の合わせ目を掴み取られ、引き裂くような勢いで、襟を大きく開かれた。


「ぎゃああああああああああーっ!」

「騒ぐな。うるさい!」


 うるさいと言われたって、これが叫ばずにいられようか。強引過ぎる!

 蒼潤の肌が露わになって、峨鍈の指がその肌の上を滑るように触れてきた。


(ひぃー。蒼潤って、毎晩こんな目に合っているわけ!?)


 亜希は恥ずかしいやら悔しいやらで涙目になる。

 もう見せる場所なんてないというほど、峨鍈は蒼潤の体を丁寧に確かめていた。腕を取り、肩から指先まで。脹脛を持ち上げて、太腿から足の指先まで。


(恥ずかしい。何これ、めちゃくちゃ恥ずかしい!)


 亜希は両手を突っぱねて峨鍈の肩を押し、彼を遠ざけた。


「――もうやめて。もう無理。ほんと無理だから。それよりも、今夜もここで寝るの?」

「いや、梨蓉のもとに行く途中だ。今夜はそちらで休む。――気になるか?」

「ぜんぜん、まったく。むしろ、なんで?」


 嫉妬しているのかと聞かれた気がして、亜希は全力で否定した。

 峨鍈は亜希の反応を面白いと感じたらしく、くくくっと笑う。


「気に入った女はいたか?」

「まだひとりも会ってない」

「ひとりも? 挨拶に来ただろう? 挨拶を受けなかったのか?」

「ちょうど留守で」


 気まずそうに言えば、峨鍈は眉を歪めて、何があった? と尋ねてきた。

 何をどう説明すればいいのか亜希には分からず、それに何もかも面倒臭いと思って、亜希は首を横に振る。


「女って、面倒臭い。疲れる」


 正室だの、側室だの。

 どっちがどっちの部屋に行くだの、そんなこと、どうでもいいじゃないかと亜希は思ってしまう。


「だいたい、お前。なんで側室が5人もいるんだよ。めかけは何人だって? 20人? はぁ~? 多すぎだろう。ふざけんなよ?」


 この世界が一夫多妻制なのは承知している。正室の他に側室と呼ばれる妻がいて、人によっては妾もいる。

 妾は側室とはどう違うのかと不思議に思って早苗に聞けば、正室と側室は婚礼を挙げて婚家に迎え入れて貰うが、妾は婚礼を挙げずに囲われるのだという。

 だから、正式には妻ではなく、現代風に言えば、愛人なのだという。


 愛人を自宅にたくさん連れ込んでいるという感覚が、もはや亜希には理解できない。

 しかも、そのせいで、女たちの争いが繰り広げられようとしているのだ。


 理不尽な話だが、この世界では、たったひとりの男の寵を得るための女の争いが起きたとしても、当の男は口を出してはいけないことになっていた。

 女たちの争いを制するのは、正室の務めだ。


「めんどくせぇー」


 心の底から溢れ出たような正直な気持ちが口をつくと、峨鍈が顔を覗き込んできた。


「女たちと、うまくやれそうにないのか?」

「正直、関わり合いたくない」

「だが、そういうわけにはいかないだろう。お前は俺の正室なのだから、正室らしく、女たちを治めてみせろ」

「なんでだよ。俺は男なのに、女の争いに巻き込まれるなんて、まっぴらだ」


 ――男なのに。


 自然に出てきた言葉だった。

 きっとそれは、亜希が口にしたのではなく、蒼潤自身が言い放ったのだと思う。

 彼の言葉は、亜希の耳に悲痛に響く。心が締め付けられる思いがして、亜希は頭を左右に振った。















ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

「読んだよ!」のリアクションを頂けましたら、たいへん嬉しいです。

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